九月の半ばを過ぎると、高度育成高等学校を包み込む空気は、じっとりとした夏のそれから、高く澄み渡る秋の空へと完全に移り変わっていた。
朝晩の風には微かな冷たさが混じり、ケヤキモールの街路樹も少しずつ色づき始めている。
だが、生徒たちの熱気はむしろ夏よりも高まっていた。
十月一日に開催される『体育祭』。
クラスポイントの増減という残酷なシステムが裏にあるとはいえ、表向きは紛れもなく「学校行事の華」である。
放課後のグラウンドや体育館は、毎日どのクラスも練習に励む生徒たちの声で活気に満ち溢れていた。
俺――呉 刃叉羅の二学期は、これまでの人生で最も充実した、まさに『青春』と呼ぶにふさわしい日々の連続だった。
「次! 呉、行くぞ!」
「おう」
放課後のグラウンド。
体育祭に向けたクラス練習の真っ只中、俺は須藤健からのバトンパスを受け取る練習をしていた。
「おらあっ!」
須藤が持ち前のトップスピードで突っ込んでくる。
俺はタイミングを見計らって走り出し、後ろ手でスッとバトンを受け取った。
「……よし、悪くねえ! お前、バトンの受け取り方めちゃくちゃスムーズだな!」
走り終えた須藤が、息を弾ませながらニカッと笑って肩を叩いてくる。
「まあな。落としたらタイムロスで面倒だからな」
俺は軽く肩を回しながら答えた。
俺はひよりとの約束通り、自分が出場する個人種目では『全て1位』を取ることを決意している。
だが、練習の段階から俺の本気を見せつければ、無用な詮索を受けるのは目に見えている。
だから、練習中はあくまで『須藤より少し遅いくらいの、かなり足の速い生徒』というレベルに意図的に出力を調整しつつ、バトンパスやスタートダッシュのフォームといった『技術面』を徹底的に最適化していた。
これなら、本番で少しだけリミッターを外して1位をかっさらっても、「本番のプレッシャーに強い」「無駄のない技術でカバーした」という言い訳が立つ。
「呉くん、すごく良い走りだったよ。本番もその調子で頼むね」
タイムを計っていた平田洋介が、爽やかな笑顔で労ってくれる。
「ああ、任せとけ。俺が出るからには負けねえよ」
俺が珍しくやる気のある発言をすると、少し離れたところで記録をつけていた堀北鈴音が、怪訝そうに眉をひそめた。
「……随分と気合が入っているのね。一学期の事なかれ主義だったあなたとは思えないわ」
「そりゃあな。俺にも負けられない理由ができたんだよ。……愛の力ってやつだ」
俺がニヤリと笑うと、堀北は「……バカバカしい。まあ、クラスのためにポイントを稼いでくれるなら、動機は何でもいいわ」と呆れたように視線を戻した。
その横では、綾小路清隆が『平均より少しだけ速い、しかし絶対に目立たないタイム』という、ある意味で神業的な手抜き走りを披露して、平田に「綾小路くんも安定してるね」と褒められていた。
(あいつ、本当に機械みたいな調整してやがるな……)
俺は内心で苦笑しながら、クラスの練習時間を適度に楽しんでいた。
そして、練習がない日や、週末の休日。
俺の時間は、全て『愛しの彼女』のために捧げられていた。
「刃叉羅くん、あそこのスポーツショップ、少し見ていってもいいですか?」
「ああ、いいぞ」
ある日の放課後、俺たちは手を繋いでケヤキモールを歩いていた。
ひよりは、茶道部の活動といった用事がない日は、必ずこうして俺と一緒に過ごす時間を作ってくれている。
ショップに入ると、体育祭の特設コーナーが設けられていた。
「お揃いのタオル、買いませんか? 刃叉羅くんが赤組で、私が白組ですけれど……デザインが同じなら、なんだか一緒に戦っているみたいで嬉しいですから」
ひよりが、色違いのスポーツタオルを二つ手に取って、上目遣いで微笑みかけてくる。
「……買う。今すぐ買う。なんなら予備も含めて十枚くらい買う」
「ふふっ、そんなにいりませんよ。一枚ずつで十分です」
俺は即座にレジへ向かい、二人のタオルを購入した。
俺のクローゼットには、血の目立たない黒やグレーの殺風景な服や道具が多かったが、最近はひよりとお揃いの小物や、彼女が選んでくれた明るい色のアイテムが少しずつ増え始めている。
それがたまらなく嬉しくて、部屋に帰ってそれを見るたびに、俺の頬はだらしなく緩んでしまうのだ。
買い物を終えた後は、カフェで一つのパンケーキをシェアしたり、公園のベンチで秋風を感じながらお互いの読んでいる本について語り合ったりした。
「刃叉羅くん、本当に体育祭の練習、無理していませんか? 怪我だけは気をつけてくださいね」
