青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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四十六話

体育祭の熱狂と、その裏で繰り広げられた泥沼の権力闘争から数日が経過した。

 

季節はすっかり秋めいて、窓を開ければ涼しい夜風が心地よく部屋の中へと吹き込んでくる。

 

ここは男子寮にある、俺――呉 刃叉羅の自室。

 

「……美味い」

 

ローテーブルを挟んだ向かい側で、無気力な影の支配者・綾小路清隆が、俺の作った『特製・本格四川風麻婆豆腐定食』を、相変わらず無表情のまま、しかし凄まじいスピードで胃袋へと流し込んでいた。

 

「味わって食えよ。甜麺醤と豆板醤の配合にもこだわって作ってんだからな」

 

「十分味わっている。相変わらず、お前の料理スキルには驚かされるばかりだ。食堂で数万ポイント払っても食べられないレベルだからな」

 

綾小路は、白米の上に麻婆豆腐を乗せ、見事な箸使いで口へと運んでいく。

 

俺は自分の分の定食をあらかた食べ終え、食後のジャスミン茶をすすりながら、その様子を呆れたように眺めていた。

 

体育祭の終盤、アンカーとして出場した綾小路が、生徒会長である堀北学と互角のバケモノじみた走りを見せつけた一件。

あれ以来、Dクラス内での綾小路の扱いは劇的に変化していた。

 

「足が速い」「実はかっこいい」「頼りになる」――そんなプラスの評価が女子を中心に爆発的に広がり、地味で無気力だったはずの彼の周囲には、妙に華やかな空気が漂い始めているのだ。

 

「なぁ、綾小路」

 

俺は、ジャスミン茶の入った湯呑みをテーブルに置き、単刀直入に切り出した。

 

「お前、佐藤と連絡先を交換したのか?」

 

ピタリ、と。綾小路の箸が止まった。

 

「……なぜそれを知っている?」

 

「昼休みに、佐藤から直々に相談されたからな。『綾小路くんってどんな人なの? 彼女とかいるのかな?』って、顔を真っ赤にしてモジモジしながらな」

 

俺がニヤリと笑いながら言うと、綾小路は小さく息を吐き、再び箸を動かし始めた。

 

「ああ。体育祭の後に声をかけられてな。とりあえず、友達からよろしくと言われたよ」

 

「ほお、友達からねぇ」

 

俺は腕を組み、わざとらしく天井を見上げた。

 

「お前も罪作りなやつだな。堀北や軽井沢もいるのによ」

 

「……堀北とはそんな関係ではない」

 

綾小路は即座に否定し、淡々とした口調で反論した。

 

「それに、軽井沢は入学してからすぐ、平田と付き合っているだろう? 俺と彼女の間に、お前が想像するような恋愛感情が入り込む余地はない」

 

「ふっ……まあ、いいさ」

 

俺は、鼻で軽く笑ってその言葉を流した。

 

綾小路は「軽井沢は平田の彼女だ」と事実を盾にして誤魔化そうとしたが、暗殺者として人間の微細な挙動や心理状態を読み取る俺の目を、完全に欺くことはできない。

 

(……平田と軽井沢のカップルか)

 

俺は内心で、これまでのクラスの盤面を整理していた。

美男美女のパーフェクトカップルとして振る舞ってはいるが、ひよりと付き合い始め、本当の『恋』というものを知った今の俺の目から見れば、彼らの関係はひどく不自然なものに映るのだ。

 

入学してすぐ付き合い始めたという割には、彼らの間には決定的に『熱』が欠けている。休日に一緒にいることはあっても、俺とひよりのように互いの体温を求め合うような、親密なパーソナルスペースの共有が一切見られない。

 

(あれはどう見ても、恋愛というより互いの利益のための偽装交際だろうな)

 

そして、船上での優待者試験。

 

俺は高円寺と同じグループだったが、綾小路は軽井沢と同じ『兎』グループだった。あの試験を境に、軽井沢の態度は明らかに変化した。

 

最近では、クラス内で俺と佐藤が綾小路の話をしている時も、軽井沢は会話に参加しないふりをしながら、ひどく微妙な――警戒と独占欲の混じった――視線をこちらに向けていたのだ。

 

俺の暗殺者としてのプロファイリング能力は、彼らのいびつな関係性の真実を、ほぼ完璧に導き出していた。

 

