十二月二十一日の、夜。
ひよりとの甘く穏やかなケヤキモールでのデートを終え、心身ともに極上の幸福感で満たされていた俺は、自室のベッドで微睡みの淵に沈もうとしていた。
だが、そんな俺の平穏を切り裂くように、サイドテーブルに置かれた端末が無機質な振動音を立てた。
「……こんな時間に誰だよ」
気怠げに画面を確認すると、そこには『龍園翔』の名前が表示されていた。
昼間の広場での一件があったばかりだ。面倒な予感しかしないが、無視して後からしつこく嗅ぎ回られるのも鬱陶しい。
俺は小さく舌打ちをし、通話ボタンを押した。
「……なんだよ、ドラゴンボーイ。俺は今、ひよりとのデートの余韻に浸って最高にいい気分なんだ。手短に済ませろよ」
『……テメエ、ふざけた呼び方してんじゃねえぞ、化け物』
電話越しに聞こえる龍園の声は、いつもの余裕ぶった薄ら笑いではなく、明確な『苛立ち』を孕んでいた。
『……話が違うじゃねえか。お前は俺たちAからDのクラス間闘争には一切興味がねえ、ただの傍観者だと言ったはずだ』
「ああ、言ったな」
『だが、お前が本気であの坂柳を守るってんなら、俺たちはAクラスに対してもう何もできねえ。物理的なプレッシャーも裏工作も、お前という理不尽な暴力が立ち塞がるなら、盤面が根底から崩れるんだよ』
龍園の苛立ちは尤もだった。
暴力と恐怖を最大の武器とする彼にとって、それを遥かに凌駕する俺が坂柳の盾になるということは、最大の武器を封じられたに等しい。
「……はぁ、勘違いするなよ」
俺は、ベッドから半身を起こし、冷たく、しかし呆れたような声で返した。
「俺は、お前が『学校のルールに則って』あのお嬢さんを盤面で叩き潰す分には、一向に構わないと言ってるんだ。知略で勝とうが、クラスポイントを奪おうが、好きにすればいい」
俺は、昼間の宣言の真意を正確に伝えた。
「ただ、『盤外の暴力』で、あのお嬢さんに直接的な身体的危害を加えるのはなしだ。……それだけだよ。俺が止めるのは、お前らが一線を越えた暴力に訴えた時だけだ」
『……チッ』
電話の向こうで、龍園が忌々しそうに舌打ちをする音が聞こえた。
俺の言葉の真意を理解し、同時に、俺が放った『一線を越えたら殺す』という昼間の殺気がハッタリではないことを改めて噛み締めているのだろう。
『……てめえ、本当に何者だよ』
龍園が、警戒と、隠しきれない探究心を滲ませた声で聞いてきた。
圧倒的な身体能力。躊躇いのない殺気。一学期に見せた異形の姿。そして、理事長と繋がっているという事実。ただの高校生であるはずがない。
その問いに対し、俺はフッと鼻で笑った。
「世の中、知らない方がいいこともあるんだぜ? ……どうしても聞きたいって言うなら、聞いても後悔しない覚悟があるなら、話してやってもいいがな」
俺が極悪な笑みを浮かべて挑発すると。
『……チッ。辞めとくぜ』
数秒の沈黙の後、龍園は即座にその提案を蹴った。
『お前の逆鱗に触れた瞬間に、俺の命が終わりそうだからな。知らねえ地雷は踏まねえ主義だ』
その野生の勘とでも言うべき危機察知能力は、さすがと言うべきか。
俺は思わず声を上げて笑った。
「ははっ、賢明な判断だな。……でも安心しろよ、俺がそんなことして、ひよりを悲しませるわけないだろう?」
俺は、心底優しい声で、しかし言葉の内容は最悪なことを告げた。
「やるにしても、お前の四肢を捥いで、一生車椅子生活の『再起不能』にするくらいに留めてやるよ。不殺の誓いってやつだ」
『……お前なら、本当にやりそうで全く笑えねえんだよ。このイカれた化け物が』
龍園が、本気のトーンでドン引きしているのが分かった。
彼自身、数々の生徒を恐怖で支配してきた男だが、俺の『暴力の次元』が根本的に違うことを完全に理解している。
