青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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四十二話

十月一日。

 

高く澄み渡る、雲一つない完璧な秋空の下。高度育成高等学校の広大なグラウンドは、全校生徒たちの熱気と、けたたましく鳴り響く歓声によって包まれていた。

 

AクラスとDクラスによる『赤組』。

 

BクラスとCクラスによる『白組』。

 

二つの陣営に分かれ、クラスポイントと個人のプライベートポイントを懸けた、血で血を洗う『体育祭』がいよいよ幕を開けた。

 

「第一種目、全学年男子による100メートル走、開始します。第一レースの選手はスタートラインへ」

 

放送部員のアナウンスがグラウンドに響き渡る。

 

俺――呉 刃叉羅は、軽く首の骨をポキポキと鳴らしながら、指定されたレーンのスタートラインに立っていた。

 

(さて、最初の種目か)

 

俺は、足元のタータン(陸上競技用のトラック)の感触をスパイク越しに確かめながら、頭の中で出力の計算を行っていた。

 

俺の本来の身体能力――暗殺者として極限まで鍛え抜かれた瞬発力と脚力を100パーセント解放すれば、おそらく100メートルを8秒台、あるいはそれ以上の速度で駆け抜けることができるだろう。だが、それをやれば確実に人間の限界を超えたバケモノとして学校中から恐れられ、平穏な高校生活は一瞬で崩壊する。

 

(だから、目立たないように、かつ確実に1位を取る。……そうだな、10秒後半から11秒フラットくらい。『普通の高校生のトップ層』くらいに出力を抑えれば、違和感はないはずだ)

 

完璧な計算だ。俺は周囲の生徒たちを軽く見回し、余裕の息を吐いた。

 

「位置について」

 

スターターの教師がピストルを高く上げる。

俺は、陸上選手を模倣したクラウチングスタートの姿勢を取り、前方を真っ直ぐに見据えた。

 

「よーい……」

 

静寂がグラウンドを支配する。

俺の研ぎ澄まされた聴覚が、ピストルの引き金が引かれる微かな摩擦音を捉えようとした、その刹那だった。

 

『刃叉羅くんっ! 頑張ってくださいっ!!』

 

グラウンドの喧騒を切り裂いて、白組の応援席の最前列から。

銀色の髪を揺らす世界一可愛い天使が、両手で作ったメガホンを通して、俺の鼓膜に極上のエールを届けてきたのだ。

 

「――――ッ!!」

 

パンッ!!

ピストルの乾いた破裂音が鳴り響く。

 

だが、俺の脳内コンピューターは、その銃声よりも『愛する彼女からの声援』という致死量を超えるアドレナリンに完全に支配されていた。

 

(ひ、ひよりが、俺を応援してくれている……!! かっこいいところを見せるって、昨日約束したばかりだ……!)

 

俺の理性と計算式は、一瞬にして消し飛び、燃えカスとなって秋空へ散った。

 

俺の筋肉が、細胞が、彼女の期待に最大限の出力で応えようと、勝手にリミッターを外して『暗殺者の本能』を呼び覚ましてしまったのだ。

 

ドンッ!!

スタートブロックを蹴り飛ばした瞬間、俺の身体は砲弾のように前へと射出された。

 

周囲の景色が、ぐにゃりと歪んで後方へすっ飛んでいく。

隣のレーンを走っているはずの他クラスの生徒たちが、まるでスローモーションのビデオを見ているかのように、ピタリと止まって見えた。

 

(……やばっ、ちょっと力入れすぎ……)

 

風の抵抗を物理的に切り裂きながら、俺は途中でハッと我に返った。

 

いかん、これでは速すぎる。慌ててブレーキをかけようとしたが、すでに俺の身体はトップスピードに乗り、ゴールテープの目の前まで迫っていた。

 

今更急ブレーキをかければ、不自然に転倒でもするしかないが、ひよりの目の前でそんなダサい真似ができるわけがない。

 

俺はそのままの勢いで、他の選手を文字通り「置き去り」にして、ゴールテープをぶち切った。

 

「……っ」

 

俺が息を整えながらスピードを緩め、軽くグラウンドを流していると。

俺から数秒遅れて、他の選手たちが次々とゴールへ雪崩れ込んできた。

 

そして。

 

『だ、第一レース、結果……! 1位、Dクラス、呉刃叉羅くん! タ、タイム……』

 

放送委員の声が、明らかな動揺で裏返っている。

電光掲示板に、俺の記録がデカデカと表示された。

 

