青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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四十五話

激動の体育祭が終わってから、数日が経過した。

 

高度育成高等学校は、祭りの後の独特な気怠さと、それでも確かに残る熱の余韻に包まれていた。

 

あの一日を経て、一年Dクラスの空気は劇的な変化を遂げていた。

 

まず、クラスの絶対的エースでありながら問題児でもあった須藤健が、驚くほど丸くなった。授業中も真剣にノートを取り、クラスメイトに無闇に噛み付くこともなくなったのだ。堀北鈴音という明確な『手綱』を握る存在が確立したことで、彼の中の何かが大きく成長したらしい。

 

そしてもう一つ、クラス内で起きた大きな変化。

それは、一部の女子生徒たちによる『綾小路清隆への再評価』である。

 

体育祭の最後を飾る三学年合同リレー。

あそこで、生徒会長である堀北学と互角の凄まじい走りを見せつけた綾小路は、これまでクラス内で築き上げてきた『存在感の薄い、無気力な生徒』という仮面を完全に粉砕してしまったのだ。

 

「――ねえ、呉くん。ちょっといいかな?」

 

その日の昼休み。

俺が自分の席で適当に弁当をつついていると、クラスのギャルグループの一人である佐藤麻耶が、少しもじもじとした様子で話しかけてきた。

 

「ん? なんだ、佐藤」

 

俺が箸を止めて顔を上げると、佐藤は周囲をチラチラと気にしながら、声を潜めて聞いてきた。

 

「その……呉くんって、綾小路くんと結構仲良いじゃん? よく一緒にいるし」

「んー、まあ、席も近いしな。悪友みたいなもんだ」

 

「そっか。……あのさ、綾小路くんって、普段どんな人なの? その……彼女とか、いたりするのかな?」

 

「……ははぁ」

 

俺は、佐藤の少し上気した頬と、期待に満ちた上目遣いを見て、全てを察した。

 

体育祭のリレーで見せた、あのバケモノじみた走り。無気力で地味だと思っていた男子が、実はとんでもない実力を隠し持っていたという『ギャップ』は、思春期の女子高生のハートを射抜くには十分すぎる破壊力を持っていたらしい。

 

(綾小路の奴、目立たないように平均点を狙ってたはずが、結局一番目立つところで本気を出して、しっかり女子のフラグを立ててやがる。……本当に罪作りな男だぜ)

 

俺が内心で呆れながらも、佐藤にどう答えるべきかと思案していると。

 

(……ん?)

 

俺の暗殺者としての鋭敏な視界の端で、ピクリと動く気配があった。

 

少し離れた席で、友人たちと談笑しているはずの軽井沢恵が。会話をしながらも、こちら――正確には、綾小路の女性関係を探る佐藤と俺の会話――を、ひどく微妙な表情でチラチラと盗み見ていたのだ。

 

嫉妬、というほど露骨なものではない。だが、確実に『自分のテリトリーを侵されようとしている』ことへの警戒と、隠しきれない独占欲が入り混じった、複雑な視線。

 

俺の目には、その微細な表情の変化がはっきりと見て取れた。

 

(……なるほどな)

 

俺は、一学期の船上での優待者試験の時の出来事を思い返した。

 

あの時、綾小路は確実に軽井沢に何らかのアプローチをかけていた。

 

そして今の軽井沢のあの視線。……どうやら綾小路は、すでに軽井沢を完全に手懐け、己の盤面の強力な『駒』として組み込むことに成功しているらしい。

 

(俺には関係のないことだが……お前も色々と大変そうだな、綾小路)

 

俺は心の中で悪友に同情しつつ、目の前でモジモジしている佐藤に向かって、爽やかな笑顔を向けた。

 

「綾小路か。あいつは見ての通り、無口で何を考えてるか分からないところはあるけど、根は悪い奴じゃないぞ。……彼女は、俺の知る限りではいないはずだぜ」

 

「ほ、ほんと!? そっか、いないんだ……!」

 

佐藤の顔が、パァッと明るく輝く。

 

「体育祭のリレーの時の綾小路くん、すっごくかっこよかったから……なんか、急に気になっちゃって」

 

佐藤が両手で頬を押さえながら、乙女の顔で呟く。

 

「まあ、気持ちは分かるよ。……とりあえず、いきなり告白とかじゃなくて、友達から始めてみたらどうだ? 連絡先を聞くとかさ」

 

