青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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四十四話

過酷な熱戦が繰り広げられた体育祭が、全競技を終えて幕を閉じた。

 

全校生徒が疲労と興奮の入り交じった熱気と共に帰路につく中、グラウンドから少し離れた特別棟――監視カメラの死角となっている薄暗いエリアに、一人の少年の姿があった。

 

一年Dクラス、綾小路清隆。

 

彼は、一人で帰ろうとしていたところを、Aクラスの神室真澄に呼び止められ、半ば強引にこの場所へと案内されたのだ。

 

神室は「私の役目はここまでだから」とだけ言い残し、足早に立ち去っていった。

 

コンクリートの冷たい壁に囲まれた空間。

 

そこに、杖をつき、銀色の髪を美しく切り揃えた小柄な少女が、静かに佇んでいた。

 

Aクラスのリーダーであり、高度育成高等学校の頂点に君臨する少女――坂柳有栖。

 

彼女は、無表情で自分を見下ろす綾小路の姿を視界に捉えると、花がほころぶような、しかしどこか底知れぬ狂気を孕んだ笑みを浮かべた。

 

「お久しぶりですね。綾小路清隆くん」

 

「……誰だ? 俺はお前を知らない」

 

綾小路は、表情一つ変えずに淡々と返した。

 

「人違いじゃないか。帰らせてもらってもいいか」

 

踵を返し、その場を立ち去ろうとする綾小路の背中へ。

 

「――ホワイトルーム」

 

坂柳の口から発せられたその単語が、綾小路の足をピタリと止めた。

 

綾小路は、ゆっくりと振り返った。

その無機質な瞳の奥に、ほんのわずかな、しかし確かな警戒の光が宿る。

 

「……何者だ? お前は」

 

「ふふっ。ようやく、私の方を向いてくれましたね」

 

坂柳は、杖を両手で握りしめ、楽しそうに目を細めた。

 

「私の父は、この学校の理事長を務めています。かつて、あなたの父親が作り上げたあの施設――『ホワイトルーム』のシステムを知る数少ない人間の一人です」

 

綾小路は何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を聞いていた。

 

「私はずっと、あなたのことを知っていました。人工的に作られた天才の最高傑作。……ですが、私はあの施設の存在意義を、真っ向から否定します」

 

坂柳の瞳に、絶対的な自信と、選民思想にも似た強烈な光が灯る。

 

「天才とは、教育で作られるものではありません。生まれ持ったDNA、すなわち遺伝子に刻み込まれた優れた才能こそが、絶対の真理なのです。……人工の天才であるあなたを打ち倒し、私の持論が正しいことを証明する。あなたを葬るのは、私こそが相応しい」

 

「……」

 

綾小路は、坂柳の堂々たる宣戦布告を聞きながら。

ふと、自分の脳裏に、ある一人の少年の姿を思い浮かべていた。

 

(DNAに刻まれた遺伝子、か)

 

先ほどの100メートル走で、手加減をした状態で9秒8という異常な数値を叩き出した男。

 

そして、その男の姉であり同じく常軌を逸した戦闘力を持つという迦楼羅の存在。

 

人間の限界を超えた力を持つ『呉 刃叉羅』という存在を間近で見てしまった後だと、坂柳の言う「血や遺伝子に刻まれた絶対的な力」という理論が、あながち間違っていないように思えてしまう。

 

あの男の力は、ホワイトルームの極限の教育システムをもってしても、到達できない次元にあると、綾小路の直感が告げていたからだ。

 

「……お前に、俺が葬れるのか?」

 

綾小路は、坂柳に向かって静かに問い返した。

 

「ふふふ、ええ。もちろんですよ」

 

坂柳は、極上の玩具を見つけた子どものように、心底楽しそうに笑った。

 

「さて。あなたと再会できた記念に、一つ質問をしてもよろしいですか?」

 

「……その前に、少し良いか?」

 

綾小路は、坂柳の言葉を遮り、ポケットから自分の端末を取り出した。

 

この体育祭、綾小路はただ傍観していたわけではない。

 

龍園翔がDクラスを崩壊させるために仕掛けた数々の罠。その中でも、堀北鈴音を物理的に排除しようとした『木下との接触事故』の裏付けを、彼はすでに取っていた。

 

優待者試験の時、船のボイラー室で軽井沢を虐めていた証拠で真鍋たちを脅し、スパイとして潜入させ、龍園が木下に『堀北にぶつかれ』と指示を出している決定的な音声を録音させていたのだ。

