十月が終わり、カレンダーが十一月へとめくられると、高度育成高等学校を包む空気は急速に冬の気配を帯び始めた。
朝夕の風は冷たさを増し、生徒たちの吐く息も少しずつ白く色づき始めている。
ペーパーシャッフルのペアが決定してからの約一ヶ月間。
俺――呉 刃叉羅の日常は、絵に描いたような『充実した高校生活』そのものだった。
放課後になれば、教室で平田やみーちゃんと共に、軽井沢たち女子グループを中心としたクラスメイトに期末テストに向けた勉強を教える。
退学というペナルティが懸かっているため、軽井沢や佐藤たちも普段とは打って変わって真面目に(時々文句を言いながらも)ノートに向かっていた。
「よし、今日のノルマはここまでだ。この公式のパターン、明日小テストするからちゃんと復習しとけよ」
「えーっ、小テストやるの!? 呉くん鬼畜ー!」
「赤点取って退学になるよりマシだろ。じゃあな、俺は行くところがあるから」
ブーブーと文句を言う女子たちを背に、俺は足早に教室を後にする。
向かう先は、もちろん愛しの彼女――椎名ひよりが待つ図書室だ。
「お待たせ、ひより」
「あ、刃叉羅くん。お疲れ様です」
毎日、勉強会を終えた後のこの時間が、俺にとって何よりの癒しだった。
図書室で一緒に本を読んだり、ケヤキモールのカフェで温かいココアを飲んだり。
裏社会の血生臭い闘争や、綾小路や龍園たちが繰り広げる盤面の削り合いなど完全に別世界の話として、俺たちはただ純粋に、穏やかで幸せな恋人同士の時間を重ねていた。
だが。
そんな圧倒的幸福の真っ只中にありながら、俺の心の中には、たった一つだけ……強烈な『葛藤』が渦巻いていた。
十一月末の、ある週末。
今日は外の風が冷たいということもあり、俺とひよりは、俺の部屋でデートをすることになっていた。
「ふふっ、お邪魔します。刃叉羅くんのお部屋、いつも綺麗に片付いていますね」
私服姿――白いニットに淡いブルーのロングスカートという、破壊力抜群の清楚な冬の装い――でやってきたひよりが、嬉しそうに部屋の中を見回す。
「まあな。殺風景とも言うけど。……寒かっただろ? 温かい紅茶淹れるから、ソファで座っててくれ」
「ありがとうございます。あ、今日はお礼に、ケーキを買ってきたんですよ。新しいケーキ屋さんの、イチゴのタルトです」
「マジか。それは楽しみだな」
俺たちは、温かいアールグレイの紅茶と、ひよりが買ってきてくれたタルトをテーブルに並べ、ソファで肩を並べて座った。
「んっ……! このタルト、とっても美味しいです!」
「本当だな。イチゴが甘くて美味い。……でも、ひよりの笑顔の方が百倍甘いけどな」
「も、もうっ……刃叉羅くんったら、すぐにそういうこと言うんですから……っ」
顔を真っ赤にして照れるひより。
ああ、可愛い。本当に可愛い。この笑顔を守るためなら、世界中の軍隊を敵に回してもお釣りがくる。
お茶の後は、ひよりが持参してきたミステリー小説を二人で読んだり。
夕方になれば、二人で並んでキッチンに立ち、一緒に夕食を作ったりした。
「刃叉羅くん、玉ねぎの薄切り、これで大丈夫ですか?」
「ああ、完璧だ。一ヶ月前より格段に包丁の使い方が上手くなってるな。ひよりは天才かもしれない」
「ふふっ、刃叉羅くんの教え方が上手だからですよ」
少し大きめのエプロンをつけたひよりと、肩が触れ合う距離で料理をする。
トントンと響く包丁の音と、鍋から立ち上るシチューの匂い。
(……なんだこれ。完全に新婚生活じゃないか。幸せすぎて、逆にどこかに落とし穴があるんじゃないかと疑うレベルだ)
出来上がった料理を二人で美味しく平らげ、食器を片付け終わった後の、夜の七時。
俺たちは再び、リビングのソファに並んで腰を下ろしていた。
テレビからは、適当なバラエティ番組の音が小さく流れている。
ひよりは、食後の温かいお茶を両手で包み込むように持ちながら、ニコニコとテレビを眺めている。
俺は、そんな彼女の柔らかな横顔を、そして……ほんのりと桜色に色づいた『唇』を、チラチラと盗み見ていた。
(……どうする。俺は、どうするべきなんだ……?)