「うんっ! そうだね、まずは話しかけてみる! 呉くん、ありがとう!」

 

佐藤は足取りも軽く、自分のグループの元へと戻っていった。

それを横目で見ながら、俺は再び弁当に箸を伸ばした。

 

恋愛模様が複雑に絡み合うクラスの人間関係。

俺はそんな青春群像劇を、完全に蚊帳の外から楽しむ観客のポジションに収まっていた。

 

俺にはすでに、世界で一番可愛くて、世界で一番愛しい『絶対的なヒロイン』がいるのだから。他人の恋愛事情など、極上のスパイスでしかない。

 

 

そして、放課後。

ホームルームが終わるや否や、俺は足早に教室を後にし、いつもの『聖域』へと向かった。

 

静寂とインクの香りが漂う、放課後の図書室。

窓際の特等席には、すでに一冊の文庫本を広げ、静かにページをめくっている銀色の髪の天使――椎名ひよりの姿があった。

 

「――お待たせ、ひより」

 

「あ、刃叉羅くん。お疲れ様です」

 

俺が向かいの席に腰を下ろすと、ひよりはパタンと本を閉じ、花がほころぶような笑顔を見せてくれた。

 

だが、その頬は、ほんのりと桜色に染まっており、俺と視線が合うと、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せてしまった。

 

「…………」

 

「…………」

 

二人きりになった途端、俺たちの間に、どことなくぎこちない、けれど甘ったるい沈黙が降りた。

 

無理もない。

体育祭の夜。女子寮の扉の前で、俺は彼女から不意打ちのキスをされたのだ。

頬から少しずれた、唇の端への口づけ。

 

あれから数日が経つというのに、俺の唇にはまだその柔らかな感触が鮮明に焼き付いているし、こうして顔を合わせるだけで、心臓が爆発しそうなほど高鳴ってしまう。

 

「その……今日の授業は、どうでしたか?」

 

ひよりが、沈黙に耐えきれなくなったように、小さな声で話題を振ってきた。

 

「ああ、いつも通りだ。午後からの数学は眠気との戦いだったけどな」

 

「ふふっ。刃叉羅くん、頭が良いのに、授業中はいつも退屈そうですよね」

 

「ひよりが隣にいてくれたら、絶対に寝ない自信があるんだけどな」

 

俺が少しだけからかうように言うと、ひよりは「も、もうっ……」と顔を赤くして、広げていた文庫本で口元を隠してしまった。

 

(ああ、クソッ……。可愛すぎる。今すぐここが図書室だってことを忘れて抱きしめたい)

 

俺は必死に暗殺者としての精神統一を行い、どうにか理性を総動員して席に座り続けていた。

 

ぎこちないけれど、この上なく幸せな空気。

俺たちは、言葉少なに、しかし確かな温もりを共有しながら、静かに読書の時間を楽しんでいた。

 

だが、そんな俺たちの甘い逢瀬を、優雅な足音が遮った。

 

カツッ……カツッ……。

図書室の静寂の中に、硬い杖の音が響き渡る。

 

足音は迷うことなく俺たちのテーブルへと近づいてきて、そして、ピタリと止まった。

 

俺が顔を上げると、そこには、銀色の髪を美しく切り揃え、口元に上品な笑みを浮かべた小柄な少女が立っていた。

 

「――初めまして。呉 刃叉羅くん」

 

一年Aクラスのリーダーに君臨する少女。

坂柳 有栖だった。

 

俺は、文庫本から視線を外し、彼女を静かに見据えた。

 

(……Aクラスのリーダーか、なんのようだ?)

 

暗殺者としての本能が、目の前の少女から発せられる『尋常ではない知性』と『底知れぬ自信』を敏感に感じ取っていた。

 

肉体的な脅威は皆無だが、頭脳戦においては龍園や堀北を遥かに凌駕する怪物。

 

だが、俺には彼女を無下に扱えない『明確な理由』があった。

 

(このお嬢さんは……坂柳理事長の娘さんだからな)

 

俺がこの外部との接触を絶たれた特殊な学校に入学できたのは、他でもない、彼女の父親である坂柳理事長が特別に許可を出してくれたからだ。

 

その際、俺は理事長と『娘である有栖には絶対に危害を加えない』という不可侵の誓約を交わしている。

 