【 9.82秒 】

 

「…………は?」

 

「きゅ、9秒8……!? ウソだろ!?」

 

「高校生のアマチュア記録どころか、日本記録超えてんじゃねえか!! あいつ何者だよ!! ウサイン・ボルトか!?」

 

グラウンドが、一瞬の静寂の後、爆発したようなざわめきとどよめきに包まれた。

 

無理もない。インターハイレベルを出そうとして、うっかり日本記録超えの数字を叩き出してしまったのだ。

 

(やっべ……。ちょっとどころか、完全にやりすぎた)

 

俺は頭を抱え、痛恨のミスに顔をしかめた。

 

だが、そんな俺の視界の端に、白組のテントから身を乗り出して、太陽のように眩しい笑顔でこちらに手を振っている少女の姿が映った。

 

『刃叉羅くん、すごいです! 1位ですっ!』

 

ひよりが、声を出さずに口の動きとジェスチャーだけで、ピョンピョンと跳ねながら全身で喜びを表現している。

 

(……まあ、いっか)

 

俺は一瞬で反省を放棄した。

 

ひよりがあんなに喜んでくれているのだ。日本記録だの目立つだの、そんな些細なことはもはやどうでもいい。俺は彼女に向かって小さく手を振り返し、堂々と胸を張って赤組のテントへと戻っていった。

 

「お、おい呉! お前、今のタイムマジかよ……ッ!?」

 

テントに足を踏み入れるなり、真っ先に血相を変えて飛びかかってきたのは、クラスで一番身体能力に自信があるはずの須藤だった。その顔は驚愕と、理解不能なものを見るような恐怖に引き攣っている。

 

「9秒8って……日本記録じゃねえか! お前、陸上やってたなんて一言も……!」

 

「すごいよ呉くん! Dクラスにとって最高のスタートダッシュだね!」

 

平田が純粋に称賛の声を上げる一方で、遠巻きに見ていた他の生徒たちもヒソヒソとざわめいている。

 

そんな中、腕を組んだ堀北が般若のような顔でずんずんと歩み寄り、俺を睨みつけてきた。

 

「……あなた。それほどの身体能力を隠し持っていたのに、普段の体育の授業ではずっと適当に手を抜いていたのね? 本当に、ふざけた男だわ」

 

「人聞きが悪いな。今日はたまたま靴のサイズが完璧にフィットしてた上に、物凄い追い風が吹いてたんだよ。いわゆる『追い風参考記録』ってやつさ。気にするな」

 

俺がしれっと嘘八百を並べ、騒ぐクラスメイトたちを適当に煙に巻いて歩き出すと。

 

少し離れたパイプ椅子から、静かな声がかけられた。

 

「……お前」

 

パイプ椅子に座っていた綾小路清隆が、まるで宇宙人でも見るような、底知れぬ呆れを含んだ目で俺を睨みつけていた。

 

「よっ。1位取ってきたぜ」

 

俺が爽やかに笑いかけると、綾小路は深く、重いため息を吐き出した。

 

「お前、体育館で俺にあれだけ説教しておいて……一番目立つようなことをするんだな。9秒8って、完全に世界レベルだぞ」

 

「あー……いや、違うんだよ。俺も最初は『高校生のトップクラス』くらいに抑えるつもりだったんだが……」

 

俺はポリポリと頬を掻きながら、全く悪びれずに言い訳を口にした。

 

「スタートの瞬間に、ひよりの『頑張れ』って声が聞こえちまってな。気がついたら、身体が勝手に動いちまったんだ。……恋の力って恐ろしいよな」

 

「…………」

 

綾小路は、完全に言葉を失い、俺からスッと視線を外した。

 

(……呆れるを通り越して、ある意味で感心するな)

 

綾小路は内心で、俺の叩き出した記録について冷静に分析を行っていた。

 

(あれだけ『本気じゃない』と言っておきながら、出力を抑えた状態で10秒を切るのか。俺がホワイトルームで記録した最高値と比べても、奴の身体能力は完全に俺とは隔絶した領域にある)

 

綾小路のそんな冷徹な評価など知る由もなく、俺はその後も、自分の出場する個人競技(ハードル競走、障害物競走など)で無双を続けた。

 

最初の100メートル走の反省を活かし、次からは「世界記録」まではいかないよう、絶妙に「超高校級のエース」くらいの出力を維持して1位を量産した。

 

