青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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五十話

十二月も中旬を過ぎ、高度育成高等学校を包み込む空気は、いよいよ本格的な冬の厳しさを帯びていた。

 

吐く息は白く、ケヤキモールの木々もすっかり葉を落として寒空の下で身を寄せ合っている。

 

ペーパーシャッフルという退学の懸かった特別試験を無事に乗り越えてからというもの、俺――呉 刃叉羅の日常は、絵に描いたような『圧倒的平穏』と『極上の幸福』の中にあった。

 

放課後になれば、図書室やカフェで愛しの天使――椎名ひよりと甘い時間を過ごす。

 

あのお家デートでの『キス』を経て、俺とひよりの距離はさらに近く、そして甘くなった。外を歩く時は自然と手を繋ぐようになり、寒い日には俺のコートのポケットの中で、彼女の小さな手を温めたりもした。

 

週末には平田洋介や軽井沢恵といったクラスメイトたちとカラオケやボウリングで遊んだり、時には綾小路清隆を部屋に呼んで飯を食わせたりと、まさに『普通の高校生』としての青春を、一分一秒の無駄もなく満喫していた。

 

 

そして、十二月十八日の夜。

 

「……ふぅ。今日もひよりは最高に可愛かったな」

 

俺は男子寮の自室で、暖房の効いた部屋のソファに深く沈み込み、今日一日のひよりの笑顔を脳内でリプレイして幸せな余韻に浸っていた。

 

冬服のコートに身を包み、マフラーに顔を半分埋めるひよりの破壊力は、間違いなく国宝級だった。

 

そんな平和な思考の海を漂っていた、その時。

 

『ピンポーン』

 

部屋のチャイムが、無機質な音を立てて鳴り響いた。

 

「ん?」

 

時計を見ると、夜の八時を回ったところだ。

こんな時間に訪ねてくる人間など、この学校に一人しかいない。

俺はソファから起き上がり、呆れ半分で玄関のドアを開けた。

 

「……おいおい、また来たのか。お前、本当に俺の部屋を食堂か何かと勘違いしてないか?」

 

「夕食の匂いにつられてな」

 

そこには案の定、無気力な影の支配者――綾小路清隆が、まるで自分の部屋に帰ってきたかのような自然さで立っていた。

 

「はぁ。まあいい、入れよ。外は寒いだろ」

 

俺は小さくため息をつき、彼を部屋の中に招き入れた。

 

「今日は寒いから、鶏肉と根菜の和風シチューだ。柚子胡椒を少し効かせてる。……食うだろ?」

 

「ああ。頼む」

 

俺はキッチンに立ち、綾小路の分のシチューを温め直し、白米と一緒にローテーブルへと運んだ。

 

「いただきます」

 

綾小路は手を合わせ、スプーンで一口シチューを口に運んだ。

相変わらず無表情だが、その瞳の奥に「……美味い」という確かな満足感が広がっていくのが、俺の目にははっきりと見て取れた。

 

俺は食後のコーヒーを淹れ、彼の向かい側に腰を下ろした。

しばらくは、テレビの音と、綾小路がシチューを食べる食器の音だけが静かな部屋に響いていた。

 

だが、今日の綾小路は、ただ飯を食いに来ただけではないらしい。

食事が半分ほど進んだところで、彼はスプーンを置き、ふと、いつになく真面目なトーンで口を開いた。

 

「――俺はもう、Aクラスを目指すのは辞める」

 

「…………」

 

突然の宣言。

 

だが、俺は特に驚くこともなく、コーヒーカップを傾けながら「ふーん?」とだけ返した。

 

「急にどうしたんだ? 堀北の裏で盤面を操って、クラスポイントを稼ぐのがお前の『義務』だったんじゃないのか?」

 

一学期の頃、綾小路は担任の茶柱佐枝から「退学にさせる」という脅しを受け、不本意ながらもDクラスをAクラスへ導くための裏工作を強要されていたはずだ。

 

俺の問いに対し、綾小路は淡々とした口調で事の顛末を語り始めた。

 

「茶柱先生の脅しが、完全に『嘘』だと分かってな」

 

「嘘?」

 

「ああ。……今日、俺の『父親』が、俺を自主退学させるためにこの学校を訪問してきたんだ。理事長室に呼び出されて、直接退学するように迫られた」

 