つまり、俺にとって彼女は、恩人の娘であり、同時に絶対に手を出してはならない『アンタッチャブルな存在』なのだ。

 

(まあ、恩のある人の娘さんだ。挨拶や質問くらいには答えてやるか)

 

俺は、警戒心を心の奥底に沈め、極めて平穏な高校生としての仮面を被った。

 

「初めまして、お嬢さん。……俺たちに何か用か? 」

 

俺が落ち着いた声で返すと、坂柳は杖を両手で軽く握り直し、ふふっと楽しそうに目を細めた。

 

「突然のお声がけ、失礼いたしました。隣の椎名さんも、ごきげんよう」

 

「あ……ごきげんよう、坂柳さん」

 

ひよりが少し戸惑いながらも、丁寧にお辞儀を返す。

 

坂柳は、俺の目を真っ直ぐに見つめ、まるで哲学の問いでも投げかけるような、静かで深い声で口を開いた。

 

「単刀直入にお聞きします。……呉くん。あなたにとって、『天才』とは何ですか?」

 

「…………は?」

 

予想の斜め上をいく唐突な質問に、俺は思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。

 

クラスポイントの探り合いでも、他クラスへの牽制でもなく、いきなり『天才の定義』を聞いてきたのだ。

 

「天才、か……」

 

俺は腕を組み、天井を見上げて少し思考した。

 

俺は幼い頃から、呉一族という狂った環境の中で、生き残るためだけに極限の修練を積んできた。周囲には人間離れした能力を持つ身内がゴロゴロいたため、『誰が天才か』などと考える余裕も、意味もなかった。

 

「……あまり考えたことはないな。強いて言うなら、常人より優れた能力を持っているやつのことだろ?」

 

俺が至極真っ当な、面白みもない一般論を返すと、坂柳は小さく首を横に振った。

 

「それは、辞書に載っているような一般論でしょう? 私が聞きたいのは、あなた自身の見解です」

 

坂柳の瞳に、鋭い光が宿る。

 

「体育祭の100メートル走で見せた、あの9秒8という走り。そして四方綱引きで見せた、他クラスの生徒を赤子のように引きずり倒す圧倒的な膂力。……あなたは間違いなく、常人の域を逸脱した『天才』です。だからこそ、私はあなたの意見を聞きたいのです」

 

(……なるほど。あの体育祭の記録を見て、俺に興味を持ったってわけか)

 

俺は内心でため息をついた。

 

やはり、あの場でリミッターを外したのはやりすぎだった。綾小路の言う通り、目立ちすぎたのだ。だが、ひよりのためだったのだから後悔は一ミリもない。

 

「天才とは、過酷な環境や教育によって後天的に『作られる』ものだと思いますか? それとも……生まれた時にすでに刻まれている、DNAという名の遺伝子によって『決まる』ものだと思いますか?」

 

坂柳の問いかけ。

それは、彼女自身が抱く強烈な信念と、どこかの誰かの存在を念頭に置いた、非常に重い問いだった。

 

「……DNA、か」

 

俺は、その言葉を聞いて、思わず口角を上げて笑いそうになるのを堪えた。

 

(環境か、遺伝子か。……まるで、うちの一族の考え方そのまんまじゃないか)

 

俺の生家である『呉一族』。

彼らは1300年もの長きにわたり、最強の暗殺者を生み出すためだけに、優れた遺伝子を持つ者同士を交配させ続ける『品種改良』を行ってきた。

まさに、坂柳の言う「DNAに刻まれた才能」を人為的に作り出し、濃縮し続けてきた歴史だ。

 

同時に、俺たちは物心つく前から、致死量ギリギリの毒を飲まされ、弾丸を避ける地獄のような『環境』に身を置いて修練を積んできた。

 

遺伝子(DNA)という最高の器に、修練(環境)という狂気を注ぎ込んで完成したのが、俺という存在なのだ。

 

「……まあ、どっちもあるんじゃないか?」

 

俺は、核心には触れず、あくまでフラットな視点で答えた。

 

「険しい環境で死に物狂いで努力して、後から開花する才能もあるだろう。逆に、生まれつき遺伝的に優れた肉体や頭脳を持ってる人間もいる。それに、何の前触れもなく突然変異みたいな化け物が生まれることだってある。……人間の才能なんて、一概に環境だの遺伝子だので割り切れるもんじゃないだろ」

 

