青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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四十話

体育祭のルールが発表された翌日の、放課後。

 

ホームルームを終えたDクラスの教室には、帰宅する生徒は誰一人としておらず、全体に少し硬い空気が漂っていた。

 

今日この後、体育祭に向けたクラスの方針を決める全体ミーティングが行われることが、あらかじめ平田や堀北から通達されていたからだ。

 

(……早くひよりのところに行きたいんだがな)

 

俺は自分の席に座ったまま、内心で小さくため息をついた。

 

今日の放課後も、当然のようにひよりと図書室で新刊のミステリー小説を読む約束をしている。

 

だが、最初から決まっていたクラスの話し合いを露骨にサボって帰るような、輪を乱す嫌な奴になるつもりもなかった。

 

何より、下着泥棒騒動の時などにいつもクラスのために一人で泥を被って奔走している平田の苦労を見ていると、自分だけさっさと抜けるというのも少し寝覚めが悪い。

 

「残ってくれてありがとう、呉くん」

 

話し合いの準備を進めていた平田が、俺の席のそばを通りがけに、ホッとしたような、どこか頼るような笑顔を向けてきた。

 

「呉くんみたいに冷静な意見を持ってる人がいてくれると、すごく助かるんだ」

 

「大げさだろ。……まあ、方針が決まるまではちゃんと付き合うさ」

 

俺が苦笑交じりにそう返すと、平田は嬉しそうに頷いて教壇の方へ戻っていった。

 

俺は端末を取り出し、ひよりに『クラスの話し合いが始まる。少し遅れる、本当にごめん』とメッセージを送る。

 

すぐに『大丈夫ですよ。図書室でゆっくり待っていますね』と可愛いウサギのスタンプ付きで返ってきて、俺の会議に対する面倒な憂鬱は一瞬で浄化された。

 

さて。

教室の前方では、すでに話し合いの準備が整っていた。

 

黒板の前に立ち、チョークを手にして書記役を務める平田。

 

そして、教卓の真ん中に堂々と立ち、クラス全体を見渡しているのは――堀北鈴音だった。

 

(……完全に『クラスのリーダー』としての顔になってるな)

 

無人島での特別試験。表向きには、堀北が自らの体調不良を利用してリーダー権をすり替え、他クラスのリーダーを見抜いてDクラスを勝利に導いたことになっている。

 

もちろん、その完璧なシナリオを描き、実行したのは、今も窓際の席で退屈そうに外を眺めている『影の支配者』綾小路清隆だ。俺と堀北だけがその真実を知っている。(高円寺なら気づいてる可能性もあるが)

 

だが、クラスの連中にとって、今の堀北は『Dクラスを1位に導いた天才的なリーダー』である。以前の孤立していた頃とは違い、彼女の言葉には確かな重みと説得力が備わっていた。

 

「みんな、聞いてちょうだい」

 

堀北の凛とした声が教室に響くと、ざわついていた生徒たちがスッと静まり返った。

 

「来月の体育祭、Dクラスは絶対に勝たなければならないわ。無人島や優待者試験で得たクラスポイントを無駄にしないためにも、そしてAクラスへ昇格するためにもね」

 

堀北は、黒板に書かれた競技一覧を指し示しながら、冷徹なまでに合理的な作戦を口にした。

 

「勝つためには、効率的な人員配置が不可欠よ。まず、運動神経の良い生徒には、体力の許す限り『推薦種目』に全て出てもらうわ。そして、最も重要なのは個人競技の『全員参加種目』……例えば100メートル走や障害物競走ね」

 

各クラスから2名ずつ、計8名で争われる個人競技。

堀北は、そこにクラスとしての『必勝法』を提示した。

 

「クラス内で足を引っ張り合わないために、個人競技の組み合わせは『足の速い生徒』と『足の遅い生徒』をセットにしてエントリーするわ」

 

「……なるほど」

 

俺は腕を組みながら、内心でその作戦を評価した。

 