俺の脳内で、緊急事態を知らせるアラートがガンガンと鳴り響いていた。
あの日。
体育祭の日の夜に、ひよりから不意打ちで頬(唇の端)にキスをされてから、すでに一ヶ月が経過している。
俺たちの関係は、あの日を境に確実に深まった。一緒にいる時の距離も近くなったし、自然に手を繋ぐことも増えた。
だが、あの『キス』からの進展が、一切ないのだ。
(ここは、男である俺からいくべきだよな……!?)
俺はソファの上で、表面上は冷静を装いながらも、内心では頭を抱えて七転八倒していた。
暗殺者として、いかなる強敵を前にしても一ミリも揺らがなかった俺の強靭なメンタルが、今、たかだか『彼女にキスをするタイミング』という問題の前で完全に崩壊している。
(いや、でも待てよ? もし俺が急にキスなんかして、ひよりが驚いて引いちゃったらどうする!?)
俺の脳内スーパーコンピューターが、最悪のシミュレーションを弾き出す。
『えっ……刃叉羅くん、そういうのはちょっと……』
と、ひよりに少しだけ距離を置かれ、気まずい空気が流れる光景。
(ダメだ!! そんなことして拒絶されたら、俺は死ぬ!!!! 確実に心臓が停止して息絶える!!!!)
俺は心の中で絶叫した。
ただの失恋や喧嘩ではない。ひよりに少しでも怯えられたり、拒絶されたりしたら、俺のガラスのハートは木っ端微塵に砕け散る自信がある。
(ひよりは純粋な女の子だ。俺みたいな獣が、不用意に手を出してその純白の羽根を汚すような真似をしていいのか……? いや、でもカップルならキスくらい普通だろ? むしろ一ヶ月も何もしない彼氏って、逆に頼りないと思われてるんじゃ……!?)
堂々巡りの思考。
敵の拠点に単身で乗り込むよりも、要人を狙撃するよりも、遥かに難易度が高く、命懸けのミッションだ。
「……刃叉羅くん?」
俺が隣でウンウンと見えない敵と戦っていると、不意に、ひよりが不思議そうに首を傾げてこちらを見上げてきた。
「どうしたんですか? なんだか、難しい顔をしていますけれど……」
「えっ? あ、いや、なんでもない! ちょっと、ペーパーシャッフルの数学の問題を頭の中で解いてただけだ!」
俺は咄嗟に、偏差値80超えの言い訳を口走った。
「ふふっ。刃叉羅くんは本当に真面目ですね。……でも、今は私と一緒にいるんですから、お勉強のことは少し忘れてくださいね」
「あ、ああ。そうだな。ごめんごめん」
俺が苦笑いをして肩の力を抜いた、その時だった。
スッ……と。
ひよりが、ソファの上で俺の方へと少しだけ身を寄せた。
そして、コトン、と。
彼女の小さな頭が、俺の広い肩の上に、もたれかかってきたのだ。
「――――ッ!!」
俺の全身の筋肉が、雷に撃たれたように硬直した。
俺の肩から首筋にかけて、彼女の銀色の髪がサラサラと触れ、信じられないほど甘く、心地よい香りが俺の鼻腔を満たす。
ひよりの温かい体温が、ニット越しに俺の身体へと直接伝わってくる。
「……ひ、ひより?」
俺が、心臓の爆音を必死に抑え込みながら、震える声で名前を呼ぶと。
ひよりは、俺の肩に頭を乗せたまま、少しだけ顔を上げ、至近距離で俺と視線を合わせた。
彼女の大きな瞳は、部屋の淡い光を反射してキラキラと潤んでおり、その奥には、俺への絶対的な信頼と、隠しきれないほどの深い愛情が溢れ出していた。