ベンチに座りながら、ひよりが俺の大きな手を自分の両手で包み込み、心配そうに覗き込んでくる。
「心配ないって。……むしろ、ひよりが応援してくれると思ったら、力が有り余って困ってるくらいだ。絶対にかっこいいところ見せてやるからな」
「はいっ! 楽しみにしています。……私も、一生懸命頑張りますね」
ひよりがギュッと小さな拳を握る姿が小動物のようで、俺はたまらず彼女の銀色の髪を優しく撫でた。
(この笑顔を見るためなら、世界中を敵に回したって構わない)
俺は心の底からそう思いながら、彼女との甘く穏やかな時間を心ゆくまで味わっていた。
だが、ひよりが茶道部の活動などで放課後に残らなければならない日もある。
そういう時、俺は真っ直ぐ寮に帰るのではなく、平田たちのグループに混ざって適当に時間を潰すことが多かった。
「あーっ、また呉くん、彼女のノロケ話してるー!」
「本当だよ! ひよりひよりって、どんだけ彼女のこと大好きなのよ!」
パレットのテーブル席。
俺がひよりとの休日のデートの出来事を話すと、軽井沢恵と佐藤麻耶が、呆れたような、しかし楽しそうな声を上げて冷やかしてきた。
「事実を言ってるだけだろ。あの可愛さは国宝級だぞ。俺みたいな男には勿体ないくらいの天使だからな」
俺がコーヒーを飲みながら堂々と胸を張ると、松下千秋がクスクスと笑った。
「呉くんって、見た目はちょっと怖そうなのに、中身は完全に彼女にデレデレのワンちゃんよね。そのギャップが逆に良いのかも」
「ねー。平田くんも優しいけど、呉くんみたいな『彼女絶対守るマン』的な一途さも憧れるわ〜」
佐藤がストローを咥えながら、平田と俺を交互に見比べる。
「あはは、僕は呉くんほど強くないからね。でも、二人が仲良くしている話を聞くのは、僕もすごく嬉しいよ」
平田が、嫌味の欠片もない100点満点の聖人スマイルで頷いた。
俺は事なかれ主義を貫いているが、この軽井沢や佐藤、松下といった女子グループ、そして平田との関係性は、極めて良好だった。
勉強会で赤点回避の手伝いをしてやった恩もあるだろうが、何より俺が『他クラスの彼女に一途』であるという事実が、女子たちに妙な安心感を与えているらしい。「絶対に手を出してこない安全で頼りになる男友達」というポジションにおさまっているのだ。
「でもさ、体育祭は白組と赤組で敵同士になっちゃうんでしょ? 彼女とバチバチになったりしないの?」
軽井沢が興味津々に聞いてくる。
「なるわけないだろ。むしろ、俺が1位を取るところを見せてかっこいいところを見せる、絶好のチャンスだ。白組が勝とうが赤組が勝とうが、俺たちの愛の障害にはならねえよ」
「うわぁ……ごちそうさま。もう勝手にしてって感じ」
軽井沢がわざとらしく肩をすくめ、全員でドッと笑い声が上がった。
普通の高校生としての、他愛のない放課後の雑談。
誰も傷つけず、誰からも狙われない、ただの平和な空間。
これもまた、俺がこの学校で手に入れた、かけがえのない青春の1ページだった。
そして、夜。
男子寮にある俺の部屋には、時折、招かれざる珍客が訪れていた。
「……美味い」
ローテーブルの向かい側。
綾小路清隆が、俺の作った特大の『スタミナ豚バラ丼』を、無表情のまま、しかし凄まじいスピードで胃袋へと流し込んでいた。
「味わって食えよ。体育祭に向けて体力つけとけと思って、ニンニク効かせて特別に作ってやったんだからな」
俺が呆れながらお茶を差し出すと、綾小路は咀嚼を終えて小さく息を吐いた。
「感謝する。……お前の料理スキルは、相変わらず俺の理解を超えているな。食堂の特製定食よりも遥かに質が高い」
「俺を誰だと思ってる。極限の環境下で、その辺の野草や蛇からでも極上のフレンチを作れるように仕込まれたプロだぞ」
俺が冗談めかして笑い飛ばすと、綾小路は言葉の裏にある凄みに微かに目を細めた。
(……極限の環境、か)
綾小路は、出された茶をすすりながら、内心で静かに推測を巡らせていた。
(完璧に鍛え抜かれた肉体。異常な戦闘力。そして、この常軌を逸したサバイバル能力……。この男が、裏社会の深く黒い部分で生きてきた人間であることは明白だ。俺と同じように、決して表の歴史には出ない『施設』か『一族』の出身……。気にならないと言えば嘘になるが、互いに深くは詮索しないという暗黙の了解がある以上、口に出すつもりはない)
綾小路は、そんな思考を無表情の裏に隠しながら、少しだけ俺の方へ身を乗り出した。
「そういえば呉。最近の練習を見ていると、お前、随分と真面目に参加しているな。一学期の頃なら、もっと適当にサボる口実を見つけていたはずだが」