非常に合理的だ。

足の速い生徒同士を同じレースに出せば、身内で1位と2位を争うことになり、ポイントが分散するリスクがある。

 

だが、速い生徒と遅い生徒を組み合わせれば、速い生徒は確実に上位を狙いに行ける。遅い生徒は、最初から上位を諦めて『速い生徒の邪魔をしない』、あるいは『他クラスの妨害をする』といった捨て駒(サポート)に徹することができる。

 

全体としての勝率を最大化するための、極めて冷酷だが正しい戦術だ。

 

「おうおう! それしかねえだろ!」

 

真っ先に賛成の声を上げたのは、体育祭というイベントに誰よりもノリノリな不良――須藤健だった。

 

「運動神経のいい奴が点数稼ぐのは当たり前だ! 俺は推薦種目全部出てやるぜ! 鈴音の言う通りにすれば間違いねえ!」

 

須藤は、堀北への惚れ込みっぷりを隠そうともせず、力強く拳を突き上げた。彼のような運動特化の人間にとっては、自分の見せ場が増え、かつ好きな女の役に立てるこの作戦は、まさに一石二鳥なのだろう。

 

「うん、僕も堀北さんの作戦が一番理にかなっていると思うよ」

 

平田もチョークを持ったまま、クラス全体を見渡して同意を示した。

クラスの空気が、完全に堀北の提案でまとまろうとしていた。

 

(よしよし。このまま決まれば、あと五分でひよりのところへ行けるな)

 

俺が帰る準備のためにカバンに手を伸ばした、その時だった。

 

「――ちょっと待ってよ」

 

教室に、少しだけ甲高い、不満げな声が響き渡った。

声の主は、Dクラス女子のヒエラルキートップに君臨するギャル――軽井沢恵だった。

 

「軽井沢さん。私の作戦の意味が、分からないのかしら?」

 

堀北が、少しだけ苛立ったように眉をひそめる。

軽井沢は、机の上に置かれていた自分の端末を一瞬だけチラリと見下ろしてから、堀北をキッと睨み返した。

 

「意味くらい分かるわよ! 足の速い人と遅い人を組ませるんでしょ? でもさ、それって……『足の遅い生徒は、最初から勝つ可能性が無くなる』ってことでしょ!?」

 

「……っ」

 

軽井沢の指摘に、足の遅い生徒たちの間に、ハッとしたような動揺が走った。

確かにその通りだ。体育祭の個人競技には、上位入賞で得られる『プライベートポイント』や『筆記試験の加点』という美味しい個人報酬がある。

 

堀北の作戦はクラス全体を勝たせるためのものだが、足の遅い生徒からすれば、最初から『お前は捨て駒になれ(報酬は諦めろ)』と宣告されているに等しい。

 

「クラスが勝つためよ。多少の個人の犠牲は仕方ないことだわ」

 

堀北が正論で切り捨てるが、軽井沢は一歩も引かなかった。

 

「犠牲って何よ! 足の遅い子だって、運が良ければ3位くらいに入ってポイントもらえるかもしれないじゃん! それを最初から潰すなんて、不公平すぎない!?」

 

「不公平? 己の能力の低さを棚に上げて、権利だけを主張する気?」

 

「なによその言い方!!」

 

教室の空気が、一気に険悪なものへと変わっていく。

 

平田が「ま、待って二人とも……」とオロオロと仲裁に入ろうとするが、二人のヒートアップは止まらない。

 

俺は、その口論を眺めながら、ある『違和感』に気づいていた。

 

(……軽井沢の奴、妙だな)

 

軽井沢恵という女は、基本的に『自分が可愛い』人間だ。自分の立場や利益が守られれば、足の遅い生徒がどうなろうと知ったことではない、という性格をしているはずだ。

 

それが、なぜあんなに必死になって「足の遅い生徒の権利」を代弁しているのか?

