十二月二十二日、放課後。
特別棟の屋上。凍てつくような冬の強風が吹き荒れる中、俺――呉 刃叉羅は、コンクリートのメンテナンススペースの上で胡座をかき、眼下で繰り広げられる「狂気のお茶会」を特等席から見下ろしていた。
Cクラスの独裁者・龍園翔とその配下たち。そして、彼らに追い詰められ、恐怖に震えるDクラスの軽井沢恵。
俺が「Xは必ず来る」と予言し、龍園の拷問を止めてから、数分が経過した頃だった。
『――ギィィィッ』
重い鉄の扉が、軋むような音を立てて開かれた。
吹きすさぶ風の音が一瞬止んだかのように、屋上の空気がピンと張り詰める。
全員の視線が、扉の向こう側に現れた一つの影へと突き刺さった。
「……っ」
そこに立っていたのは。
両手をポケットに突っ込み、一切の感情を読み取らせない無表情のまま、静かに屋上へと足を踏み入れた少年――一年Dクラスの、綾小路清隆だった。
その姿を認めた瞬間。
床にへたり込んでいた軽井沢恵の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「……清隆っ……!」
彼女の口から漏れたのは、安堵と、自分を見捨てなかった彼への強烈な依存が入り混じった、魂の底からの叫びだった。
だが、彼女はすぐにハッとして、自分の置かれている状況と、彼を待ち受けるCクラスの暴力の脅威を思い出した。
「だ、だめっ! 逃げて、清隆! こいつら……!」
自分が助かることよりも、彼を逃がそうとする悲痛な叫び。
だが、綾小路はそんな彼女の制止など全く意に介さず、ただ静かな足取りで、龍園たちの包囲網の中へと歩みを進めた。
(……ほう)
俺は、一段高い場所から、綾小路の微細な視線の動きを観察していた。
綾小路の視線は、まず軽井沢の全身を確認し、彼女が濡れておらず、外傷もない『無傷な状態』であることを確認した。
(……軽井沢は無傷か。龍園のやり方なら、俺が来る前に何かしらの拷問をして『X』の正体を聞き出しているかと思ったんだがな)
綾小路は内心でそう思考し、小さく首を傾げた。
龍園が水攻めなどの物理的手段に出なかったことへの疑問。その答えが、自分の頭上にいる『特等席の観客』のせいだとは、この時の彼はまだ気づいていない。
綾小路は、龍園たちを一瞥すらせず、まっすぐに軽井沢の元へと歩み寄った。
そして、自分が着ていたブレザーを脱ぎ、寒さと恐怖で震える彼女の肩に優しく掛けた。
「先に、寮に戻っていろ」
綾小路は、極めて平坦な、しかし有無を言わさぬ声でそう指示した。
「で、でも……っ! あんた一人じゃ……!」
軽井沢が、綾小路のブレザーをギュッと握りしめながら抵抗しようとする。
これから多勢に無勢の暴力沙汰が起きることは明白だ。彼を一人残して逃げることなど、今の彼女の精神状態では到底できることではなかった。
「心配するな」
綾小路が、軽井沢の目を真っ直ぐに見据えて、短く告げる。
その言葉には、何の根拠もないはずなのに、彼女の心を絶対的な力で落ち着かせる『何か』があった。
「……っ」
軽井沢は、心配そうに何度も振り返りながらも、フラフラと立ち上がり、屋上の出入り口へと向かった。
龍園は、去っていく軽井沢を追うよう配下に指示することもなく、ただニタニタと笑いながら、新たな獲物である綾小路だけを見据えていた。
『バタンッ』と、重い扉が閉まり、軽井沢が完全に屋上から退避したことを確認すると。
綾小路は、ようやく視線を上げ、屋上全体をゆっくりと見回した。
そして、その視線が。
屋上のさらに上、三メートルほどの高さにあるメンテナンススペースで、俺が胡座をかいて見下ろしている姿を捉えた。
「――――」
綾小路の無機質な瞳が、ほんの一瞬だけ、明確な『驚き』の色を帯びた。
彼にとって、俺がこの場所にいることは完全に計算外だったのだろう。
「……なぜ、呉がここにいる?」
綾小路が、眉をひそめて問いかけてくる。
俺は、頬杖をつきながら、ひらひらと右手を振ってみせた。