「……ふふっ」
ひよりは、この世のどんな宝石よりも美しく、可憐に微笑んだ。
「刃叉羅くん。……大好きですっ」
「――――――――〜〜〜〜ッッッ!!!」
その瞬間。
俺の中で、何かが完全に『決壊』する音がした。
理性。事勿れ主義。拒絶される恐怖。そんなものは、この至高の天使の甘い告白の前に、一瞬にして消し飛んだ。
俺は、無意識のうちに身体を動かしていた。
肩にもたれかかっていたひよりの身体を、優しく、けれど逃がさないように正面から抱き寄せる。
「えっ……刃叉羅く……んっ!?」
ひよりが驚いて目を丸くした瞬間。
俺は、ほんの少しだけ顔を傾け、その柔らかく、桜色に色づいた『唇』を、自分の唇で完全に塞いでいた。
「…………んっ」
ひよりの喉の奥から、甘く、小さな吐息が漏れる。
体育祭の時の、頬をかすめたような不意打ちではない。
正面から、お互いの体温と息遣いが混ざり合う、正真正銘の『キス』だった。
触れた唇は、マシュマロのように柔らかく、そして信じられないほど熱かった。
俺は、壊れ物を扱うようにそっと彼女の背中に手を添え、ゆっくりと、その甘い感触を確かめるように唇を重ねた。
数秒。
いや、俺の体感時間では、永遠にも感じられるほど長く、濃密な時間が過ぎた後。
俺は、ゆっくりと顔を離した。
「はぁっ……」
ひよりが、潤んだ瞳のまま、小さく息を吐く。
その顔は、耳の先から首筋に至るまで、茹でダコのように真っ赤に染め上がっていた。
「あっ…………!」
そのひよりの真っ赤な顔を見た瞬間。
俺の脳内に、吹き飛んでいた『理性』が猛烈な勢いで帰還してきた。
(や、やっちまった……っ!!)
俺は、自分のしたことの重大さに気づき、バッと身体を離した。
「ご、ごめん! つい……!!」
俺は、暗殺者としてのクールな面影など一ミリも残っていない、完全にパニックに陥った男子高校生の顔で、両手を顔の前で振った。
「その、ひよりがあんまりにも可愛くて……理性が飛んだっていうか、身体が勝手に動いたっていうか……! そ、その……」
俺は、恐る恐る、彼女の顔を覗き込んだ。
「……嫌じゃ、なかったか……?」
もしここで「最低です」と平手打ちでもされようものなら、俺は今すぐこの部屋の窓を突き破って、そのまま太平洋まで泳いでいって海の底に沈む覚悟だった。
心臓が、恐怖と緊張で早鐘のように打ち鳴らされる。
すると。
ソファに座ったまま、真っ赤な顔で俯いていたひよりが。
ゆっくりと、両手で自分の熱くなった頬を押さえながら、顔を上げた。
彼女の瞳は、涙ぐんでいるように潤んでいて。
けれど、その口元には、この上なく幸せそうな、とろけるような笑みが浮かんでいた。
「……嫌なわけ、ないじゃないですか……っ」
ひよりは、蚊の鳴くような、けれど俺の耳にははっきりと届く声で、恥ずかしそうに呟いた。
「私……とっても、嬉しいです……っ」
「――――――――――――ッッッ!!!!!!」
(ぐはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!)
俺の心臓に、本日二度目にして、最大火力の致死級のミサイルが直撃した。
なんだこの生き物は。神が人類に与えた奇跡か? これ以上の可愛さがこの世に存在していいのか?