「軽井沢も佐藤も、俺の友達だからな。……当然、今こうして俺の部屋で一緒に飯を食ってるお前も」

 

俺は、ジャスミン茶を一口飲み、まっすぐに綾小路のひどく平坦で無機質な瞳を見据えた。

 

「あいつらは赤点回避の勉強会にも文句を言いながら真面目に参加したし、俺の作った飯も『美味しい』って食ってくれた、本当に普通の、良い奴らなんだよ」

 

俺は湯呑みを置き、少しだけ言葉を選ぶように間を空けた。

 

「もちろん、お前が誰を選ぼうが、あるいは誰も選ばなかろうが、それはお前の自由だ。他人の恋愛事情に俺が口を出す権利なんてないってことは、十分に分かってる」

 

そこまで前置きをした上で、俺はあえて、釘を刺すように言った。

 

「だけどな……あいつらの純粋な好意を、ただ盤面を動かすための『便利なカード』みたいに扱って、最後には心がボロボロになるまで傷つけるような真似だけはしないでやってほしいんだ」

 

その瞬間。

 

「――――」

 

綾小路の全身から、極めて微弱な、しかし確かな『警戒』のオーラが立ち上った。

 

彼の中で、目の前にいる俺――暴力の化身であり、得体の知れない裏社会の住人――が、自分の本性をどこまで見透かし、これから敵対行動を取る可能性が何パーセントあるのかを、内なるスーパーコンピューターで高速計算し始めたのだ。

 

「……それは、脅し、か?」

 

綾小路の声が、先ほどまでの平坦なものから、一ミリだけ温度を下げた、刃物のような冷徹なものへと変わる。

 

俺は、そんな彼の過剰なまでの警戒心を見て、たまらず「ははっ」と声を上げて笑い飛ばした。

 

「おいおい、そんな怖い顔で警戒するなよ。俺がお前を脅す理由がどこにあるんだ。もし俺がお前を敵認定して本気で潰す気なら、わざわざ飯食ってる最中にこんな回りくどい警告なんてしないさ」

 

俺は両手を軽く上げて、降参のポーズをとってみせた。

 

「これはただの、お節介な友人としてのアドバイスだ」

 

俺は言葉を切り、今度は少しだけ真剣な、温かみのあるトーンで続けた。

 

「あいつらは、お前みたいに感情を完全に切り離して、計算や損得勘定だけで生きてるわけじゃない。好きな男のちょっとした態度で一喜一憂するような、どこにでもいる普通の、傷つきやすい女子高生なんだ。……もしお前が、あいつらの本気の想いを利用するだけ利用して、壊れたら捨てるような真似をしたら、俺は友人として少しだけ胸くそが悪い。それだけのことだよ」

 

俺の、一切の裏表がない純粋な気遣いの言葉を聞いて。

綾小路は、ピンと張り詰めていた警戒の糸をスッと解き、手元の湯呑みを見つめた。

 

「……心、か」

 

綾小路は、その単語を反芻するように、小さく呟いた。

 

ホワイトルームという、効率と結果のみを追求する極限の施設で育った綾小路にとって、『心』や『他者の感情』という不確定要素は、まだ完全に理解しきれていない未知の領域なのだ。

 

「なるほど。お前の友人たちへの気遣いは理解した。お前がそこまで言うなら……気に留めておこう」

 

綾小路は静かに頷き、再び麻婆豆腐へと箸を伸ばした。

 

「おう、頼むわ。まあ、お前も色々不器用そうだからな」

 

俺もそれ以上は追及をせず、笑って話を切り上げた。

 

「そういえば」

 

食後の片付けを終え、二人で適当なバラエティ番組を眺めていると、俺はふと思い出したように話題を転換した。

 

「この前、放課後にひよりと図書室にいたらさ。Aクラスの坂柳に絡まれたんだよ」

 

「……坂柳に?」

 

綾小路が、テレビから視線を外してこちらを見た。

 

「ああ。いきなり『天才とは環境で作られるものか、DNAで決まるものか』なんて、面倒くさい哲学の質問をされてな。……俺の体育祭のタイムを見て興味を持ったらしいが、どうも言葉の端々に、まるで『誰かさん』を強く意識しているようなトゲがあったぜ」

 

俺がニヤリと笑いながら言うと、綾小路は小さく息を吐いた。

 

「俺は、お前は平穏を乱されるのを嫌うから、関わらない方がいいぞと坂柳に言ったんだがな」

 