 

綾小路は、端末の画面を数回タップし、その音声データを添付したメールを、匿名アドレスからたった今、ある人物へと送信した。

 

「……待たせたな。質問ってなんだ?」

 

端末をポケットにしまい、何事もなかったかのように視線を戻す綾小路。

 

坂柳は、彼のその不可解な行動に微かに首を傾げたが、すぐに興味深そうな笑みを浮かべ直した。

 

「綾小路くん。あの、Dクラスの『呉 刃叉羅』という生徒は……一体何者ですか?」

 

坂柳の脳裏にも、グラウンドを震撼させたあの異常なタイムが焼き付いていた。

 

「まさか、彼もあなたと同じ……ホワイトルームの出身なのですか?」

 

その問いに、綾小路は内心であの体育祭を見たら、呉の異常な身体能力が気になるのは当然かと納得した。

 

だが、彼は静かに首を横に振った。

 

「いや、違う。あいつはあの施設とは無関係だ」

 

「ほう? では、あの常識外れの身体能力は、どう説明するのですか?」

 

「さあな。俺にも分からない。……ただ、俺とあいつの間には、互いの事情を深く詮索しないという『暗黙の了解』があるんでな。俺から言えることは何もない」

 

綾小路が明確に線を引くと、坂柳は口元に扇子を当てるように手を添え、クスクスと笑った。

 

「ふふふ……なるほど。彼もまた、この学校に潜む『天才』の一人というわけですね。いずれ、彼とも直接お話してみたいものです」

 

「やめておいた方がいい。あいつは、平穏を脅かされることを何よりも嫌う男だ」

 

「忠告、感謝します。……ですが、退屈な日々がこれでようやく終わりそうです。これからの学園生活が、とても楽しみになりましたよ、綾小路くん」

 

坂柳有栖という新たな脅威との邂逅。

 

影の支配者である綾小路の周囲で、盤面はさらに複雑に、そして血生臭く絡み合い始めていた。

 

 

 

一方、その頃。

特別棟の医務室近くの静かな廊下で、もう一つの血生臭い対峙が繰り広げられていた。

 

「……で? 慰謝料を払う気になったか、鈴音」

 

壁に寄りかかり、薄ら笑いを浮かべるCクラスの独裁者――龍園翔。

 

その手前には、車椅子に乗ったCクラスの女子生徒、木下の姿があった。

 

そして彼らと対峙しているのは、Dクラスのリーダーである堀北鈴音と、彼女に付き添ってきた櫛田桔梗だった。

 

「馬鹿馬鹿しい。私が故意に彼女にぶつかったとでも言うつもり?」

 

堀北は、鋭い視線で龍園を睨みつけた。

 

「彼女の方から不自然な軌道で私に接触してきたのよ。慰謝料など、一ポイントたりとも払う義務はないわ」

 

「ククク。言うじゃねえか。だがな、状況証拠はどう見てもお前のファウルだ。木下は足を怪我してんだぜ?」

 

龍園は、蛇のようにねっとりとした視線を堀北に絡ませた。

 

「どうしても認めねえって言うなら、仕方ねえ。この件、生徒会に持ち込んで審議してもらおうか。……おっと、そういや生徒会長は、お前の大好きな『お兄様』だったな?」

 

「――――っ!!」

 

その言葉を聞いた瞬間。

堀北の顔色が一気に蒼白になり、強気だった態度が音を立てて崩れ去った。

兄である堀北 学。

 

彼に認められるためだけにこの学校に入学し、無人島でも体育祭でも必死に結果を残そうとしてきた彼女にとって。

 

自分が暴力事件の加害者として兄の前に引きずり出されることは、何よりも恐ろしい、絶対的な絶望だった。

 

兄の顔に泥を塗ることになる。最悪の場合、兄自身の口から『退学』を宣告されるかもしれない。

 

その強烈なトラウマを、龍園は完全に把握し、的確に急所を突いてきたのだ。

 

「ククク……良い顔するじゃねえか。どうだ? 生徒会沙汰にしたくねえなら、今すぐ俺に100万ポイント払え。……それと、ここで俺の靴舐めて『土下座』しろ」

 

「なっ……!」

 