「……ひ、ひよりぃ……っ!」
俺は、両手で自分の顔を覆い、そのままソファの上で前に崩れ落ちた。
「ば、刃叉羅くん!? だ、大丈夫ですか!?」
ひよりが慌てて俺の背中をさすってくれるが、俺の悶絶は止まらない。
「死ぬ……幸せすぎて死ぬ……っ! 俺はもう、お前を手放せない……絶対に、一生守り抜く……っ!!」
「も、もうっ、刃叉羅くんったら……大げさですよっ。でも……ありがとうございます」
ひよりが、俺の背中にそっと身を寄せ、優しく抱きついてくる。
部屋の中には、暖房の熱以上に温かく、そして甘い空気が満ち溢れていた。
ペーパーシャッフルという過酷な特別試験が迫り、クラスの権力闘争や裏切りが渦巻く学校生活。
だが、そんなものは今の俺たちにとって、取るに足らない舞台装置でしかない。
暗殺者として血に塗れた過去を持つ少年は、一人の純粋な少女の深い愛情と、奇跡のような口づけによって。
世界で一番幸せな男として、この夜、ただひたすらに幸福な悶絶を繰り返すのだった。
そして、十二月。
吐く息が真っ白に染まるほど冷え込んだ、冬の始まり。
二日間にわたって実施された、二学期の期末テスト――通称『ペーパーシャッフル』。
退学という重いペナルティと、クラスポイントの奪い合いを懸けたこの過酷な特別試験は、ついに全日程を終了した。
俺――呉 刃叉羅は、自身の解答状況を脳内で完全にトレースしていた。
今回はペアの連帯責任で退学という面倒なルールの性質上、自らの退学リスクを限りなくゼロにするため、俺は暗殺者として培った完璧な記憶力と演算能力をフル動員し、全八科目で満点を狙いにいった。
(だが……正直言って、思ったよりも難易度が高くなかったな。マークミスのような凡ミスさえしていなければ、間違いなく全科目100点だろう)
そして、試験が終わって数日が経過した日の、ホームルーム。
教壇に立った担任の茶柱佐枝が、手に持ったプリントをバサッと揺らしながら、一年Dクラスの生徒たちを見渡した。
「……さて。ペーパーシャッフルの採点と、クラス間の勝敗結果が出た。お前たちにとっては、待ちに待った瞬間だろうな」
茶柱の言葉に、クラス中がゴクリと生唾を飲み込む。
「まずは、退学者の有無についてだが」
茶柱は、少しだけ意地悪く口角を上げ、そしてフッと息を吐いた。
「……今回、Dクラスからの退学者は『ゼロ』だ。ペアでの赤点も、総合点のボーダー下回りも存在しなかった。よくやったと褒めておこう」
「うおおおおおおおおっっ!!」
「よっしゃあああっ!! 退学回避だぁぁぁっ!!」
池寛治、山内春樹、須藤健の赤点トリオを中心に、クラス中から歓喜の爆発音が鳴り響いた。
黒板の前で静かに結果を聞いていた堀北鈴音も、小さく安堵の息を漏らしている。彼女が考案した『ペアの法則』を利用した作戦が、見事に全員を救ったのだ。
「喜ぶのはまだ早い。本題はここからだ」
茶柱がチョークを手に取り、黒板に今回のペーパーシャッフルの『組み合わせ』と『勝敗結果』を書き出していく。
【ペーパーシャッフル・勝敗結果】
• Aクラス vs Bクラス
• AクラスはBクラスを攻撃(勝利)
• BクラスはAクラスを攻撃(敗北)
• Cクラス vs Dクラス
• CクラスはDクラスを攻撃(敗北)
• DクラスはCクラスを攻撃(勝利)
「……えっ?」