「ははっ、冗談だよ。で、用件はそれだけか? なら切るぞ」
『……待て。もう一つだ』
龍園が、声音を低くして本題に入った。
『昼間も言ったが、俺はもうDクラスの裏に潜む『X』の正体をほぼ特定した。……明日、奴を確実に引きずり出して、この手で完全にぶっ潰す。……お前は、邪魔しねえよな?』
「ああ、Dクラスの黒幕探しか」
俺はアクビを噛み殺しながら答えた。
「安心しろ。Xを見事暴いたなら、ご褒美として俺はお前らに一切手を出さない。……ただ、面白そうなものが見たいだけだ」
俺が完全に中立の傍観者を決め込むと宣言すると、龍園は怪訝そうに黙り込んだ。
「信じられないなら、俺がこの約束を破ってXに加勢したら俺がこの学校を自主退学してやるよ。これでどうだ?」
俺が自らの退学をチップとして提示すると、龍園は『チッ』と短く舌打ちをした。
『……好きにしろ。どっちみち、お前がその気になって動き出せば、俺たちに止められる手段はねえからな』
「理解が早くて助かるよ。じゃあ、X探しの答え合わせ、楽しみにしてるぜ。俺も特等席で見学に行くからな」
『ああ? てめえ……』
「頑張れよ、ドラゴンボーイ」
俺は、龍園が何か怒鳴り返してくる前に、一方的に通話を切った。
「さてと」
俺は端末を放り投げ、再びベッドに倒れ込んだ。
(いよいよ、綾小路と龍園の直接対決か)
おそらく明日の終業式後、龍園は軽井沢を餌にして綾小路をおびき出すはずだ。
裏社会で鍛え上げられた暗殺者の俺から見ても、彼らの頭脳戦と暴力の交差は、なかなか見応えのあるエンターテインメントだ。
(明日の放課後は、少し屋上辺りを覗いてみるか)
俺は、明日の極上のショーに期待を膨らませながら、静かに眠りについた。
翌日。十二月二十二日。
二学期の最後を締めくくる終業式が行われ、生徒たちは冬休みへの解放感から浮き足立っていた。
「刃叉羅くん、今日はこの後、茶道部の活動があるんです。冬休み前のお茶会で……」
ホームルームが終わった後。
ひよりが、少し申し訳なそうに俺の袖を引いて言ってきた。
「ああ、気にするな。部活は大事だろ。終わったら連絡してくれ。迎えに行くからさ」
「はいっ! ありがとうございます。……刃叉羅くんは、この後どうされるんですか?」
「俺か? 俺は……ちょっと、面白い『ショー』の見学に行ってくるよ」
俺が意味深に笑うと、ひよりは不思議そうに首を傾げたが、深く追求はせずに「お気をつけて」と手を振って茶道部へと向かっていった。
ひよりの背中を見送り、俺は一人、人気のなくなった廊下を歩き出した。
向かう先は、特別棟の『屋上』だ。
龍園が軽井沢を呼び出し、暴力という盤外戦術を用いてXを炙り出すつもりなら、監視カメラがなく、教師の目も届かない場所を選ぶはずだ。
消去法で考えれば、冬の寒空の下、誰も寄り付かない『屋上』しかあり得ない。
冷え切った階段を上り、重い鉄の扉の前に立つ。
俺の研ぎ澄まされた聴覚は、扉の向こう側に、すでに数人の人間の気配を捉えていた。
だが、その気配の中に、軽井沢恵や綾小路清隆のものはまだない。どうやら、俺が一足早く着いてしまったらしい。
(……ちょうどいい)
俺は、一切の躊躇いなく、ガチャリと鉄の扉を開け放った。
「――――」
ピューッと冷たい冬の風が吹き抜ける屋上。
そこには、予想通り、Cクラスの面々が待ち構えていた。
龍園翔を中心に、巨漢のアルベルト、そして石崎大地と伊吹澪。
「……よお、ドラゴンボーイ。約束通り、見学に来たぜ」
俺がポケットに両手を突っ込んだまま、飄々とした態度で屋上に足を踏み入れると。
龍園たちCクラスの面々の視線が、一斉にこちらへと突き刺さった。