龍園の屈辱的な要求に、堀北はギリッと歯を食いしばった。

隣にいる櫛田が「そんな……ひどいよ龍園くん!」と涙目で庇うような演技をしているが、今の堀北の目には入っていない。

 

(……どうすればいい。私が土下座すれば……兄さんに迷惑をかけずに済むのなら……)

 

恐怖と絶望に支配された堀北の膝が、震えながら、ゆっくりと冷たい床へと沈み込もうとした。

 

その、まさに直前。

 

『――ピロンッ』

 

静まり返った廊下に、電子音が鳴り響いた。

龍園のポケットに入っていた端末の、メール受信音だった。

 

「……あ?」

 

龍園は、チッと舌打ちをして、面倒くさそうに端末を取り出した。

差出人は不明。添付ファイルが一つ。

龍園は怪訝そうに眉をひそめながら、その音声ファイルをタップし、端末を耳に当てた。

 

『……いいか、木下。騎馬戦の時、お前は確実に堀北にぶつかれ。怪我をしてでも奴をリタイアさせろ……』

 

耳元から流れてきたのは。

他でもない、龍園自身が木下に指示を出している、完全な『自白の録音データ』だった。

 

「――――」

 

龍園の動きが、完全に停止した。

数秒間、その音声の真意と、これが送られてきたタイミング、そして『誰が』これを録音し、送ってきたのかを脳内で猛烈な速度で計算する。

 

俺のクラスの配下をスパイとして操っている『別の何者か』が、Dクラスの裏に潜んでいるということだ。

 

そしてその何者かは、堀北が土下座しようとするこの完璧なタイミングで、龍園の急所を的確に撃ち抜いてきたのだ。

 

「……クックックッ」

 

沈黙の後。

龍園の喉の奥から、低く、しかし歓喜に満ちた笑い声が漏れ出した。

 

「ハハハハハッ!! おもしれえ!! おもしれえなあ!!おい!!」

 

龍園は、腹を抱えて狂ったように笑い始めた。

突然の態度豹変に、土下座をしかけていた堀北も、演技をしていた櫛田も、ポカンとして彼を見上げている。

 

「おい鈴音。……てめえ、とんでもねえ『バケモノ』を飼ってやがるな」

 

龍園は、笑い涙を拭いながら、堀北に向かってニヤリと凶悪な笑みを向けた。

 

「今日のところは、これで勘弁してやるよ。……だがな、Dクラスの裏でコソコソ隠れてるそいつに伝えとけ。俺が必ず、そいつの正体を引きずり出してぶっ潰してやるってな!」

 

龍園はそう言い残し、木下の車椅子を押すことも忘れて、上機嫌で踵を返し、廊下の奥へと消えていった。

 

「……一体、何が起きたの……?」

 

残された堀北は、冷や汗を流しながら、完全に事態を飲み込めずに立ち尽くしていた。

 

 

夕闇が完全に夜の帳へと変わり、秋の涼しい風が高度育成高等学校の敷地を吹き抜けていく。

 

熱狂と波乱に満ちた体育祭が終わり、生徒たちの多くは疲労困憊でそれぞれの寮へと帰っていった。

 

俺――呉 刃叉羅もまた、愛しの彼女である椎名ひよりと共に、男子寮にある自分の部屋へと足を踏み入れていた。

 

「ふぅ……。流石に、今日は少し疲れたな」

 

「お疲れ様です、刃叉羅くん。今日は本当に、大活躍でしたからね」

 

部屋の明かりをつけると、いつもの見慣れたプライベート空間が俺たちを迎え入れてくれる。

 

体育祭でのプレッシャーや周囲の視線から完全に解放され、ようやく訪れた二人きりの時間。

 

「よし、とりあえずシャワーを浴びて……その後、何か美味いもんでもデリバリーするか? それとも、俺がパパッと何か作るか?」

 

俺が上着を脱ぎながら提案すると、ひよりは俺の前にスッと立ち塞がり、両手を胸の前でギュッと握りしめて、上目遣いで首を横に振った。

 

「いえ、今日は私が作ります!」

 

「……え?」

 

予想外の宣言に、俺は思わず目を丸くした。

 

「今日は、刃叉羅くんが私のためにあんなに一生懸命走ってくれて、すっごくかっこいい姿を見せてくれました。だから……今日のお疲れ様会は、私に料理を作らせてくださいっ」

 

ひよりの瞳には、一切の妥協を許さない強い決意の光が宿っていた。

普段は大人しく、読書を愛するインドア派の彼女だが、こういう時の芯の強さは並の人間以上だ。

 

「……そ、そうか。じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 

俺がタジタジになりながら頷くと、ひよりは「はいっ!」と花が咲くような笑顔を見せ、俺のキッチンへと向かっていった。

 

 

数分後。

シャワーを浴びてスッキリした俺がリビングに戻ると、そこには、俺が普段使っているエプロン(俺のサイズなのでひよりには少し大きい)を身に纏い、キッチンに立つ天使の姿があった。

 

(――――ッッ!!)