 

そして、最も不自然だったのは、彼女が発言する直前……一瞬だけ『手元の端末』に目を落としたことだ。

 

(誰かの指示か? 誰かに言われて、わざと堀北の案に反対しているのか?)

 

俺の視線が、自然と窓の外を見ている――綾小路清隆へと向かった。

 

あいつは相変わらず、我関せずといった顔で窓の外の雲を眺めている。だが、俺は知っている。船上での優待者試験の時、綾小路と軽井沢は同じ『兎』グループだった。そこで、綾小路が軽井沢の何らかの弱みを握り、自分の手駒として調教した可能性がある。

 

(だとしたら……あの反対意見は、綾小路が軽井沢に言わせていることになる。だが、一体何のために?)

 

俺が思考の海に沈みかけていると、軽井沢が突然、予想外の方向へと言葉を投げた。

 

「ねえ、櫛田さんはどう思う!?」

 

「えっ……!?」

 

突然話を振られた櫛田桔梗が、ビクッと肩を跳ねさせた。

 

「堀北さんのやり方って、冷たすぎると思わない!? 足の遅い子だって頑張りたいのにさ!」

 

軽井沢が、クラスのアイドル的存在であり、誰にでも優しい櫛田に同意を求めたのだ。

 

クラス中の視線が、一斉に櫛田へと集まる。

 

堀北の『冷酷な合理性』を支持するか、軽井沢の『弱者救済の感情論』を支持するか。

 

櫛田は、困ったように眉を下げ、おろおろと視線を泳がせた。

 

「わ、私? ええっと……その……」

 

櫛田は、胸の前で両手をギュッと握りしめ、いかにも『心優しい天使』といった顔で、絞り出すように答えた。

 

「う、うーん……。堀北さんの『クラスのために勝ちたい』っていう気持ちもすごく分かるし……でも、軽井沢さんの『みんなにチャンスをあげたい』っていう気持ちも、すごく大事だと思うから……。ごめんなさい、どっちの意見も分かるから、私には難しいね……」

 

誰の敵にもならない、100点満点の八方美人な回答。

 

櫛田のその言葉を聞いて、軽井沢は「チッ」と舌打ちをし、堀北は冷たい目で櫛田を一瞥した。

 

(……なんだ、今の茶番は?)

 

俺の頭の中で、疑問符がいくつも点滅していた。

 

綾小路が軽井沢を操っているのだとすれば。

なぜ、わざわざ軽井沢に『櫛田に意見を求める』ような指示を出したのか?

 

堀北の作戦を潰したいなら、もっと論理的な反論を用意させるはずだ。だが、今の軽井沢の行動は、ただ『櫛田に答えを迫るため』だけに反対意見をぶち上げたようにしか見えなかった。

 

(綾小路の狙いは……櫛田なのか? なぜ? 櫛田はただの良い子ちゃんじゃないか。あいつを揺さぶって、何の意味がある?)

 

俺の暗殺者としてのプロファイリング能力が、必死に答えを探す。

だが、どうしても最後のピースが足りない。

 

俺は知らないのだ。

櫛田桔梗という少女が、天使の仮面の下に、堀北鈴音に対する『底なしの憎悪』と、己の過去を知る人間を全て排除しようとする『真っ黒な裏の顔』を隠し持っていることを。

 

そして、綾小路がすでにその裏の顔を知っていて、彼女がこの体育祭でクラスを裏切ることを推測し、その反応を見るために軽井沢を使って揺さぶりをかけたという事実を。

 

前提となる『櫛田の裏の顔』という情報を持たない俺の推理は、当然のことながら行き止まりを迎えた。

 

「……ま、どうでもいいか」

 

俺は小さく息を吐き出し、思考を完全に放棄した。

 

綾小路が裏で何を企んでいようと、櫛田がどういう立ち位置にいようと、俺には一切関係のないことだ。俺の平穏が脅かされない限り、彼らの盤面を詮索する気はない。

 