「お前、俺のいないところで勝手に俺の取扱説明書を敵のリーダーに配ってんのかよ」

 

俺が呆れてツッコミを入れると、綾小路は「事実を伝えただけだ」と平然と返してきた。

 

「俺としても、お前には今の『事なかれ主義の傍観者』というポジションに収まっていてほしいからな。坂柳の好奇心でお前を刺激するのは避けたかった」

 

「まあ、お前のその気遣いには感謝するがな」

 

俺はソファの背もたれに深く寄りかかり、腕を組んだ。

 

「ただ、俺にも色々と事情があってね」

 

「事情?」

 

「ああ。俺の基本方針が『ひより至上主義』であり、平穏を愛する事なかれ主義であることに変わりはない。……だが、あのお嬢さんを、無下に扱うことはできないのさ」

 

俺がそう告げると、綾小路の無機質な瞳に、明確な『疑問符』が浮かんだ。

 

(……どういうことだ?)

 

綾小路は、脳内で高速の演算を開始した。

龍園の暴力すらも鼻で笑い、茶柱の退学の脅しすらもボイスレコーダー一つでねじ伏せたこの男が。なぜ、Aクラスのリーダーである坂柳有栖に対してだけは『無下にできない』という縛りを設けているのか。

 

坂柳の知略を恐れているわけではない。それは俺と会話した感触で分かる。

とすれば、理由はもっと外部的な、彼自身のバックボーンに関わるものだ。

 

(呉は、裏社会の深く黒い部分に属する人間。そして坂柳有栖は、この学校のトップである『坂柳理事長』の実の娘……。まさか、呉はこの学校の運営層、あるいはそれ以上の権力と直接的な繋がりがあるのか?)

 

綾小路の推測は、見事に真実の核心を突いていた。

だが、彼はその思考をすぐに打ち切った。

 

「……詮索はよそう」

 

綾小路は、小さく首を振った。

 

「俺とお前は、互いの過去や事情に深く踏み込まないというルールだったな。お前が坂柳にどう対応しようと、俺の関知するところではない」

 

「分かってるじゃないか。俺も、お前と坂柳が裏でどんな天才対決を繰り広げようが、一切邪魔する気はないからな。……お互い、せいぜい頑張って自分の平穏を守ろうぜ」

 

俺が笑ってコーヒーを差し出すと、綾小路はそれを受け取り、「ああ」と短く同意した。

 

時計の針が夜の十時を回り、綾小路が自分の部屋へと帰っていった。

 

「ふぅ……」

 

一人になった部屋で、俺はベッドの上に大の字になって寝転がった。

静かな部屋の中に、秋の虫の音が微かに聞こえてくる。

 

綾小路の奴は、これから龍園からの追跡、そして坂柳からの宣戦布告など、数多くの面倒事に対処していかなければならないだろう。

 

影の支配者というのも、なかなかに骨の折れる役回りだ。俺には絶対に真似できないし、やりたくもない。

 

俺は、サイドテーブルに置いてある端末を手に取り、画面を開いた。

待ち受け画面に設定しているのは、体育祭の日に撮った、体操服姿で満面の笑みを浮かべるひよりの写真だ。

 

「……やっぱり、ひよりが一番可愛いな」

 

俺は、画面の中の天使に向かって、誰にも見せられないようなだらしない笑顔を向けた。

 

思い出すのは、図書室で坂柳が去った後、二人で図書カードを握りしめて喜んだ時のこと。

 

『これで、一緒に本を買いに行けますね! 刃叉羅くん!』

 

そう言って笑う彼女の純粋な笑顔は、どんな複雑な権力闘争や天才の定義よりも、俺の心を深く、強く満たしてくれた。

 

俺には、クラスを導くだったり、Aクラスを目指すという、高尚な望みはない。

 

ただ、明日もひよりに会って、一緒に本を読んで、美味しいものを食べて、彼女の笑顔を見る。

 

その圧倒的で完璧な『日常』を守り抜くことだけが、俺の生きる意味であり、全てなのだ。

 

「明日は、ひよりのオススメしてたミステリーの新作、買いに行く約束だったな……」

 

俺は、明日への期待で胸を膨らませながら、目を閉じた。

 

裏社会で血に塗れて生きてきた暗殺者の少年は、この箱庭の学校で見つけた、奇跡のような恋と平和な日々に深く感謝しながら、穏やかな眠りへと落ちていくのだった。

 

 

 

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