その度にひよりが嬉しそうに拍手をしてくれるので、俺のモチベーションは天井知らずにカンストし続けていた。

 

だが。

俺の絶好調な個人成績とは裏腹に、Dクラス全体の状況は『絶不調』という言葉すら生ぬるいほどの惨状を呈していた。

 

「クソッ! なんで俺の組に、Cクラスの足速え奴らが固まってんだよ!」

 

テントに帰ってきた池寛治が、砂埃に塗れたジャージを叩きながら悪態をついた。

 

池だけではない。山内も、他の男子も女子も、出場する競技でことごとくCクラスやBクラスの生徒に敗北し、ポイントを失い続けているのだ。

 

俺はパイプ椅子に深く腰掛けながら、グラウンドの様子を冷ややかに観察していた。

 

(……なるほどな。完全に盤面を支配されてる)

 

偶然にしては、あまりにもできすぎている。

 

須藤や俺といった、確実に1位を取るであろうDクラスの強力な生徒のレースには、Cクラスは『完全に運動ができない捨て駒』の生徒を当ててきている。

逆に、池や山内のように運動能力の低い生徒のレースには、彼らより『ほんの少しだけ足が速い』生徒を的確にぶつけ、無駄なく上位を独占しているのだ。

 

「まるで、うちのクラスの出場表が、Cクラスに筒抜けになっているみたいじゃないか……」

 

平田が、青ざめた顔でクリップボードを見つめながら呟く。

 

(筒抜けになっているみたい、じゃなくて。確実に漏れてるんだろうな)

 

俺は、白組のテントの奥で、ニタニタと邪悪な笑みを浮かべているCクラスの独裁者――龍園翔の姿を捉えた。

 

この体育祭は、クラスの方針を決める話し合いの段階から、情報戦が始まっていたのだ。

 

Dクラスの出場表を誰かが龍園に売り渡したか、あるいは龍園がスパイを潜り込ませたか。

 

いずれにせよ、あの『王様』が裏で糸を引き、Dクラスを徹底的に潰すための完璧な采配を振るっていることは疑いようもなかった。

 

(まあ、俺はひよりに良いところを見せるためだけに走ってるから、クラスが負けようがどうでもいいがな)

 

俺はアクビを噛み殺し、事なかれ主義の傍観者を決め込んでいた。

 

だが、龍園の悪辣な策は、単なる勝敗のコントロールだけには留まらなかった。

 

彼の真の標的は、Dクラスの『要』を物理的・精神的にへし折ることにあったのだ。

 

「きゃっ……!」

 

女子の短距離走。

グラウンドの端で、堀北鈴音がCクラスの女子生徒と激しく交錯し、不自然な形で転倒する姿が見えた。

 

故意の衝突スレスレの接触。堀北は足を引きずりながら立ち上がったが、明らかな負傷の気配があった。

 

さらに、男子の団体戦――棒倒しや騎馬戦。

 

「おらぁっ! 潰せ潰せぇ!!」

 

「須藤を狙え!! 足引っかけろ!!」

 

Cクラスの屈強な男子生徒たちが、ルール無用のアメフトのようなタックルで、Dクラスのエースである須藤健ただ一人に集中攻撃を仕掛けていた。

 

「てめえら……卑怯な真似しやがって!!」

 

須藤は怒号を上げながら抵抗するが、多勢に無勢。しかも相手は『反則にならないギリギリのライン』を突いて、執拗に須藤の体力と精神力を削りにきている。

 

砂まみれになり、屈辱的な敗北を重ねる須藤。

彼の中に溜まったフラストレーションは、もはや限界のレッドゾーンを突破しようとしていた。

 

そして、全競技の三分の二が終了した頃。

赤組の待機テントの裏で、ついにその鬱憤が爆発した。

 

「ふざけんなよてめえら!! お前らがちゃんとやらねえから勝てねえんだろうが!!」

 

ドガンッ!! と。

須藤が、近くにあったパイプ椅子を全力で蹴り飛ばした。

 

パイプ椅子はひしゃげた音を立てて転がり、周囲にいた池や山内、その他運動の苦手なDクラスの生徒たちが、ビクッと肩を震わせて縮み上がった。

 

「け、健……俺たちだって、一生懸命走って……」

 

池が震える声で言い訳をするが、怒りで完全に視野が狭窄している須藤の耳には届かない。

 