 

俺の心臓が、今日何度目か分からない強烈なストライクを食らって激しく跳ねた。

 

大きめのエプロン。後ろでキュッと結ばれた紐。袖をまくり上げて、真剣な表情でまな板に向かう横顔。

 

破壊力が高すぎる。この光景だけで、白米が三杯は食えそうだ。

 

だが、そんなデレデレとした俺の思考は、彼女が包丁を握り、野菜を切り始めた瞬間に、別の意味での『極度の緊張状態』へと引き戻された。

 

トントントン、という、少しおぼつかない包丁の音。

 

(お、おいおい……指の位置、もう少し丸めた方がいいんじゃないか? いや、包丁の角度が少し甘い……滑ったら手を切るぞ……!)

 

俺の暗殺者としての動体視力は、ひよりの手元をミリ秒単位で完全に捉えていた。

 

包丁が下りるたびに、「ああっ!」「危ない!」と俺の内心で絶叫が響き渡る。

 

戦場を駆け抜け、銃弾の雨の中を潜り抜けてきた俺が、たかが女子高生が野菜を切っているだけの光景に、冷や汗をダラダラと流してハラハラしているのだ。

 

俺があまりにも食い入るように、そして息を詰めて見守っていたせいだろう。

視線に気づいたひよりが、野菜を切る手を止めてこちらを振り返った。

 

「ふふっ。刃叉羅くん、そんなに心配そうな顔をしないでください。大丈夫ですよ」

 

ひよりは、少し照れくさそうに、けれどとても可憐に微笑んだ。

 

「私、いつも刃叉羅くんに美味しいお料理を振る舞ってもらっているから……少しでもお返ししたくて、実はお部屋でこっそり練習していたんです。だから、怪我なんてしませんよ」

 

「――――〜〜〜〜ッッッ!!!」

 

俺の心臓は、ついに限界を突破して完全に機能停止した。

 

(俺のために……練習してくれてた、だと……!?)

 

可愛すぎる。健気すぎる。天使すぎる。

俺の頭の中に、突如として『新婚生活』という四文字がデカデカと浮かび上がった。

 

(結婚したら……こんな感じなのかな。俺が仕事から帰ってきたら、ひよりがエプロン姿で出迎えてくれて。……いや、俺も料理は得意だから、二人でキッチンに立って、交代でご飯を作ったりして……。一緒に味見なんかして……)

 

俺の脳内は、すでに高度育成高等学校を卒業し、呉一族のいざこざも全て平和的に解決した後の、数年後の甘すぎる未来予想図へと完全にトリップしていた。

 

(……幸せすぎるな、これ。絶対にこの未来を掴み取ってやる)

 

俺はリビングのソファに深く沈み込みながら、顔を覆って悶絶していた。

 

やがて、キッチンから食欲をそそる良い匂いが漂い始め。

 

「お待たせしました、刃叉羅くん!」

 

テーブルの上に並べられたのは、温かい手作りのシチューと、彩り鮮やかなサラダ、そして綺麗に焼かれたバゲットだった。

 

派手なフルコースではないが、家庭的で、見ているだけで心がホッと温かくなるようなメニューだ。

 

「いただきます」

 

俺はスプーンを手に取り、シチューをすくって一口、口に含んだ。

 

「……っ」

 

鶏肉と野菜の旨味が、優しいミルクの甘みと共に口いっぱいに広がる。

 

決してプロの料理人のような複雑な味付けではない。だが、彼女が俺のために一生懸命作ってくれたという『世界で一番の隠し味』が、この料理を究極の一皿へと昇華させていた。

 

「どう……ですか?」

 

ひよりが、俺の反応を窺うように、不安げな上目遣いで尋ねてくる。

 

俺は、スプーンを置き、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ返した。

 