「よお。ただのショーの見学だ。……俺は完全に中立の傍観者だからな、空気だと思って気にしないでくれ」
俺がそう宣言すると、綾小路は状況を瞬時に理解したのか、「……そうか」とだけ短く返し、視線を目の前の龍園たちへと戻した。
「クククッ……ハハハハハッ!!」
龍園翔が、腹の底から歓喜の笑い声を上げた。
「てめえが『X』か。てっきり、ただの鈴音の金魚の糞かと思っていたぜ」
龍園が、獲物を甚振るような凶悪な笑みを浮かべて煽る。
その後ろで、石崎や伊吹も、信じられないものを見るような目で綾小路を睨みつけていた。
「だがな、綾小路。お前ももう終わりだ」
龍園が、上部で傍観を決め込んでいる俺を親指で指し示した。
「お前の唯一の頼みの綱かもしれないあの『バケモノ』は、俺と密約を交わしている。お前に加勢することは絶対にねえ。……お前は、ここで俺たち四人に完全に潰されるんだよ」
絶対絶命の包囲網。
暴力の化身であるアルベルト、武闘派の石崎と伊吹、そして独裁者の龍園。
普通の高校生であれば、この状況に置かれただけで恐怖に足がすくみ、土下座をして命乞いをするだろう。
だが。
綾小路清隆は、相変わらず感情を一切感じさせない声と、人形のような無表情のまま、首をコテリと傾げた。
「……俺は今、ピンチなのか?」
「あぁ?」
龍園が、予想外の反応に顔をしかめる。強がりにしては、あまりにも自然で、平坦すぎるトーンだった。
「お前たち四人程度では、俺の脅威にはならない」
綾小路が、ただの事実を述べるように、淡々と告げた。
「――――なめやがって!!」
その言葉が引き金となった。
激昂した石崎が、真っ先に綾小路に向かって飛び出した。
大振りの、しかし喧嘩慣れした重い右フック。普通の生徒なら、これ一発で脳震盪を起こして沈むだろう。
だが、綾小路は全く動じなかった。
彼が軽く右足を踏み込んだ瞬間。
『ドガッ!!』
石崎の拳が届くよりも早く、綾小路の放った完璧なカウンターの左ストレートが、石崎の顔面を正確に撃ち抜いていた。
「ぐはっ……!?」
白目を剥いて崩れ落ちようとする石崎の腹部に、さらに無慈悲な右の蹴りが深々と突き刺さる。
たったの二撃。瞬きをする間に、石崎は崩れ落ち、完全に意識を刈り取られて沈んだ。
「なっ……! 石崎!?」
伊吹が驚愕に目を見開く。
彼女はすぐさま蹴り技を主体とした素早いコンビネーションで綾小路に攻めかかった。
(……蹴りの軌道は悪くないな)
俺は上から評価したが、相手が悪すぎた。
綾小路は、伊吹の放つ鋭いハイキックを、最小限の動きで紙一重で躱し、そのまま彼女の軸足を正確に刈り取った。
「きゃっ……!?」
体勢を崩した伊吹の首筋に、手刀が容赦なく振り下ろされる。
「うっ……」
伊吹もまた、一声呻いただけで、糸の切れた操り人形のように冷たいコンクリートの床へと崩れ落ちた。
「……ククク。なるほどな」
仲間が二人がかりで瞬殺されたというのに、龍園の顔には焦りどころか、さらに深い愉悦の笑みが広がっていた。
「頭脳だけじゃなく、『暴力』も一級品とはな。……傑作だぜ、てめえは」
龍園が指を鳴らす。
「やれ、アルベルト」
「YES、BOSS」
Cクラス最大の巨漢、アルベルトが、重戦車のように綾小路へと突進した。
その凄まじい体格から繰り出される豪腕のパンチは、ガードの上からでも骨を砕くほどの威力を持っている。
『ブォンッ!』と風を切る音が響く。
だが、綾小路はその巨腕の軌道を完全に読み切り、上体を滑らせるようにして回避。アルベルトの懐に潜り込むと、その鳩尾に向かって、コンパクトだが全体重の乗ったショートパンチを叩き込んだ。
「グッ……!」
さすがのアルベルトも、内臓を揺らす一撃に動きが止まる。
その隙を逃さず、綾小路の無機質な連撃がアルベルトの急所を的確に破壊していく。
数発の打ち合いの末、巨岩のようなアルベルトの身体が、ついにドスーンッ!と地響きを立てて倒れ伏した。