「一生懸命だぁ!? ふざけたこと言ってんじゃねえ! テメエらみたいな足手まといがいるから、俺がマークされてボコボコにされんだよ! 俺の足引っ張って楽しいか!? ああ!?」

 

須藤は、威圧的な態勢で池の胸ぐらを掴みかからんばかりに迫った。

 

俺は、少し離れた日陰から、腕を組んでその様子を冷ややかに眺めていた。

 

(……やれやれ)

 

俺は心底呆れ果て、小さくため息をついた。

普段の生活態度や、プールの時に俺とひよりのデートを邪魔した池たちを止めた時の行動を見て、須藤は『少しは大人になった』と評価を改めていたのだが。

 

(まあ、ひよりの事になると一瞬で沸点に達して殺意を振り撒く俺が、他人の短気をどうこう言えた義理じゃねえがな)

 

俺は自嘲気味に、内心で一つツッコミを入れた。

 

だが、誰かにとっての『絶対に譲れない逆鱗』に触れられてキレるのと、単に自分の思い通りにならないからといって安い挑発に乗って身内に当たり散らすのとでは、根本的に意味が違う。

 

(龍園の圧力にあっさり屈して自滅するだけならまだしも、関係ない周囲の弱者に八つ当たりか。……結局、その精神的な未熟さは、入学当初から大して変わっちゃいなかったってことだ)

 

俺が落胆していると、騒ぎを聞きつけた平田が慌てて駆けつけてきた。

 

「落ち着こう、須藤くん! 彼らだってワザと負けてるわけじゃない! クラスのみんなで協力して……」

 

「うるせえ! 綺麗事ばっか言ってんじゃねえよ平田!! お前も俺を盾にして安全圏から見てるだけだろうが!!」

 

須藤は平田の仲裁すらも怒声で跳ね除けた。

 

「須藤くん……周りのクラスメイトの顔を、よく見てくれ」

 

平田が、悲痛な声で訴えかける。

その言葉に、須藤はハッとして、荒い息を吐きながら周囲に視線を巡らせた。

池、山内、みーちゃん、篠原……。

 

彼を取り囲むDクラスの生徒たちの顔に浮かんでいたのは、エースへの同情や共感ではない。

 

『関わりたくない』

 

『怖い』

 

『暴力を振るう野蛮な存在』

 

明確な、恐怖と嫌悪の表情だった。

 

「――――」

 

自分がクラスの中で完全に孤立し、厄介者として見られているという現実。

それを突きつけられた須藤の顔が、怒りから一転、プライドをズタズタに引き裂かれたような惨めなものへと変わった。

 

「……っ、もういい。アホくさ。俺は帰る」

 

須藤は吐き捨てるように言い放ち、グラウンドの出口へと向かって歩き出した。

 

エースである彼がここで帰れば、残りの団体戦もリレーも、Dクラスの敗北は決定的なものとなる。

 

「待って、須藤くん! まだ競技は残ってるんだ! ここで君が抜けたら……!」

 

平田が、必死に須藤の肩を掴んで引き留めようとした。

 

「触んじゃねえよ!!」

 

極限まで神経がささくれ立っていた須藤が、反射的に平田の腕を振り払い、そのままの勢いで右の拳を大きく振り上げた。

 

怒りに任せた、顔面への裏拳。

平田は咄嗟のことで防御もできず、目を閉じた。

 

だが。

その拳が、平田の頬を捉えることはなかった。

 

「……っ!?」

 

ガシィッ!!!

鈍い音が響いた。

 

須藤の振り抜いた丸太のような腕を、いつの間にか彼らの間に割って入っていた俺――呉刃叉羅の左手が、万力のような力でガッチリと掴み止めていたのだ。

 

「……く、呉……! てめえ、離せ……っ!!」

 

須藤がギリギリと歯を食いしばり、腕を引き抜こうと全身の力を込める。

だが、俺の指はビクともしない。彼との間には、絶対的な筋力と体幹の差が存在していた。

 

「……お前がキレて帰ろうが、不貞腐れようが、それはお前の勝手だ。好きにすればいい」

 

俺は、一切の感情を排した、絶対零度の冷たい声で言い放った。

 

「だが、自分より弱い人間に当たり散らしたり、必死にクラスをまとめようとしてる奴に暴力を振るったりするのは……ただの最低な八つ当たりだ」

 

俺の放つ、本物の『暗殺者としてのプレッシャー』に当てられ、須藤の顔からスッと血の気が引いていくのが分かった。

 