俺の答えを聞いて、坂柳は「なるほど」と目を伏せ、小さく息を吐いた。

 

「中庸なご意見ですね。……ですが、私は違います」

 

坂柳は、再び顔を上げ、確固たる信念に満ちた声で断言した。

 

「私は、DNAに刻まれた情報以上の才能を持つことは、どんな過酷な環境で育とうと、どんな特別な教育を受けようと『不可能』だと考えています。突然変異を除いて、人の才能の限界は、生まれ持ったDNAによって完全に決まる。……人工的に天才を作り出すことなど、絶対にできないのです」

 

彼女の言葉には、強い熱がこもっていた。

それは、彼女自身のプライドであり、同時に「教育によって天才を作ろうとした存在」への強烈なアンチテーゼのようにも聞こえた。

 

「……貴方はどちらですか、呉くん?」

 

坂柳が、探るような視線で俺の目を射抜く。

 

「貴方のその圧倒的な身体能力は……過酷な環境が作り出したものですか? それとも、生まれ持ったDNAの賜物ですか?」

 

(……そりゃあ、うちは1300年も品種改良を続けてる血族だからな。坂柳の持論で言えば、俺のこの身体能力のほとんどは、先祖代々受け継いできた『DNAの恩恵』ってことになるな)

 

だが、そんな裏社会のトップシークレットを、ここでペラペラと喋るわけがない。

 

俺は、わざとらしく肩をすくめ、とぼけたような笑顔を作ってみせた。

 

「さあ、どうだろうな? 俺の親が陸上選手だったのか、それとも俺が毎朝走り込みをしてたからなのか……自分でもよく分からないよ。ただ足が速いだけの、普通の高校生だからな」

 

明確なはぐらかし。

だが、坂柳はそれを追求しようとはしなかった。

 

「……ふふふっ。そうですか」

 

彼女は、口元に手を添え、上品に笑った。

 

「私の唐突な質問に答えていただき、感謝します。貴方の考え方……そして、多くを語らないその姿勢。とても有意義な時間でした」

 

坂柳は、そう言ってゆっくりと一歩下がり、俺とひよりに向かって軽く頭を下げた。

 

「お二人の甘い逢瀬を邪魔してしまい、申し訳ありませんでした。これは、私からのささやかなお詫びです」

 

坂柳はブレザーのポケットから、綺麗な封筒に入ったカードを二枚取り出し、テーブルの上にそっと置いた。

 

見ると、それは学校内の書店や購買で使える、五千円分の『図書カード』だった。

 

「では、私はこれで。……ご機嫌よう、呉くん。椎名さん」

 

坂柳は、カツッ、カツッと静かな杖の音を響かせながら、再び図書室の奥へと優雅に消えていった。

 

「……嵐のようなお嬢さんだったな」

 

俺が苦笑しながら呟くと、ひよりはテーブルの上の図書カードを不思議そうに見つめていた。

 

「Aクラスの、坂柳有栖さん……ですよね。とってもミステリアスで、賢そうな方でした」

 

ひよりは、図書カードを手に取ると、パァッと顔を輝かせた。

 

「でも、この図書カードはとってもありがたいですね! これで、ずっと気になっていたハードカバーの美術書が買えます!」

 

ひよりの、Aクラスのリーダーの思惑など一切気にしていない、本に対する純粋な喜びに、俺はたまらず吹き出してしまった。 

 

「ははっ、そうだな。俺もこれで、ひよりがオススメしてくれたミステリー小説を全巻まとめ買いさせてもらうよ」

 

「はいっ! 一緒に本屋さんに行きましょうね、刃叉羅くん」

 

天才の定義。遺伝子か、環境か。

Aクラスの女王が仕掛けてきた高度な哲学の問いも、俺たち二人の前では、ただの『図書カードをくれた親切なイベント』に変換されてしまっていた。

 

(遺伝子だろうが環境だろうが、どうでもいいさ。……俺の今の原動力は、DNAに刻まれたものじゃなくて、この目の前にいる天使への『愛』だからな)

 

俺は、嬉しそうに図書カードを眺めるひよりの銀色の髪を優しく撫でた。

 

血塗られた過去を持つ暗殺者は、他者の才能や思惑には一切の興味を示さず。

ただ愛しい少女と共に、インクの香りに包まれた静かな図書室で、甘く穏やかな日常の続きを、幸せそうに紡いでいくのだった。

 

 

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