「とにかく、私はこの作戦でいくわ。不満があるなら、代わりの必勝法を提示しなさい。……できないなら、多数決で決めるわよ」

 

堀北が強引に押し切り、平田の進行で多数決が採られた。

 

結果は、須藤をはじめとする男子の多くと、ポイント獲得を優先する現実的な生徒たちの賛成多数により、堀北の『速い生徒と遅い生徒を組ませる』作戦が採用されることになった。

 

軽井沢は不満そうにそっぽを向き、櫛田は「みんなが納得できるといいな……」と悲しそうに呟いている。

 

「よし、方針は決まったね。みんな、協力して頑張ろう!」

 

平田が爽やかに締めくくり、長かった放課後の話し合いはついに解散となった。

 

「お疲れ、平田。俺はもう行くからな」

 

「うん、残ってくれてありがとう、呉くん。助かったよ」

 

俺はカバンを肩に担ぎ、誰よりも早く教室を飛び出した。

 

血みどろの心理戦や、クラスの権力闘争など、今の俺の目には全く入っていなかった。

 

俺の頭の中は、これから会う、銀色の髪をした天使のことで完全に埋め尽くされていた。

 

廊下を歩きながら、自然と足取りが軽くなる。

 

図書室の扉を開けると、夕日に照らされた窓際の席で、本に視線を落とすひよりの姿があった。

 

俺の足音に気づいた彼女が、パタンと本を閉じ、世界で一番可愛い笑顔を向けてくれる。

 

「刃叉羅くん、お疲れ様です。……クラスの話し合い、大変でしたか?」

 

「いや、大したことなかったよ」

 

俺は彼女の向かいの席に腰を下ろし、深く、心からの安堵の息を吐いた。

 

「それより、待たせてごめんな。今日はどこまで読んだ?」

 

「はいっ、実は主人公が大きな謎に直面していまして……」

 

影の支配者の暗躍も、諍いも、全てはこの図書室の扉の外の出来事。

 

暗殺者の少年は、複雑怪奇な思考の海から抜け出し、愛しい天使の隣という絶対的な聖域で、穏やかで甘い日常のひとときを、心ゆくまで謳歌するのだった。

 

 

 

そして

体育祭のルールが発表され、クラスの方針が堀北の『効率主義』に決定した翌日の放課後。

 

俺たち一年Dクラスの生徒は、体育館の片隅に集められていた。

 

来月に行われる体育祭に向けて、各個人の正確な運動能力を把握し、誰をどの競技に割り当てるかを決めるための『体力測定』を行うためだ。

 

「よし、じゃあ次は握力の測定と、反復横跳びの記録を取るよ。みんな、順番に並んでね」

 

ジャージ姿の平田洋介が、クリップボードを片手にテキパキと指示を出している。

 

その横では、バスケ部のエースである須藤健が、早く自分の記録を見せつけたくてウズウズしているように腕を回していた。

 

「おうおう! 男子は俺の記録を基準にしていいぜ! どいつもこいつも、気合い入れていけよ!」

 

クラスの連中が真面目に測定の準備を進める中、俺――呉 刃叉羅は、壁際に寄りかかりながら、周囲の状況を冷静に観察していた。

 

俺は呉一族の暗殺者として、幼少期から極限の肉体改造と地獄のような修練を積んできた。

 

服を着ていればただの「少しガタイの良い高校生」に見えるかもしれないが、その実、俺の身体は鋼のような筋肉の繊維で隙間なく覆い尽くされている。本気を出せば、コンクリートの壁を素手で粉砕することも、100メートルを世界記録を凌駕する速度で駆け抜けることも造作はない。

 

だが、この学校でそんな人間離れした能力をひけらかせば、一瞬で面倒事に巻き込まれる。

 

だから俺は、入学当初から『平田と同等レベルの、そこそこ運動神経の良い生徒』というポジションに意図的に能力を抑え込んでいた。体育の授業でも水泳でも、平田と同じくらいのタイムを出し、彼と同じくらいのウェイトを上げる。それが、この学校で最も目立たず、かつ不自然に思われない『完璧な保護色(カモフラージュ)』なのだ。