「お前は、少しは周りを見て行動できるようになった、成長していると感心していたんだがな。……正直、ガッカリだよ。お前はただの、図体がでかいだけのガキだ」

 

俺は、冷たく宣告し、掴んでいた須藤の腕を乱暴に払い除けた。

 

「……っ!!」

 

須藤は数歩後ずさり、俺の言葉に完全にプライドを粉砕されたような、しかし言い返す言葉も見つからないような、悔しさに満ちた顔で唇を噛み締めた。

 

「……知らねえよ! 勝手に言ってろ!!」

 

須藤は、まるで逃げるように背を向け、グラウンドの出口へと走り去っていった。

 

「あ……須藤くん……」

 

平田が悲しそうに手を伸ばすが、すでに彼の背中は遠ざかっていた。

テントの裏には、重苦しく、救いようのない沈黙だけが残された。

Dクラスの崩壊。エースの離脱。そして、確定した敗北の未来。

 

「……平田、怪我はないか」

 

俺が振り返って尋ねると、平田は「う、うん。ありがとう、呉くん」と力なく笑った。

 

「……やれやれ。俺も少し疲れた。次の競技まで休んでるからな」

 

俺はそれ以上何も言わず、テントの奥のパイプ椅子へと戻り、深く腰を下ろした。

 

隣では、綾小路が相変わらず無表情のまま、一連の騒動を静観していた。

 

彼がこの崩壊したクラスの盤面をどう立て直すのか、あるいは見捨てるのか。それは俺の知ったことではない。

俺はただ、次の個人競技でひよりの笑顔を見るために、再び立ち上がる時を待つだけだった。

 

須藤が怒りに任せてグラウンドを去り、重苦しい空気が漂う赤組・一年Dクラスの待機テント。

 

クラスの絶対的なエースを失い、団体戦の敗北が濃厚となったことで、多くの生徒がどんよりとした絶望感を漂わせていた。

 

俺――呉 刃叉羅は、パイプ椅子に深く腰掛け、ミネラルウォーターを一気に煽った。

 

(……ったく。ただでさえひよりに見せるために出力調整で神経使ってるのに、無駄な体力を使わせやがって)

 

軽くため息をついた俺の元へ、数人の足音が近づいてきた。

 

「……呉くん。さっきは、その……ありがとね」

 

声をかけてきたのは、Dクラス女子のヒエラルキートップである軽井沢恵と、その取り巻きの佐藤麻耶、松下千秋たちだった。

 

彼女たちの顔には、先ほどの須藤の暴力的な態度に対する恐怖の余韻と、それを一瞬で鎮圧した俺への安堵と感謝が入り混じっていた。

 

「平田くんが殴られそうになった時、心臓止まるかと思った……。呉くんが止めてくれなかったら、マジで大惨事になってたよ」

 

佐藤が胸を撫で下ろしながら言うと、軽井沢も深く頷いた。

 

「ホントそれ。須藤くん、ちょっと足が速いからって何様なのよ。暴力で八つ当たりするとか最低。……呉くんがガツンと言ってくれて、すっごくスッキリしたわ」

 

「気にするな。ただのガキの癇癪だ。平田に怪我がなくて良かったよ」

 

俺が肩をすくめて言うと、後方から平田洋介もやってきて、深々と頭を下げた。

 

「呉くん、本当にありがとう。僕の力不足だ……須藤くんを上手くコントロールできなかった」

 

「お前のせいじゃない。あいつ自身の未熟さだ」

 

俺はそう返しつつ、テントの奥へと視線を向けた。

そこには、無気力な影の支配者・綾小路清隆と、クラスのリーダー役を担う堀北鈴音が、何やら深刻そうな顔で小声で話し合っている姿があった。

俺の異常な聴力には、その会話の内容がはっきりと聞き取れていた。

 

『……須藤を連れ戻せるのは、お前しかいないんじゃないか? 堀北』

 

『私が……? 冗談でしょう。今の須藤くんに何を言っても無駄よ』

 

『だが、お前の言うことならあいつは聞く。お前がエースを見捨てれば、クラスの敗北は確定的だぞ』

 

(……なるほどな)

 

俺は内心で感心した。

綾小路の奴、自分が直接動くのではなく、須藤が堀北に惚れているという感情を利用して、堀北自身に『駒の回収』を行わせようとしている。相変わらず、裏から他人を盤面で操るのが上手い男だ。

 