「……チッ。本当に来やがったか、化け物」
龍園が、忌々しそうに顔をしかめる。
だが、龍園以外のメンバー……特に石崎と伊吹は、突然現れた俺を見て、完全に警戒レベルをMAXに引き上げていた。
「お、おい龍園さん! あいつ、Dクラスの呉じゃねえか!!」
石崎が、慌てて龍園に詰め寄る。
「なんであいつがここに来るんだよ! まさか……こいつが、俺たちを探ってたDクラスの『X』なんじゃねえのか!?」
「そうだわ。こいつが黒幕だと考えれば辻褄が合う……!」
伊吹も、臨戦態勢に入りながら俺を鋭く睨みつける。
彼らの推理は、一般論として考えれば非常に真っ当だ。
このタイミングで、龍園の秘密の呼び出し場所に堂々と姿を現したDクラスの生徒。黒幕(X)だと疑うのが自然だろう。
だが、龍園は彼らのその疑いを、鼻で笑って完全に否定した。
「アホか、てめえら。少しは頭を使え」
龍園は、ポケットから手を出して俺を指差した。
「こいつが『X』なわけがねえ。……もしこいつが俺たちを潰そうとする黒幕なら、真鍋たちを使った面倒な裏工作なんざ絶対にやらねえ。真っ昼間から俺たちの教室に単身で乗り込んできて、正面から全員の首をへし折って終わりだ。……こいつはそういう純粋な暴力の化身だ」
龍園の評価に、俺は思わず吹き出しそうになった。
「流石にそんなことはしないさ。で、龍園。俺はどこで見学してればいい? さすがに特等席を用意してくれてるんだろ?」
俺が周囲を見渡しながら聞くと、龍園は顎で、屋上のさらに上……貯水タンクなどが設置されている、一段高いメンテナンススペースを指し示した。
「そこから見下ろしてろ。……約束通り、一切手は出すなよ。これは俺と『X』のゲームだ」
「ああ、分かってる。俺はただのポップコーンを食いながら映画を見る観客だ」
俺は、コンクリートの壁を軽々と蹴り上がり、三メートルほど高さのあるメンテナンススペースの上へと一瞬で跳び乗った。
「なっ……!?」
その人間離れした跳躍力に、アルベルトでさえも驚きに目を見張っている。
俺は、冷たいコンクリートの上に胡座をかき、眼下で展開される屋上の盤面を見下ろす体勢を整えた。
それから十数分後。
ギーッ、と重い鉄の扉が開き、この狂気のお茶会に招かれた『餌』が姿を現した。
「……っ」
屋上に足を踏み入れたのは、一年Dクラスの女子のリーダー格、軽井沢恵だった。
彼女は、待ち構えていた龍園たちCクラスの面々を見て、ビクッと肩を震わせ、顔から血の気を引かせた。
かつて負った壮絶なイジメのトラウマ。それを知る真鍋たちを操り、自分をこんな場所へ呼び出したのが龍園翔であると悟り、彼女の瞳には明確な『恐怖』と『絶望』が浮かんでいた。
だが、軽井沢の視線が屋上を彷徨い……上部にあるメンテナンススペースに座っている俺の姿を捉えた瞬間。
「え……? く、呉くん!?」
彼女の絶望に染まっていた瞳に、パァッと『希望』の光が灯った。
体育祭の時、須藤の暴力を片手で止め、圧倒的な身体能力でクラスを救ってくれた頼もしいクラスメイト。さらに、放課後の勉強会ではいつも優しく勉強を教えてくれる友人。
そんな俺がここにいる。助けに来てくれたのだと、彼女が勘違いするのも無理はなかった。
「呉くんっ! 助けて! 龍園たちが……!」
軽井沢が、縋るような声で俺を見上げる。
だが。
俺は、冷たい冬の風に髪を揺らしながら、少しだけ申し訳なさそうな声で彼女に告げた。
「……すまんな、軽井沢」
「え……?」
「俺は、龍園との約束で、この場には『一切手出しできない』んだ」
俺がそう言った瞬間。
軽井沢の瞳から、わずかに灯った希望の光が、音を立てて砕け散った。