綾小路の口から飛び出した、『父親』というワード。

綾小路というバケモノを生み出した、元凶の存在。

 

「だが、その話し合いの中で、ある事実が判明した。茶柱先生は、俺の父親と『何の繋がりもない』という事実だ」

 

綾小路は、冷たい瞳で言葉を続けた。

 

「茶柱先生は、俺が父親から逃げるようにしてこの学校に入学してきたという境遇を勝手に利用し、『協力しなければ父親に連絡して退学させる』というハッタリで俺を脅していただけだった。……父親が直接乗り込んできたことで、そのハッタリは完全に無意味になったというわけだ」

 

「なるほどね」

 

俺は、事の構造を即座に理解し、ニヤリと笑った。

 

「つまり、わざわざ学校まで乗り込んできて『息子を退学させろ』って喚き散らす……お前の父親は、絵に描いたような『モンスターペアレント』ってやつってことか」

 

俺が茶化すように言うと、綾小路は一瞬だけ言葉に詰まった。

 

あの冷酷無比な絶対者を「モンスターペアレント」と呼んだ人間は、おそらく世界で初めてだろう。

 

「……違うが。いや、まあ……それでいい」

 

綾小路は、説明するのを諦めたように小さく息を吐いた。

 

「脅しが消えた以上、俺がDクラスを勝利に導く義理はなくなった。これからは、俺も本来の目的である『平穏な日々』を送る予定だ。……お前のように、な」

 

Aクラスへの執着を捨て、ただの一般生徒として残りの高校生活を静かに過ごす。

 

それが、綾小路清隆の出した結論だった。

 

「ふっ」

 

だが、俺は彼のその決意表明を聞いて、思わず鼻で笑ってしまった。

 

「なんだかんだ言って、お前は結局、巻き込まれてAクラスを目指すハメになりそうだけどな」

 

「……どういう意味だ?」

 

綾小路が微かに眉をひそめる。

 

「お前はもう、目立ちすぎたんだよ」

 

俺はコーヒーを一口飲み、冷静に分析を告げた。

 

「無人島試験での裏工作。それに体育祭の生徒会長とのリレー。龍園や坂柳、それに生徒会も、お前という『異常な存在』にすでに気づいて、完全にロックオンしてる。お前が『今日から平穏に過ごします』って宣言したところで、周りの連中がお前を放っておくわけがない。……お前の望む平穏は、とっくの昔に崩壊してるんだよ」

 

俺の残酷な、しかし的確すぎる予言を聞いて。

綾小路は、深く、重い沈黙に沈んだ。

 

「……お前にそう言われたら、本当にそうなりそうで不安なんだが」

 

綾小路が、珍しく心底嫌そうな、感情の籠もった声で呟いた。

暗殺者としての俺の直感的な『予言』が、彼自身の計算と見事に一致してしまっているからこそ、余計に胃が痛くなるのだろう。

 

「ははっ、同情するぜ。まあ、せいぜい頑張って火の粉を振り払うことだな」

 

俺は笑い飛ばし、ふと疑問に思ったことを口にした。

 

「それにしても。お前が自分の個人的な事情……父親のこととか、茶柱の嘘のこととかを、自分からペラペラと話すとはな。意外だよ」

 

綾小路は、基本的に自己の情報を他者に開示しない。

俺との間にも『互いの深淵を詮索しない』という暗黙の了解があったはずだ。それを自ら破るような真似をした理由が気になった。

 

「……そうだな」

 

綾小路は、残っていたシチューを飲み込み、スプーンを置いた。

 

「普段から、お前にはこうして世話になっているし、……一応、友人だからな。俺も人間だ。少し、誰かに気持ちを吐き出したかったのかもしれないな」

 

綾小路の口から出た、『友人』『気持ちを吐き出したかった』という言葉。

普通の高校生なら、なんの変哲もない友情の証だ。

 

だが。

 

「ぶっ……ははははっ!」

 

俺は、たまらず腹を抱えて大笑いしてしまった。

 

「おいおい、嘘だろ? お前がそんな『人間味のあること』を口にするなんて、違和感しかないわ! 似合わなすぎて背筋が寒くなったぜ」

 

「……失礼な奴だな」

 