俺がそんな盤外戦術を観察していると、不意に、軽井沢が身を乗り出してきて、俺の顔をまじまじと覗き込んできた。

 

「……って言うかさ。須藤くんの件もそうなんだけど!」

 

「お?」

 

「呉くんの、あの最初の100メートル走! なにアレ!! ヤバすぎなんですけど!!」

 

軽井沢の興奮した大声に、佐藤と松下も「そうそう!」「マジでビビった!」と一斉に同調し始めた。

 

「9秒8って何事!? オリンピック選手なの!? 私、呉くんが走った瞬間、風圧で髪が吹き飛ぶかと思ったんだけど!」

 

「私たち、完全に目ん玉飛び出たよ! 普段の体育の授業じゃ、そんな素振り全然見せなかったじゃん!」

 

女子たちの猛烈な質問攻めに遭い、俺の背中にツーッと嫌な汗が流れた。

 

(うわー……やっぱこっちでも突っ込まれるよな。ここは須藤や堀北に言ったのと同じ設定で貫き通すしかねえ)

 

俺は必死にポーカーフェイスを保ち、ポリポリと頬を掻きながら、極めて不自然な言い訳を口にした。

 

「いやぁ……さっき堀北たちにも説明したんだけどさ。たまたま靴のサイズが完璧にフィットしてた上に、俺が走った時だけ物凄い『追い風』が吹いてたんだよ。だから身体が軽くってさー」

 

俺の苦しい言い訳に、軽井沢と佐藤は「ええー? いくら追い風でも9秒台なんて出るー?」と首を傾げた。

 

だが、松下千秋だけは、ジト目で俺を睨みつけてきた。

 

「……呉くん。いくらなんでも、その言い訳は無理があるんじゃない? 追い風参考記録で世界レベルのタイムが出るなら、陸上部なんていらないわよ」

 

「うっ……」

 

「それに、百歩譲って100メートル走は風のおかげだとしても、その後の障害物競走もハードルも、全部ぶっちぎりの1位だったじゃない。あれも全部、靴のサイズと追い風のおかげって言うつもり?」

 

松下の鋭い、逃げ道を塞ぐような的確な指摘に、俺は言葉に詰まった。

 

こいつ、一学期から俺のことを「絶対に何か隠してる」と疑っていたが、ここに来て完全に確信を持たれてしまったらしい。

 

俺がどうやってこの場をやり過ごそうかと思案していると。

 

「……ケッ。いいご身分だな」

 

不意に、テントの反対側から、陰湿な声が聞こえてきた。

 

「こんな時に女子とヘラヘラ笑い合ってよ。……大方、Cクラスに情報を売った見返りに、気分良く走らせてもらってんだろ」

 

声の主は、池寛治だった。その横では、山内春樹も同調するように嫌悪感に満ちた目をこちらに向けている。

 

「……は? なに言ってんの、あんたたち」

 

軽井沢が、声音を低くして池を睨みつけた。

 

池は、須藤が帰ってしまったことによる八つ当たりと、女子に囲まれる俺への醜い嫉妬を隠そうともせず、言葉を続けた。

 

「平田が言ってただろ。うちのクラスの出場表が、Cクラスに漏れてるんじゃないかって。……誰が流したかなんて、明白じゃねえか。Cクラスの女と付き合ってる裏切り者が一人、ここにいるだろうがよ!」

 

「そうだそうだ! 彼女のクラスを勝たせるために、俺たちの情報を売り飛ばしたんだろ! だからお前のレースには雑魚が当てられて、俺たちのレースには足が速い奴が来たんだ!」

 

山内も、狂ったようなこじつけの論理で俺を糾弾し始めた。

 

(……アホくさ)

 

俺は、反論する気すら起きず、ただただ深いため息をついた。

 

(情報が漏れたのは事実だろうが、それを俺とひよりの交際に結びつけるのは、あまりにも短絡的で馬鹿げている)

 

あの龍園が、俺に対してひよりを利用した情報収集なんて『命知らずな真似』を仕掛けてくるわけがない。

 

そもそも、俺がひよりにDクラスの内情を横流ししてスパイ行為を働くなんてあり得ない。俺とひよりの神聖な時間に、クラス同士のくだらない探り合いなんかを持ち込んで汚すわけがないだろうが。

 

俺は池と山内を完全に『無視』し、パイプ椅子から立ち上がってグラウンドの方へと視線を向けた。

 

だが、俺が無視しても、俺の周囲の女子たちが黙っていなかった。

 