「……美味い。大げさじゃなく、俺がこれまでの人生で食べてきた中で、一番美味しい料理だ」

 

過酷な訓練の日々。味のしない携行食。時にはサバイバルで野草や蛇を食らった過去。

 

彼女の作ったシチューは、涙が出るほど優しく、そして深く染み渡っていった。

 

「も、もうっ……。刃叉羅くん、それは流石に大げさですよっ」

 

ひよりは顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに両手で顔をパタパタと扇いだ。

 

「本当だって。俺、毎晩これでもいいくらいだ」

 

「ふふっ。でも、喜んでもらえて本当に良かったです。……刃叉羅くん、今日は本当にお疲れ様でした。私、刃叉羅くんが走っている姿を見て、すごくドキドキしました」

 

ひよりが、嬉しそうに微笑みながら自分のシチューに口をつける。

 

俺たちは、体育祭での出来事や、お互いのクラスの様子など、他愛のない、けれど何よりも幸せな会話を交わしながら、二人だけの夕食を心ゆくまで楽しんだ。

 

食後は、俺のターンだ。

俺がキッチンに立ち、とっておきの茶葉で香り高いアールグレイの紅茶を淹れる。

 

リビングのソファに二人で並んで座り、温かいティーカップを傾けながら、まったりとした時間を過ごす。

 

テレビをつけるわけでもなく、ただ静かな部屋の中で、肩と肩が触れ合う距離で寄り添う。

 

時折、彼女の銀色の髪から漂うシャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐり、その度に俺の心は安らぎで満たされていった。

 

だが、無情にも時間は過ぎていく。

時計の針が、女子寮の門限の時間が近づいていることを告げていた。

 

「……そろそろ、時間だな。送っていくよ」

 

「はい。今日は本当に、ありがとうございました」

 

俺たちは部屋を出て、夜の静寂に包まれた寮の廊下を歩き出した。

 

女子寮にある、ひよりの部屋の前。

 

「ここまでで大丈夫です。送っていただいて、ありがとうございました」

 

ひよりが、部屋のドアノブに手をかけながら、名残惜しそうに振り返る。

 

「ああ。ひよりも、今日はゆっくり休んでくれ。疲れが出てるはずだからな」

 

「はいっ。刃叉羅くんも……」

 

ひよりが、何かを言いかけて、ふと口ごもった。

 

彼女は、少しだけ俯き、もじもじと指先を絡ませている。

その様子が小動物のようで可愛らしく、俺は優しく微笑んで彼女の言葉を待った。

 

すると。

ひよりは、急に顔を上げ、決意を秘めたような瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。

 

「あの……刃叉羅くん」

 

「ん?」

 

「今日の刃叉羅くん……とっても、かっこよかったですっ!」

 

その言葉と共に。

ひよりが、背伸びをして、俺の胸元にスッと顔を近づけてきた。

 

ちゅっ、と。

俺の頬に、いや、頬から少しずれた唇の端に。

ひよりの、信じられないほど柔らかく、温かい唇が、ほんの数秒だけ、確かに触れたのだ。

 

「――――――――ッッッ!!!!!!??」

 

俺の脳内の時間が、完全に停止した。

 

暗殺者としての俺の反射神経は、彼女が背伸びをして顔を近づけてきた瞬間、その軌道と速度をミリ単位で完全に捉え、時間が止まったかのようにスローモーションで認識していた。

 

躱そうと思えば、音速の拳すら避ける俺にとって、彼女の不意打ちは止まっているも同然だった。

 

だが、そんなものを躱せるはずがない。いや、躱す理由など宇宙のどこを探しても存在しなかった。

 

俺は、完全に無防備な状態で、その極上の不意打ちを真っ向から受け止めた。

 

「あっ……」

 

離れた瞬間、ひよりは自分のしたことの重大さに気づいたのか、顔を爆発しそうなほど真っ赤に染め上げた。

 

「お、おやすみなさいっ!!」

 

ひよりは、それだけを叫ぶと、脱兎のごとく部屋のドアを開け、凄まじい勢いで中に飛び込み、バタンッ! とドアを閉めてしまった。

 

静まり返る廊下。

残された俺は、ドアの前で、彫像のように完全に立ち尽くしていた。

 

「…………」

 

俺は、ゆっくりと、震える右手で自分の唇の端に触れた。

そこには、確かな彼女の温もりと、甘い香りが残っていた。

 

(……え? キス、された? 俺、ひよりに……キス、された……!?)