「うそっ……勝った? 俺たち、あのCクラスに勝ったのか!?」
黒板の文字を見た瞬間、Dクラスの生徒たちは自分たちの目を疑った。
あの悪辣な龍園が率いるCクラスを相手に、攻撃でも防衛でも勝利を収めたのだ。
「結果として、各クラスのポイント変動は以下のようになる」
茶柱がさらにチョークを滑らせ、最新のクラスポイントを掲示した。
【最新クラスポイント(十二月)】
• Aクラス(坂柳): 974 cp (前回874 + 100)
• Bクラス(一之瀬): 653 cp (前回753 - 100)
• Cクラス(龍園): 442 cp (前回542 - 100)
• Dクラス(堀北): 362 cp (前回262 + 100)
「AクラスとDクラスが、それぞれ100ポイントを獲得。逆にBクラスとCクラスが100ポイントを失った。……お前たちDクラスは、大幅なポイントのプラスを勝ち取ったというわけだ」
茶柱の口から告げられた、完全勝利の事実。
一瞬の静寂の後、教室は先ほど以上の狂騒に包まれた。
「うおおおおおおっ!! やったぜえええええっ!!」
「100ポイントプラス! 来月からお小遣いが増えるぞぉぉっ!」
「堀北さん! 平田くん! ありがとう!!」
クラスメイトたちが手を取り合い、涙を流して喜んでいる。
堀北の徹底した試験対策と、裏で盤面をコントロールした綾小路清隆の暗躍、そして何より、クラス全体が一丸となって勉強に取り組んだ結果だ。
俺は、頬杖をつきながら、その歓喜の輪を眺めていた。
(……まあ、めでたいことだ。これでしばらくはクラスの雰囲気も良くなるだろうし、俺の平穏な高校生活も保証されたってわけだ)
ペーパーシャッフルの問題はCクラスの龍園が何か罠を仕掛けてくるかと思ったが、どうやら彼は『Dクラスに潜む黒幕探し』に執心するあまり、テスト問題の完成度が疎かになっていたらしい。
「よし、ホームルームはこれまでだ。解散」
茶柱が教室を出て行くと、生徒たちは一斉に帰り支度を始めた。
俺もカバンを肩に担ぎ、図書室で待っている愛しの天使の元へ向かおうと立ち上がった。
だが。
そんな完全勝利の祝賀ムードを、不快極まりないノイズが引き裂いた。
「……おい、呉」
教室の出入り口に向かおうとした俺の前に、立ち塞がる二つの影。
池寛治と、山内春樹だった。
彼らの顔には、クラスが勝利した喜びよりも、俺への陰湿な『嫉妬』と『疑念』が色濃く張り付いていた。
「なんだ、お前ら。どけよ、俺は忙しいんだ」
俺が冷たい声で言うと、池は鼻で笑いながら、周囲の生徒たちに聞こえるような大声で言った。
「はっ! 今回は、Cクラスへの『スパイ行動』はしなかったみたいだな?」
「……はあ?」
俺は思わず眉をひそめた。
「体育祭の時は、Cクラスに情報を売った見返りに活躍させてもらったみたいだけどよぉ! 今回は俺たちがガッチリ対策してたから、情報を流せなかったんだろ!?」
山内も、池の背後から調子に乗って喚き立てる。
彼らの言い分はこうだ。
『呉はCクラスの椎名ひよりと付き合っている。だから裏切り者に違いない。体育祭で俺たちが最下位だったのは呉のせいだが、今回は俺たちの実力で勝ってやった』という、もはや妄想と嫉妬を煮詰めたような狂った論理だった。