「ん? ああ。まあな」
「しかも、須藤のタイムには及ばないように見せかけているが……俺には分かる。お前、フォームの最適化だけで、本番は確実に1位を狙えるように調整しているな?」
さすがは影の支配者。
俺の『手抜きに見せかけた本気への助走』に、しっかりと気づいていたらしい。
「お前がクラスのために本気を出してくれるのは、俺の計算上も非常に助かる。……堀北に脅されたか? それとも、茶柱先生のプレッシャーか?」
綾小路が、俺の心境の変化の理由を探ろうと、静かに問うてきた。
クラスポイントのためか、裏の権力闘争のためか。彼の脳内では、様々な盤面のシミュレーションが行われているのだろう。
だが、俺の答えは、彼のそんな複雑な計算を根底からへし折るほど、単純で平和なものだった。
「アホか。んなわけねえだろ」
俺は、食後のコーヒーを淹れながら、呆れたように鼻で笑った。
「俺が1位を狙う理由は、たった一つだ。……愛するひよりに『かっこいい姿を見たい』って言われたから。ただそれだけだ」
「――――」
綾小路の動きが、ピタリと止まった。
その無機質な瞳が、俺の言葉の意味を理解しようと、僅かに瞬きをする。
「……彼女に、良いところを見せたいから、か?」
「当たり前だろ。男ってのはな、好きな女の応援があれば、どんな面倒なことでも全力でやれる生き物なんだよ。クラスポイントとか、ペナルティなんか知ったことか。俺は、ひよりにかっこいいところを見せるためだけに、俺の出る種目全部でぶっちぎりの1位を取る」
俺が一切の照れもなく、堂々と『恋の力』を宣言すると。
綾小路は、しばらく黙り込んだ後、深く、深くため息をついた。
「……お前の行動原理は、俺のロジックでは絶対に計算できない。俺の育った環境では、『愛』のような不確定要素は一切考慮されていなかったからな」
綾小路は、相変わらず感情の読めない平坦な声でそう言った。
だが、その瞳の奥には、俺という不可解な存在に対する純粋な興味のようなものが微かに見え隠れしている。
「ま、そこがお前の面白いところなんだけどな」
俺は苦笑しつつ、綾小路の肩を軽く小突いた。
「効率や合理性でしか動けないってのもお前らしいが……。いつかお前にも、この最高にハッピーなモチベーションが理解できる日が来るといいな」
「俺に……か?」
「ああ。理屈じゃ説明つかない不確定要素ってのも、案外悪くないもんだぞ」
「……そうか。覚えておこう」
俺がニヤリと笑ってそう言うと、綾小路は少しだけ目を伏せ、何かを思考するように静かに呟いた。
「だが、結果的にクラスの戦力が底上げされるなら、俺にとっては好都合だ。せいぜい、彼女のために頑張ってくれ」
「言われるまでもねえよ。お前こそ、須藤の適当な言葉を信じて平均値をミスらないようにな」
「……その話は二度とするな」
俺たちは、互いの底知れぬ実力を認め合いながらも、決して踏み込まない奇妙な悪友として、決戦前の静かな夜を過ごした。
そして。
月日はあっという間に流れ、九月三十日の夜。
いよいよ明日、十月一日は『体育祭』の本番である。
俺は自室のベッドに寝転がりながら、端末を耳に当てていた。
スピーカーの向こうからは、鈴を転がすような、愛しい彼女の声が聞こえる。
『いよいよ、明日ですね。刃叉羅くん』
「ああ。ひより、タオルの準備はちゃんとできたか? 転んで怪我だけはしないようにな」
『ふふっ、大丈夫ですよ。お揃いのタオルも、ちゃんとカバンに入れました』
電話越しに聞こえるひよりの弾むような声が、俺の心を温かく満たしていく。
『明日は、赤組も白組も関係ありません。……私は、全力で刃叉羅くんを応援しますからね。頑張ってください!』
「おう。任せとけ。……ひよりの専属の騎士として、誰よりも速く、誰よりもかっこいい姿を、君の目に焼き付けてやるよ」
『……はいっ! 楽しみにしています』
通話を終え、俺は端末をサイドテーブルに置いた。
部屋の窓から見上げる夜空には、秋の澄んだ空気が広がり、星が綺麗に瞬いていた。
俺の身体に流れる血が、明日への闘志で静かに沸き立っている。
だが、それはかつてのような「命を奪うため」のどす黒い殺意ではない。ただ純粋に、勝利を掴み、愛する人の笑顔を見るためだけの、熱く澄み切った闘気だ。
(待ってろよ、ひより。明日は、俺が主役だ)
裏社会を生き抜いてきた少年は、不殺の誓いを胸に抱きながら。
明日から始まる高度育成高等学校の『体育祭』という大舞台に向けて、極上のモチベーションと共に静かな眠りにつくのだった。