唯一の救いであるはずの俺が、龍園と何らかの密約を交わし、自分を見捨てるという残酷な現実。
彼女は、ガクンと膝の力を抜き、その場に崩れ落ちそうになった。
「ククク……。残酷な男だな、てめえも」
龍園が、絶望する軽井沢を見下ろしながら、愉悦に歪んだ笑みを浮かべる。
「さあて、軽井沢。お前を助けに来るナイトは、もうここにはいねえ。……お前を裏から操っていた『X』の名前を吐け」
そこからは、龍園による一方的な尋問が始まった。
軽井沢の過去のトラウマを抉り、彼女の心をへし折ろうとする言葉の刃。
だが、軽井沢は震えながらも、頑なに綾小路の名前を口に出そうとはしなかった。
(……ほお)
俺は、上から見下ろしながら、軽井沢のその強さに感心していた。
綾小路への依存が、彼女の中でただの寄生から、何らかの『絶対的な忠誠』へと昇華している証拠だった。
「……チッ。意地を張りやがって。なら、少し頭を冷やしてもらうしかねえな」
業を煮やした龍園が、石崎に顎で合図を送る。
石崎が用意していたのは、真冬の冷気を吸い込んで凍りつくほどに冷えた『水の入ったバケツ』だった。
「ひっ……!」
軽井沢が、恐怖に顔を引き攣らせる。
氷点下に近いこの気温の中で水を被れば、ただの拷問では済まない。最悪の場合、低体温症で命に関わる危険性がある。
龍園が、バケツを手に取り、軽井沢の頭上へと掲げようとした。
その瞬間。
「――待てよ、龍園」
静寂の屋上に、俺の冷え切った、しかし良く響く声が落ちた。
「……あ?」
龍園の動きが止まり、忌々しそうに上を向く。
「そんなこと、しなくていいさ。バケツは置け」
俺がそう言うと、龍園の顔に明確な怒りの色が浮かんだ。
「てめえ……約束を違える気か? 一切手は出さねえって言ったのはお前だろうが」
「手は出さないさ。だが、口は出す」
俺は、メンテナンススペースの端から、龍園を真っ直ぐに見下ろして告げた。
「違うんだよ、龍園。そんな三流悪党みたいな水攻めなんかしなくても……お前が待つ『X』は、必ずここに来る」
「……何?」
「俺の首を賭けてもいい」
俺の、一切の迷いのない断言。
暗殺者として命のやり取りをしてきた人間が放つ「首を賭ける」という言葉の重みは、龍園にも確かに伝わっていた。
「……それに」
俺は、震える軽井沢を一瞥し、少しだけ声を柔らかくして言葉を続けた。
「俺はDクラスへの興味はないが、軽井沢は、勉強会にも真面目に参加してくれた、俺の『数少ないクラスの友人』だからな。……いくら見学の約束があっても、そんな手荒な真似を見過ごすわけにはいかない」
「――――」
俺の言葉を聞いて、軽井沢が、驚きと微かな安堵の入り混じった顔でこちらを見上げた。
見捨てられたわけではなかった。助けてはくれないが、最悪のラインだけは守ってくれている。その事実が、彼女の心にほんの少しだけ温もりを与えていた。
「……チッ」
龍園は、大きく舌打ちをし、持っていたバケツを床に乱暴に置いた。
ガシャン、と冷たい水が少しだけ床にこぼれる。
「てめえの首がかかってんなら、信じてやるよ。……だが、もし『X』が来なかったら、マジでてめえの首を貰うからな」
「ああ、好きにしろ」
俺は余裕の笑みを浮かべ、再び胡座をかき直した。
(来るさ。綾小路のやつならこの状況になることも、全て計算通りのはずだ)
時計の針が、ゆっくりと進んでいく。
冷たい風が吹き荒れる屋上で、王と、その配下たちと、怯える少女と、そして特等席の暗殺者。
やがて。
重い鉄の扉の向こうから、静かな、しかし確かな足音が近づいてくるのが聞こえた。
俺は、口元に極上の笑みを浮かべ、その瞬間を待った。
いよいよ、影の支配者がその仮面を脱ぎ捨て、表舞台へと姿を現す時が来たのだ。