 

「……ふふっ。美しい私の指先に、無骨な鉄の器具を握らせるなど、言語道断だねえ」

 

ふと隣を見ると、変人・高円寺六助がベンチに優雅に腰掛け、測定には一切参加せずに、ヤスリで自分の爪を丁寧に磨き上げていた。

 

「おい高円寺! お前もサボってないで測れよ! 推薦種目出なきゃならねえんだからな!」

 

須藤が怒鳴りつけるが、高円寺は「ふははは!」と高笑いして完全に無視している。

 

(相変わらずのマイペースっぷりだな。まあ俺には関係ない)

 

俺は高円寺から視線を外し、測定の列へと並んだ。

 

「うりゃあああっ!!」

 

先頭に立っていた須藤が、デジタル式の握力計を力任せに握り込んだ。

ピピッ、と電子音が鳴り、液晶画面に数字が表示される。

 

「82.4キロ! さすが須藤くん、すごいね!」

 

平田が目を丸くして記録を書き込む。高校一年生で80キロ超えは、間違いなく全国トップクラスの数字だ。

 

「へっ、こんなもんだろ。俺を推薦種目に全部入れとけよ、平田」

 

「うん、助かるよ。……じゃあ、次は綾小路くん、お願い」

 

須藤から握力計を渡されたのは、無気力な影の支配者・綾小路清隆だった。

 

綾小路は、握力計を無表情で見つめた後、ふと隣にいた須藤に向かって、極めて平坦な声で尋ねた。

 

「なあ、須藤。高校生の男子の平均というか……大体どれくらいなんだ?」

 

唐突な質問に、須藤は面倒くさそうに頭を掻きながら答えた。

 

「ああ? 知らねえよ。……まあ、だいたい60キロくらいだろ?」

 

「……なるほど。60くらいか」

 

綾小路は小さく頷き、須藤のその適当すぎる言葉を完全に真に受けた。

 

そして、握力計を右手で持ち、まるでただの林檎でも軽く握るような、全く力みのない自然な動作で、ギュッとそれを握り込んだ。

 

ピピッ。

 

「えっと……なっ!?」

 

液晶画面を覗き込んだ平田が、素っ頓狂な声を上げた。

 

「ろ、60.6キロ……!? 綾小路くん、力強いんだね!?」

 

平田の驚きの声に、クラスの男子たちが「マジかよ、綾小路が!?」「あいつ、意外とすげえじゃん!」とざわめき始めた。

 

当の綾小路は、騒ぐ周囲を不思議そうに見回し、無表情のまま平田に尋ねた。

 

「……平均くらいじゃないか?」

 

「えっ? 平均はもっと低いよ。だいたい40キロ〜45キロくらいじゃないかな?」

 

平田が苦笑いしながら訂正する。

 

その事実を聞いた瞬間。

綾小路の能面のような顔の奥で、カチャリと何かが切り替わる音がした。

 

(……須藤のことは、もう信じない)

 

綾小路は内心で固くそう誓い、静かに列を離れた。

 

(……アホか、あいつは)

 

俺は、その一連のやり取りを見て、思わず額に手を当てて天を仰ぎそうになった。

 

須藤の適当な「60キロ」という言葉を信じ、その直後に寸分違わず『60.6キロ』という数字をピタリと出力してみせる。

 

本人は「平均的な記録を出してうまく誤魔化した」つもりだったのだろうが、そのやり口はあまりにも機械的で、人間味がなさすぎる。

 

俺は自分の番が来ると、適度に歯を食いしばる演技をして「62.1キロ」という、そこそこの数値を叩き出し、無難に測定を終えた。

 

全員の測定が一段落し、平田たちが記録の集計に入っている隙を見て。

俺は、壁際で一人佇んでいた綾小路の元へと歩み寄り、周囲に聞こえない声で話しかけた。

 