綾小路がジト目を向けてくる。

 

俺はひとしきり笑った後、ふっと表情を和らげ、少しだけ真面目なトーンに切り替えた。

 

「いや、悪かったな。……だが、お前が誰かに愚痴をこぼしたくなるくらい、その『父親』ってのは、お前にとって底知れない呪縛であり、平穏を脅かす最大の存在なんだろうな」

 

俺の言葉に、綾小路は否定せず、静かにコーヒーの湯気を見つめた。

 

「お前が俺を『友人』だと思って、そんな重い事情を話してくれたことは、素直に嬉しいぜ」

 

俺は、テーブルに身を乗り出し、声を一段階低くした。

 

「だから、俺からも一つ、友人としての『提案』だ」

 

「……提案?」

 

「ああ。……お前なら、薄々察してるんだろうがな」

 

俺は、綾小路の無機質な瞳を真っ直ぐに見据え、淡々と語った。

 

「うちの実家は、かなり『黒い』世界に生きてる一族でな。……それこそ、邪魔な人間を文字通り『処理』するための裏のツテなんか、掃いて捨てるほどあるんだよ」

 

「――――」

 

綾小路の呼吸が、ほんの僅かに止まった。

 

俺は、極悪な、しかし友人を本気で案じる真剣な笑みを浮かべて告げた。

 

「もしお前が、この先どうしてもその父親から逃げ切れなくなった時。あるいは、完全にその呪縛を『処理』してしまいたいと本気で願う時が来たら……俺に言え。友人価格で、確実に、痕跡一つ残さずに始末できる一流のプロを手配してやるよ」

 

静まり返った部屋。

エアコンの駆動音だけが響く中、俺の放った『暗殺の提案』は、冗談の欠片も含まれていない、純度100パーセントの事実だった。

俺なりの、捻くれた友情の証。

綾小路は、数秒間、俺の顔をじっと見つめ返し。やがて、静かな声で問い返した。

 

「……お前が、実行するのか?」

 

その問いに対し、俺はフッと息を吐いて笑い飛ばした。

 

「何言ってんだ。俺は普通の高校生だぞ? 業者を紹介してやるって言ってるだけだ」

 

俺が肩をすくめてとぼけると、綾小路はジト目をさらに細めて、呆れたように言い放った。

 

「お前のその驚異的な身体能力に、異常な観察眼……普通の高校生と言うには、あまりにも無理があるぞ」

 

「ははっ、違いねえ」

 

俺は声を立てて笑った。だが、次の瞬間、少しだけ声のトーンを落とし、静かな圧を込めて言った。

 

「……ま、今のはあくまで『俺なりの友人としての厚意』だ。お前なら言わなくても分かってるだろうが……」

 

次の瞬間、俺の全身から一切の『陽』の空気が消え去り、深海のような絶対零度のプレッシャーが部屋を支配した。

 

「この情報を俺の弱みとして使おうなんて野暮な真似はするなよ。……俺たち、せっかくいい友人関係を築けてるんだからな?」

 

「――――」

 

その場に座っているだけで、肌が粟立ち、本能が「死」を錯覚するほどの理不尽な殺気。

 

(……なるほど)

 

綾小路は、表面上の無表情を保ちながらも、目の前の男の『本質』を改めて正確に演算し直した。

 

(……もし彼が望む平穏に踏み込み、敵対するようなことがあれば、たとえ友人である俺であっても、この男は一切の躊躇いなく『処理』するだろうな)

 

数秒の、ヒリヒリとするような沈黙の後。

 

「……なーんてな」

 

俺は殺気を一瞬で霧散させ、いつもの爽やかな男子高校生の笑顔に戻り、コーヒーを飲み干した。

 

「お前がひよりに手を出したりしない限り、俺の牙がお前に向くことはないさ。安心しろよ」

 

俺がカラカラと笑うと、綾小路は深く、重いため息を吐き出した。

 

「……相変わらず、物騒な男だな」

 

綾小路は、それだけを言い捨てて、立ち上がった。

 

「ごちそうになった。シチュー、美味かったぞ」

 

「おう。また来いよ。親父の件、気が向いたら言えよな」

 

綾小路が帰り、一人になった俺は、再びソファに寝転がりながら端末を開いた。

 