 

俺の強靭なはずの精神力は、完全にキャパシティをオーバーし、大崩壊を起こしていた。

 

『うおおおおおおおおおっっっ!!!!』

 

『やった! やったぞおおおおおっ!! 俺の天使が!! キスしてくれたあああっ!!』

 

『死ぬ!! 幸せすぎて死ぬ!! なんだあの可愛さは!? 暗殺成功率100パーセントのクリティカルヒットだろ!!』

 

俺の内心は、暗殺者としてのクールな仮面など木っ端微塵に吹き飛び、狂喜乱舞し、悶絶し、完全にこんがらがった感情の渦となって荒れ狂っていた。

 

もし今この瞬間に敵に襲撃されていたら、俺は間違いなくニヤケ面を浮かべたまま死んでいただろう。

 

俺は、天を仰ぎ、誰にも見られないようにガッツポーズをキメてから、夢見心地のままフラフラと自分の部屋への帰路についた。

 

 

 

だが、そんな俺の至福の時間を、無慈悲に引き裂く不快なノイズがあった。

 

ウィーン、ウィーン。

ポケットの中の端末が、無機質な振動音を立てた。

 

(……チッ。誰だ、こんな最高な気分の時に)

 

画面を見ると、そこには『龍園 翔』という忌まわしい名前が表示されていた。

 

俺は舌打ちをし、電話に出るか無視するか一瞬迷ったが、後で面倒なことになるのも嫌なので、渋々通話ボタンを押した。

 

「……なんだよ」

 

『ククク。特別棟の裏手、自販機の前に来い。少し話がある』

 

それだけ言って、一方的に通話は切られた。

 

俺は深くため息をつき、寮へと向かっていた足の向きを変え、指定された場所へと向かった。

 

暗殺者としての警戒心など微塵もない。今の俺の頭の中は、「早く帰ってさっきのキスの余韻に浸りたい」という思考で99パーセント占められていた。

 

特別棟の裏手。

暗がりに設置された自動販売機の光に照らされて、壁に寄りかかる龍園の姿があった。

 

その後ろには、いつものようにアルベルトや石崎の姿はない。単独での呼び出しだ。

 

「よお、化け物」

 

龍園は、俺の姿を視界に捉えると、薄ら笑いを浮かべた。

 

「今日は随分と派手に動きやがったな。あの100メートルのタイムといい、綱引きの異常なパワーといい……お前、完全にリミッター外してただろ」

 

龍園の探るような視線。

だが、俺はそんなものに一切の興味を示さず、ひどく面倒くさそうな声で返した。

 

「……龍園。俺は今、人生で一番ってくらいに『いい気分』なんだ。無駄話で俺の気分を害するなよ。……首の骨を折ってグラウンドに埋めるぞ」

 

俺の言葉には、一切の怒気は含まれていなかった。

だが、感情が完全に抜け落ちた『純粋な殺意の事実』だけが、秋の夜風よりも冷たく、龍園の肌を撫でた。

 

「……ククッ、脅すねえ」

 

龍園の顔から一瞬だけ笑みが消え、すぐにまた不敵な笑みに戻る。

彼もまた、俺の言葉がただのハッタリではないことを本能で理解しているのだ。

 

「はぁ……。前にも言ったろ?」

 

俺はため息をつき、前髪を掻き上げた。

 

「俺は、Aクラスなんていうお前らの特権争いには、一ミリも興味がない。クラスポイントがどうなろうと知ったことか。……だがな、体育祭みたいな学校行事で、ただの『クラスメイトの一人』として協力して走ることくらいはある。今日は、彼女にかっこいいところを見せたかっただけだ。それ以上の意味はねえよ」

 

俺がはっきりと宣言すると、龍園は「ククク、だろうな」と喉の奥で笑った。

 

俺がクラスの勝利のために暗躍するようなタマではないことは、彼も重々承知しているはずだ。

 

「まあいい。お前のそのイカれた動機はどうでもいい」

 

龍園は、自販機で買った缶コーヒーを弄びながら、本題を切り出した。

 

「お前がただの傍観者だってのは理解した。……だがな、俺は今日、Dクラスの裏に潜むとんでもねえ『黒幕』の存在を確信した。俺の策を完全に読み切り、的確にカウンターを叩き込んでくるバケモノがな」

 