「よっ」

 

「……なんだ、呉」

 

「お前さ、前から思ってたけど……その肉体で『平均くらいの運動能力』って言い張るのは、逆に違和感しかないぜ?」

 

俺が指摘すると、綾小路は微かに眉をひそめた。

 

「どういうことだ?」

 

「水泳の授業や更衣室で、お前の身体を見る機会は何度かあったからな。……お前のその無駄一つない仕上がった筋肉を見れば、違和感を覚える奴がいるんじゃないか?」

 

綾小路は自分の腕を少しだけ見下ろし、数秒間、スーパーコンピューターのような脳髄を回転させているようだった。

 

「……確かに。その視点はなかったな」

 

やがて、綾小路は素直に俺の指摘を認めた。

 

「俺は目立つことを避けるために、運動も勉強も常に『真ん中』を狙いすぎていたかもしれないか」

 

「当たり前だろ。お前は自分の出力のコントロールは完璧でも、客観的な『人間としての見え方』の計算がすっぽ抜けてるんだよ」

 

俺が肩をすくめて言うと、綾小路はどこか感心したような息を吐いた。

 

「お前の言う通りだ。俺の育った環境では常に最高効率を求められていたからな。『普通の人間を演じる』というノウハウが、まだ不足しているらしい」

 

「お前って、本当に天才なのか抜けてるのか分かんねえな。ほんと、面白い奴だよ」

 

俺はたまらず吹き出した。

 

「俺みたいに、最初から『平田くらいの運動神経のいい生徒』っていう設定にしとけば良かったんだよ。須藤くらいにしたら目立つけど、平田くらいの運動能力なら『どこにでもいるそこそこ動ける生徒』止まりだったのにな」

 

俺の完璧な『事なかれ主義の生存戦略』を聞いて、綾小路は「なるほどな……」と深く頷いた。

 

「みんな、集計が終わったよ!」

 

平田の声が体育館に響き、俺たちは再びクラスの輪の中へと戻った。

 

「えっと、推薦種目の参加メンバーなんだけど……」

 

平田はクリップボードを見ながら、真剣な表情で話を切り出した。

 

「堀北さんの作戦通り、運動神経の良い生徒には推薦種目に出てもらいたいんだ。須藤くんは当然として……僕と、それから、呉くん。君にも、推薦種目をお願いできないかな?」

 

(まあ、そうなるよな)

 

俺の身体能力の数値を『平田と同等レベル』に偽装している以上、ここで断れば逆に悪目立ちする。

 

「いいぜ。ただの人数合わせのつもりで出るから」

 

俺は肩をすくめ、平田の提案を受け入れた。

 

「ただし、俺は専門的に陸上とかをやってたわけじゃないからな。まあ、そんなに期待しないでくれよ」

 

あくまで「俺はただの少し運動ができる高校生だ」という予防線を張り、放課後の面倒な行事を終えた。

 

 

体育館を後にし、夕焼けに染まる校舎を出ると、俺の足取りは自然と早くなった。

 

ケヤキモール内にある、オシャレなカフェ。

それが、今日の俺と愛しの天使との待ち合わせ場所だ。

 

「――お待たせ、ひより」

 

奥のボックス席で本を広げていたひよりが、ハッとして顔を上げ、世界で一番可愛い笑顔を咲かせた。

 

「あ、刃叉羅くん! お疲れ様です」

 

俺たちは甘いケーキと紅茶を注文し、向かい合って座った。

 

「悪いな、少し遅くなって。体育祭に向けた体力測定があったんだ」

 

「いえ、私も本を読んでいたので大丈夫ですよ。……体力測定、どうでしたか? 刃叉羅くんなら、きっと一番だったんじゃないですか?」

 

ひよりが、少しだけ期待に満ちた目で俺を見つめてくる。

以前の俺なら、ここでも「いやいや、平均くらいだよ」と嘘をついていただろう。

 