「はぁ!? あんたたち、頭湧いてんじゃないの!?」

 

軽井沢恵が、ブチギレた様子で池たちに詰め寄った。

 

「そんなこと、呉くんがするわけないでしょ! 大体、呉くんはどの種目でもダントツで1位だったわよ! 相手が誰だろうと関係ない実力があるのに、わざわざ情報を売るメリットがどこにあるのよ!」

 

「そうだよ! 自分が足遅くて負けたのを、呉くんのせいにして八つ当たりしてんじゃないわよ! さっきの須藤くんと全く同じじゃん! 最低!」

 

佐藤と松下も、容赦のない正論の嵐で池と山内をボコボコにし始めた。

 

「なっ……! う、うるせえ! 状況証拠が真っ黒だろうが!」

 

「お前ら、呉に騙されてんだよ!」

 

テントの中が、一触即発の喧嘩の雰囲気に包まれる。

クラスの士気は、すでに底を抜けてマイナスへと突入していた。

 

「……落ち着け、お前ら」

 

俺は、騒ぎ立てる女子たちを手で制し、池と山内を一瞥した。

 

「疑うなら疑うで、好きにすればいいさ」

 

俺の口から出たのは、一切の怒りも弁明も含まれていない、心底『どうでもよさそう』な言葉だった。

 

「俺は、お前たちにどう思われようが、一ミリも興味がないからな。……勝手に陰謀論でも唱えて、負けた言い訳を作り続けてろよ。底辺共」

 

「――――っ!! て、てめえ……!!」

 

俺のあまりにも冷酷で、見下しきった言葉に、池と山内は顔を真っ赤にしてワナワナと震えたが、俺の放つプレッシャーの前に一歩も踏み出すことはできなかった。

 

彼らも本能で理解しているのだ。俺に手を出せば、須藤の腕を軽々と止めたあの力で、逆に自分がへし折られるということを。

 

「ありがとな、軽井沢、佐藤、松下。お前らが庇ってくれたことは嬉しかったよ」

 

俺は女子たちに軽くウインクして見せた。

 

「でも、こんな奴らの相手をして体力を消耗するのは無駄だ。……俺は、白組のテントに行ってくる。愛しの彼女が待ってるんでね」

 

「えっ、ちょ、ちょっと呉くん! 敵の陣地に行くの!?」

 

軽井沢が慌てて引き留めようとするが、俺はひらひらと手を振りながら、すでに赤組のテントを背にして歩き出していた。

 

背後から、「くそっ、やっぱりあいつがスパイなんだ! 敵のテントに行きやがった!」という池の負け犬の遠吠えが聞こえたが、ただのBGMとして聞き流した。

 

グラウンドの反対側。

白組の待機テントに足を踏み入れると、BクラスとCクラスの生徒たちの視線が一斉に俺へと向けられた。

 

敵陣に単身乗り込んできたDクラスの生徒、しかも先ほどの100メートル走で『9秒8』というバケモノじみたタイムを叩き出した男の登場に、周囲の空気がピンと張り詰める。

 

そんな中、テントの奥の特等席で、腕を組んで不敵な笑みを浮かべている男がいた。

 

Cクラスの独裁者、龍園翔だ。

 

「……ククク。随分と余裕じゃねえか、化け物」

 

龍園は、俺が近づいてくるのを見ると、わざとらしく煽るような声を上げた。

 

「あの100メートルのタイムは一体なんだ? 人間やめてサイボーグにでも改造したのか? おかげで、うちのクラスの俊足どもが完全に自信喪失しちまったじゃねえか」

 

龍園の言葉には、皮肉が込められつつも、俺の異常な身体能力への確かな警戒が混じっていた。

 

彼も、あのタイムが『異常事態』であることを正確に理解しているのだ。

 

だが、俺はそんな龍園の煽りに対して、悪びれることもなく、堂々と肩をすくめてみせた。

 

「なんだ、龍園。お前には分からないか?」

 

俺は、彼の蛇のような瞳を真っ直ぐに見据え、真顔で言い放った。

 

「あれが『愛の力』だよ。……大好きな彼女の声援を聞いた途端、全身から力が湧き上がってきてな。気がついたら音速の壁を越えようとしてたんだ。……まあ、お前みたいに暴力と恐怖でしか他人を支配できない可哀想な奴には、一生理解できない力だろうな」

 

「――――あぁ?」

 