ひよりからの『今日はとても楽しかったです。おやすみなさい』というメッセージを見て、先ほどの血生臭い会話など完全に脳内から消去し、ただひたすらにだらしない笑顔を浮かべていた。

 

俺にとって、綾小路の父親の命など、その辺の石ころ以下の価値しかない。

友人のあいつが望むなら手配してやるし、望まないなら放置する。それだけのことだ。

 

(さて、明日はひよりと何を話そうかな……)

 

暗殺者の少年は、平和すぎる悩みに頭を抱えながら、温かい布団へと潜り込んだ。

 

 

 

一方、その頃。

自分の部屋へと戻った綾小路清隆は、暗い部屋のベッドに腰掛け、静かに思考の海へと沈んでいた。

 

(……やはり、俺の計算通りか)

 

綾小路は、先ほどの呉刃叉羅との会話を、脳内で冷静に反芻していた。

 

『友人だから、気持ちを吐き出したかった』――そんなものは、当然ながら彼が構築した盤面を円滑に回すための『嘘』であり、情報を引き出すための『演技』だ。

 

これまで、綾小路と呉の間には『互いの深淵には干渉しない』という暗黙の了解が存在していた。互いに底知れぬ危険性を嗅ぎ取っていたからこそ、不可侵の距離を保つのが最も合理的だったからだ。

 

だが、綾小路はあえてその自衛のルールを破った。理由は一つ、純粋な『知的好奇心』だ。

 

ホワイトルームという極限の計算式の中で完成された彼にとって、呉刃叉羅という一切のロジックが通用しない『規格外のバグ』は、観察対象としてあまりにも魅力的すぎた。彼がいかなる環境で創り上げられたバケモノなのかを、どうしても知っておきたかったのだ。

 

だからこそ、あえて自分の父親のことや退学の危機にあった事情を呉に話し、『自己の情報を開示することで返報性の法則を利用し、相手のバックボーンを引き出す』という罠を仕掛けた。

 

結果として、呉はあっさりと、情報を開示した。

 

(殺し屋のツテ、か。……やはり、彼は正真正銘『裏の人間』だな。それも、ただの不良や半グレなどではない、国家レベルの権力すら凌駕するかもしれない暗殺一族の類い)

 

綾小路の無機質な瞳が、闇の中で冷たく光る。

 

(だが、今回の程度の情報開示で引き出せたのは、せいぜいその表面的な部分だけだ。呉が抱える真の闇――あの異常な身体能力の根源といった核心に触れるには、小手先の心理操作や同情を引く嘘など通用しないだろう)

 

ベッドに仰向けになりながら、綾小路は静かに天井を見つめた。

 

(これ以上の情報を引き出すつもりなら、いずれはこちらからも同等の『誠意』……つまり、俺自身の本当の背景を盤面に晒す必要がありそうだな)

 

それは、彼にとってかつてないほどのリスクを伴うカードの切り方になるはずだ。

 

(それにしても……)

 

綾小路の脳裏に、呉が放った言葉が蘇る。

 

それは、好奇心を満たす以上の、全く想定外の……しかし、悪魔的で甘美な『劇薬』のような提案だった。

 

ホワイトルームの最高権力者であるあの男。

彼が生きている限り、綾小路清隆という存在が真の自由と平穏を手に入れることは、永遠に叶わない。

 

この学校を卒業すれば、必ずあの男の支配下へと連れ戻される。それは変えようのない事実であり、宿命だった。

 

しかし、もし。

呉刃叉羅の持つ裏社会の力……『暗殺』という手段を用いて、あの男の存在そのものを、この世から完全に消去してしまえるとしたら?

 

「…………」

 

綾小路は、自分の胸の奥底で、かつてないほど冷酷で、合理的で、真っ黒な思考が渦巻き始めるのを感じていた。

 

(あの男の、処理、か)

 

それは、これまでの彼の人生の前提を根底から覆す、究極の盤面操作。

 

(……真剣に、検討しようか)

 

影の支配者は、暗闇の中で一人、友人が提示した『殺意のカード』を、手札の最も重要な位置にそっと忍ばせた。

 

その選択が、将来、いかなる血の結末を呼び起こすのか。

今はまだ、誰も知る由もなかった。

 

 

 

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