そもそも、俺はひよりと純粋に恋愛をしているだけで、スパイなど一切していない。完全に、俺が可愛い彼女を作ったことへの「僻み」からくる、見当違いのいちゃもんだ。
「……はぁ」
俺は、怒る気すら失せ、心の底から深いため息を吐き出した。
「お前ら、まだそんなくだらないこと言ってんのか。……しつこいな。脳みそが単細胞のまま進化が止まってんのか?」
俺が呆れ果てた声で言うと、池と山内は顔を真っ赤にして「なんだとてめえ!」と詰め寄ろうとした。
その時。
「いい加減にしなさい、あなたたち」
凛とした、氷のように冷たく鋭い声が、池たちの背中に突き刺さった。
クラスのリーダーである、堀北鈴音だった。
堀北は、腕を組み、冷ややかな視線で池と山内を睨み下ろした。
「呉くんがCクラスと内通しているという事実は、どこにも存在しないわ。体育祭の情報の件は、彼とは全く別のルートから漏れたものよ」
「で、でもよぉ堀北! 実際、あいつは敵クラスの女と……!」
「黙りなさい」
堀北がピシャリと一喝する。
「そもそも、今回の試験で呉くんは勉強会でも成績の不安な生徒を救ったわ。クラスへの貢献度は間違いなくトップクラスよ。……それなのに、自分たちは赤点ギリギリで助けられただけの立場で、根拠のない変な疑いをかけるのは辞めなさい。みっともないわよ」
「うっ……!」
堀北のぐうの音も出ないド正論に、池と山内は言葉に詰まった。
「……でもよぉ。この学校で、他クラスの生徒と付き合うなんて……なんか、スパイみたいで怪しいじゃん……」
山内が、負け惜しみのようにモゴモゴと呟く。
その情けない姿に、周囲のクラスメイトたち……特に、軽井沢や佐藤といった女子グループからは、完全に『呆れ』と『軽蔑』の視線が向けられていた。
「マジで池たちサイテー。自分たちがモテないからって、呉くんに嫉妬してるだけじゃん」
「ホントそれ。呉くんのおかげでクラスの平均点めっちゃ上がってるのに、何言ってんのって感じ」
女子たちのヒソヒソ声が、池たちの心にクリティカルヒットを与えていく。
「まあまあ、みんな」
これ以上空気が悪くなる前に、クラスのバランサーである平田洋介が、爽やかな笑顔で二人の間に割って入った。
「せっかく僕たちのクラスが試験に勝利して、ポイントも増えたんだ。今は、そういう根拠のない疑いや喧嘩はやめようよ。みんなで協力したからこその勝利なんだからさ」
平田の完璧な仲裁により、池と山内は「チッ……」と舌打ちをして、バツが悪そうに教室から逃げるように出て行った。
「……悪いな、堀北、平田。助かったよ」
俺が軽く手を上げて礼を言うと、堀北は小さく鼻を鳴らした。
「勘違いしないで。私はただ、クラスの輪を乱すような非合理的な行動を正しただけよ。あなたが貢献したことは事実だから、事実を述べたまで」
「はいはい。相変わらず素直じゃないねぇ」
俺は肩をすくめ、再びカバンを背負い直した。
「じゃあな。俺はこれで帰るよ。愛しの彼女が待ってるんでね」
俺が堂々とそう宣言して教室を出て行くのを、クラスメイトたちは「またかよ」と苦笑しながら見送っていた。
だが、その教室の隅で。
窓際の席に座ったまま、一連の騒動を静観していた綾小路清隆は。
去っていく呉の後ろ姿と、逃げていった池や山内たちの残像を見比べながら、内心で深い、深いため息を吐き出していた。
(……あいつらは、本当に『恐怖』というものを知らないのか?)