龍園の蛇のような瞳が、俺の目を真っ直ぐに射抜く。

 

「……お前が、鈴音の裏にいる『黒幕』か?」

 

「――――」

 

(……綾小路のことか)

 

俺は内心で即座に正解に辿り着いていた。

体育祭の裏で、龍園と堀北の間で何らかのトラブルがあり、それを綾小路が裏から完全に制圧したのだろう。

 

だが、俺がその事実を口にする義理はない。

 

「……さあな」

 

俺は肩をすくめ、鼻で笑った。

 

「俺が、そんな面倒くさい裏工作なんてすると思うか?」

 

俺は一歩だけ、龍園との距離を詰めた。

圧倒的な、捕食者としてのオーラを静かに放ちながら。

 

「もし俺が本気でAクラスを目指すなら。……夜闇に紛れて、各クラスのリーダーをバレないように『物理的に再起不能』にする。そうすれば、Dクラスは自動的に繰り上がりで1位だ。……俺にとっては、そっちの方が遥かに簡単で、手っ取り早いからな」

 

「――――ッ!!」

 

龍園の瞳孔が、僅かに収縮した。

 

俺の言葉が、ただの暴力的な脅しではなく、暗殺のプロフェッショナルとしての『最も効率的な解』であることを、彼自身の危機察知能力が警鐘を鳴らして理解したのだ。

 

俺がその気になれば、明日にはA、B、Cクラスのリーダーは全員病院のベッドの上だ。

 

(もっとも、理事長にはすぐにバレるし、娘さんに危害を加える気もないが)

 

「……ククク、ハハハハッ!! 違いねえ。お前ならそうするだろうな」

 

数秒の沈黙の後、龍園は腹の底から楽しそうに笑い出した。

 

「一応、確認で聞いただけだ。お前みたいな純粋な『暴力の化身』が、ネチネチとした頭脳戦を仕掛けてくるとは思えなかったからな」

 

「理解したなら、もう用は済んだだろ」

 

俺は踵を返し、特別棟の裏手から立ち去ろうとした。

 

「あ、そうだ龍園」

 

俺は立ち止まり、背を向けたまま声を投げた。

 

「俺は、お前が探してる『黒幕』の正体……見当はついてるぜ」

 

「……あ?」

 

龍園の気配が、鋭く研ぎ澄まされるのが分かった。

 

「だが、教えてやらない。お前のその『正体探し』っていう最高のお楽しみを、俺が横から奪うわけにはいかないからな。……せいぜい、血反吐を吐きながら頑張って探してみな。返り討ちに遭って絶望するお前の顔を、特等席で見物させてもらうよ」

 

俺が意地悪く笑いながら言い捨てると、背後から「……ククク、上等だ。特等席で見てやがれ」という、龍園の狂気に満ちた笑い声が聞こえてきた。

 

影の支配者と、独裁者。

彼らの死闘は、これからさらに激化していくだろう。

 

だが、そんなものは俺には関係ない。

 

男子寮の自室に戻り、ベッドにダイブした瞬間。

俺の頭の中から、龍園との会話や、クラスの権力闘争、綾小路の暗躍といったノイズは、綺麗さっぱり完全に消去されていた。

 

『今日、刃叉羅くん……とっても、かっこよかったですっ!』

 

脳裏にフラッシュバックするのは。

背伸びをして、頬を赤く染めながら、俺の唇の端に触れた、あの天使の柔らかな感触だけ。

 

「……はぁぁぁ……。マジで、可愛すぎるだろ……」

 

俺は、ベッドの上でクッションを抱きしめながら、誰にも見せられないようなだらしない顔で悶絶していた。

 

暗殺者として、血と硝煙の匂いの中で生きてきた俺の人生。

だが、今の俺を包んでいるのは、甘いシャンプーの香りと、温かい夕食の記憶、そして愛する人からの優しい口づけだけだ。

 

「……本当に。この学校に来て、良かった」

 

俺は、天井の明かりを見つめながら、心の底からそう呟いた。

どんな過酷な試験があろうと、どんな悪意が渦巻いていようと。

この圧倒的な幸福感の前では、全てが些細な出来事に過ぎない。

 

暗殺者の少年は、自室のベッドでただ一人の少女への愛に溺れながら。

波乱の体育祭の夜を、世界で一番幸せな夢と共に、深く甘く眠りに落ちていくのだった。

 

 

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