俺のあまりにも堂々とした煽り返しに、龍園はピキッとこめかみに青筋を浮かべ、低い唸り声を上げた。

 

横にいた石崎やアルベルトが「この野郎……!」と立ち上がりかけるが、龍園が手でそれを制した。

 

「……ククク、ハハハハッ!! 愛の力、ねえ。相変わらずイカれた思考回路してやがる」

 

龍園は、額に手を当てて狂ったように笑い出した。

 

その直後。

 

「も、もうっ……! 刃叉羅くん、恥ずかしいですから、敵の陣地でそんなこと大声で言わないでください……っ!」

 

テントの隅の方から、顔をトマトのように真っ赤に染めたひよりが、小走りで俺の元へと駆け寄ってきた。

 

彼女は両手で顔を覆いながら、俺の腕をポカポカと軽く叩いてくる。

 

「ひより。約束通り、一番かっこいいところ見せてやっただろ?」

 

俺が優しく微笑みかけると、ひよりは指の隙間から俺を見上げ、恥ずかしそうに、けれど最高に嬉しそうに頷いた。

 

「はいっ……。刃叉羅くん、本当に風みたいに速くて、すっごくかっこよかったです……っ!」

 

俺たちは、周囲に敵クラスの生徒たちが大勢いることなど完全に忘れ、二人だけの甘い世界へと没入していった。

 

すると、俺とひよりの周囲に、数人のCクラスの女子生徒たちが、おずおずと近づいてきた。

 

彼女たちは、普段からひよりと時々言葉を交わすような、大人しめの生徒たちのようだった。

 

「あ、あの……椎名さん」

 

「えっ、はい、なんでしょうか?」

 

ひよりが振り返ると、その女子生徒たちは、俺の顔を見て少し怯えながらも、ひよりに向かって優しく微笑みかけた。

 

「……良かったね、椎名さん。あんなに強くて、あなたのこと大好きな彼氏がいて」

 

「うん。私たち、椎名さんがいつも本読んでて一人ぼっちだったの、少し気になってたから……。呉くんが彼氏で、安心したよ」

 

その温かい言葉に、ひよりは目を丸くし、やがてパァッと顔を輝かせた。

 

「……ありがとうございます、皆さんっ!」

 

ひよりが深々と頭を下げると、女子生徒たちも「お幸せにね」とクスクス笑いながら戻っていった。

 

Cクラスという、龍園の恐怖政治が敷かれた殺伐とした環境の中にあっても、ひよりの持つ純粋な優しさは、こうして確実に周囲の人間を惹きつけ、和やかな空気を生み出していたのだ。

 

「……良いクラスメイトがいるじゃないか、ひより」

 

俺が頭を撫でると、ひよりは「はいっ」と嬉しそうに微笑んだ。

 

俺は、そのまま次の競技の呼び出しがかかるまでの間、敵陣である白組のテントに堂々と居座り、愛しの彼女とのお喋りを心ゆくまで楽しんだ。

 

龍園は遠くから舌打ちをしながら俺たちを睨んでいたが、不干渉の協定がある以上、手を出してくることはなかった。

 

そして、太陽が傾き始め、体育祭はいよいよ終盤戦へと突入しようとしていた。

 

残る競技は、あと四種目。

 

『借り物競走』、『四方綱引き』、『男女混合二人三脚』。

そして、体育祭の最後を飾る大一番『三学年合同1200メートルリレー』。

このうち、俺は平田に頼まれた『借り物競走』『四方綱引き』、そしてトップバッターを務める『三学年合同リレー』の三種目に出場することになっている。

 

『男女混合二人三脚』にはエントリーしていないが、俺の目的はクラスの勝利ではなく、あくまでひよりに「かっこいい姿」を見せ続けることだけだ。

 

「刃叉羅くん、次は借り物競走ですね」

 

「ああ。ひよりの応援がある限り、俺は絶対に負けないからな。見ててくれ」

 

俺は、ひよりの頭を優しく撫で、決意の笑みを浮かべて再びグラウンドへと向かった。

 

崩壊していくDクラスの盤面。

暗躍する影の支配者・綾小路。

そして、冷酷に牙を剥く独裁者・龍園。

 

 

様々な思惑が複雑に絡み合う体育祭の終盤戦にあって、暗殺者の少年はただ一人、恋という名の無敵のバフを全身に纏い、圧倒的な力で全てを蹂躙する準備を整えていた。

 

最後の戦いが、いよいよ始まろうとしていた。

 

 

 

 

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