綾小路の無機質な瞳の奥に、呆れと戦慄が入り混じった感情が浮かぶ。
池や山内は、呉刃叉羅を『ただ足が速くて、他クラスに可愛い彼女がいる、ムカつく同級生』としか認識していないのだろう。
だが、綾小路は知っている。あの体育祭で見せた、人間の限界を超越した異常な身体能力。そして、時折垣間見せる、冗談のようでありながら、純度100パーセントの『殺気』の気配を。
(もしあの時、池や山内の言葉が、呉の逆鱗……例えば『椎名ひよりへの直接的な侮辱』などに触れていたら)
綾小路の脳内シミュレーションが、最悪の結末を弾き出す。
呉刃叉羅という男は、温厚で、事なかれ主義を貫いてはいるが、決して聖人君子ではない。裏社会で生き抜いてきた彼にとって、己の領域を不快なノイズで荒らす害虫を『物理的に排除』することなど、息をするよりも容易いことなのだ。
一瞬。瞬きをする間に、池の首が不自然な方向に曲がって床に転がっていても、綾小路は全く驚かない。
(あいつらは運が良かった。堀北や平田が止めていなければ、そして呉の機嫌がそれほど悪くなければ……どうなっていたか分からない)
綾小路は、自分が裏で操作しているこのDクラスという盤面が、呉刃叉羅という『核弾頭』の機嫌一つでいつでも消し飛ぶ可能性があることを、改めて痛感していた。
(あまり、呉を怒らせるようなことはしないでほしいんだがな……。俺の平穏のためにも)
影の支配者は、無知な同級生たちの命知らずな行動に、一人密かに頭を抱えるのだった。
一方、その頃。
そんな綾小路の戦慄など露知らず。
俺は、特別棟の図書室の扉を開け、いつもの窓際の特等席へと向かっていた。
「――お待たせ、ひより」
「あ、刃叉羅くん! お疲れ様です」
俺の声に気づき、本から顔を上げたひよりが、花がほころぶような、世界で一番可愛い笑顔を向けてくれる。
あの日のお家デートでの『キス』以来、俺たちの関係はさらに甘く、そして深くなっていた。今ではこうして顔を合わせるだけで、お互いの心が温かいもので満たされていくのが分かる。
俺は彼女の向かいの席に座り、深く、心からの安堵の息を吐き出した。
「どうでしたか、ホームルーム。ペーパーシャッフルの結果発表だったんですよね?」
ひよりが、少しだけ心配そうに尋ねてくる。
「ああ。うちも退学者ゼロ。見事に全員生き残ったよ」
「よかったです! 刃叉羅くん、一生懸命お勉強を教えていましたものね」
ひよりが、自分のことのように嬉しそうにパァッと顔を輝かせる。
だが、俺は少しだけ申し訳なさそうに、眉を下げた。
「……でもな、ひより。ごめんな」
「え?」
「うちのクラス、攻撃先がお前のいるCクラスだったろ。で、結果的にうちが勝ったから……CクラスからDクラスへ、100クラスポイントが移動することになっちまった」
俺が謝罪すると、ひよりは一瞬きょとんとした後、クスクスと可愛らしく笑い声をこぼした。
「ふふっ。刃叉羅くん、そんなことで謝らないでください。それが、この学校のルールですから。仕方ありませんよ」
ひよりは、ポイントの減少など全く気にしていない様子で、優しく首を横に振った。
「それに、Cクラスは龍園くんが色々と強引に進めていましたから……負けてしまったのは、クラス全体の実力不足です。刃叉羅くんが責任を感じる必要なんて、どこにもありません」
「……ひより」
「私にとっては、クラスのポイントが増えることよりも……刃叉羅くんが退学にならずに、こうして今日も一緒に本を読めることの方が、ずっとずっと大切なんです」
ひよりが、テーブルの上で、俺の手の上に自分の小さな手をそっと重ねてきた。
その温もりに、俺の胸の奥がギュッと締め付けられる。
(ああ、俺の彼女、天使すぎるだろ)
俺は、池や山内のくだらない嫉妬など、完全に記憶の彼方へと消し去っていた。
「……ありがとう、ひより。俺も、お前と一緒にいるこの時間が、世界で一番大切だよ」
俺は、重ねられた彼女の手を優しく握り返し、愛おしさを込めて微笑みかけた。
ひよりは顔をほんのりと赤く染め、嬉しそうに頷いた。
「さて、今日はどの本を読もうか。この前ひよりが貸してくれたミステリーの続編、持ってきたぜ」
「わぁっ、本当ですか? じゃあ、一緒に読みましょう!」
外の冷たい冬の風も、クラス間の血みどろのポイント争いも。
この図書室の窓際にある、俺とひよりの絶対的な『聖域』には、一切入り込むことはできない。
暗殺者の少年は、愚者たちの雑音を溜息で払い落とし、ただ愛しい少女と共に、インクの香りに包まれた極上の放課後を、心ゆくまで甘く穏やかに味わい尽くすのだった。