だが、今の俺たちには、もう隠し事は必要ない。俺が呉一族の暗殺者であり、常人離れした戦闘力を持っていることは、すでに彼女に全て打ち明けているのだから。

 

「いや、俺の本当の身体能力を見せたら、さすがに学校中で騒ぎになっちまうだろ? だから、まあ平田くらいの記録に抑えてるさ」

 

俺が苦笑いしながら正直に打ち明けると、ひよりは「あっ、そうですよね」と納得したように小さく手を叩いた。

 

「刃叉羅くんが本気を出したら、きっとオリンピック選手よりも速く走れちゃいますもんね。ふふっ、なんだか秘密を共有しているみたいで、少し嬉しいです」

 

ひよりが嬉しそうに目を細める。彼女のこういう、全てを受け入れてくれる純粋なところがたまらなく愛おしい。

 

運ばれてきた新作のモンブランを、ひよりは美味しそうに口へと運んだ。

 

「んっ……! とっても美味しいです!」

 

頬に手を当てて目を細める彼女の姿は、俺にとってどんな高級なスイーツよりも心を癒してくれた。

 

「そういえば、刃叉羅くんはどの競技に出るんですか?」

 

「俺は、全員参加の個人競技と、あとは平田に頼まれて推薦種目にもいくつか出ることになったよ。まあ、適当に走って順位を調整するつもりだけどな」

 

俺がアイスコーヒーを飲みながら答えると、ひよりはフォークを置き、両手を胸の前でギュッと組んだ。

 

「そうなんですね。……私、刃叉羅くんが走る姿を見るの、とっても楽しみです」

 

「ん?」

 

ひよりは、上目遣いで、この世の何よりも純粋でキラキラとした瞳を俺に向けてきた。

 

「刃叉羅くんが本気を出せないのは分かっていますけれど……それでも、刃叉羅くんのカッコいい姿、楽しみにしてますねっ」

 

「――――――――ッッッ!!!!」

 

(ぐはぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!)

 

俺の心臓に、対物ライフル級の徹甲弾が直撃した。

なんだその破壊力は。なんだその純度100パーセントの期待に満ちた眼差しは。

 

愛する彼女から「カッコいい姿を楽しみにしている」と言われて、平常心を保てる男がこの世に存在するだろうか。いや、存在しない。

 

(……綾小路)

 

俺は、数十分前に体育館で綾小路に語った言葉、そして先ほどひよりに言った「適当に走る」という言葉を、脳内で盛大に引き裂き、燃やし尽くした。

 

(前言撤回だ。……暗殺者としての『本気』とはいわないが、俺は、ひよりに良いところを見せるぞ!! 俺が出る種目は、全てぶっちぎりの1位を取ってやる!!)

 

事なかれ主義? 保護色? 知ったことか。

彼女が俺のカッコいい姿を望むなら、俺は白馬の王子様にでも、陸上の金メダリストにでもなってやる。

 

俺の暗殺者としての極限の身体操作能力は、今この瞬間から「椎名ひよりにカッコいいところを見せる」ためだけに解放されることが決定した。

 

「……ああ」

 

俺は、テーブルの上でギュッと拳を握りしめながら、決死の覚悟を秘めた極上の笑顔で頷いた。

 

「ひよりがそういうなら、任せてくれ。……絶対に、ひよりに一番カッコいいところを見せてやるからな」

 

「わぁっ……はい! すっごく楽しみにしています、刃叉羅くん!」

 

ひよりの嬉しそうな笑顔を見つめながら、俺の背後で、かつてないほどの闘志の炎がゴウゴウと燃え盛っていた。

 

体育祭の盤面がどう荒れようと、知ったことではない。

この日、高度育成高等学校の体育祭に、最愛の彼女のためにリミッターを解除した『恋する暗殺者』が解き放たれることが、静かに、そして確定的に決定したのだった。

 

 

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