これで、残るは龍園翔、ただ一人。
「……最高だ」
龍園は、狂気じみた笑みを浮かべ、首の骨をボキボキと鳴らしながら、自ら綾小路の前へと歩み出た。
「来いよ、綾小路ぃ!」
「……」
両者の間合いが交差する。
戦闘開始。
龍園の攻撃は、荒削りだが、本能に従った野性味と、喧嘩で培った変則的なタイミングを持っていた。
殴り合い、蹴り合い。
一見すると、龍園が綾小路に喰らいついているように見える。
(お? 龍園の奴、前より少し動きが良くなってるな)
俺は、上からポップコーンを食べる(ふりをする)手を止めて感心した。
以前、俺がコテンパンにしてやった時よりも、明らかに動体視力と打撃のキレが増している。おそらく、俺という『絶対的な恐怖』を味わったことで、彼の中の何かが覚醒し、本能的に強さを求めて鍛え直したのだろう。
(だが……綾小路に勝つには、まだ厳しいな)
俺の暗殺者としての目は、二人の『埋められない実力差』を冷静に分析していた。
綾小路の動きには、無駄が一切ない。計算され尽くした『最適解』の武術。息一つ乱さず、龍園の攻撃をいなし、的確にダメージを蓄積させていく。
『ドスッ!』
綾小路の拳が、龍園の顔面を激しく殴り飛ばす。
「かはっ……!」
龍園は血を吐きながら後退するが、倒れない。
『バキッ!』
今度は腹部への重い蹴り。龍園の身体が「くの字」に折れ曲がる。
だが。
何度殴られ、どれほど深刻なダメージを負っても。
龍園翔の目から、その狂気に満ちた『光』が消えることはなかった。
彼は血塗れの顔でニタニタと笑いながら、何度でも綾小路に向かって立ち上がっていくのだ。
「……理解できないな」
ついに、綾小路が拳を止め、無機質な声で問いかけた。
「人間は、自分が絶対に勝てない相手、圧倒的な力の差を見せつけられた時、本能的に『恐怖』を感じ、心が折れるはずだ。……お前は、恐怖を感じないのか?」
龍園の精神構造は、綾小路の論理的演算の範疇を超えていた。
その問いに対し。
龍園は、口の端から血を流しながら、腹の底からクククッと笑い声を上げた。
「……以前までの俺なら、そう答えてたかもな」
龍園は、不敵な笑みを浮かべたまま、上空のメンテナンススペースに座っている俺の方をチラリと見上げた。
「だがな。少し前に、そこの特等席でふんぞり返ってる『バケモノ』に完膚なきまでに叩きのめされて……俺も、生まれて初めて『恐怖』って感情を知ったんだよ。自分の命が、文字通り紙切れみたいに弄ばれる、絶対的な絶望をな」
俺は「おっと」と肩をすくめた。
まさかこんなところで俺の名前が引き合いに出されるとは。
龍園は、再び視線を綾小路へと戻し、血塗れの歯を見せて凶悪に笑った。
「だがよ、綾小路。てめえは確かに強い。強ぇが……あいつみたいな『人外の力』を使えるわけじゃねえ。同じ人間の枠に収まってるんだよ!」
龍園は、ふらつく足で立ち上がり、綾小路に向かって指を突きつけた。
「今日は、てめえが勝つかもな! 圧倒的な暴力で俺を沈めるだろう! だが、明日はどうだ!? 明後日は!? 俺は心が折れねえ! お前に勝つまで、寝首を掻いてでも、何度でも何度でもお前に挑み続けてやる!!」
それは、龍園翔という男の最大の武器である『底なしの執念』の宣言だった。
(……おいおい)
俺は、上からその熱い演説を聞いて、思わず苦笑してしまった。
(お前、それ……俺に喧嘩売ってボコボコにされた時と、全く同じこと言ってんじゃん)
『俺は心が折れねえ』『明日はどうだ』。
あの時、俺はひよりに手を出そうとした龍園に「外し」を使い、明確な「死」を体感させることで、黙らせたわけだが。
綾小路はどう対応するつもりか。
「……なるほど。お前の強さの根源は理解した」
綾小路は、表情を一切変えることなく、淡々と呟いた。
そして、彼が取った行動は。
龍園の放った、渾身の右ストレート。
綾小路は、それを躱すことなく、自らの顔面で受け止めた。
『ゴッ!』という鈍い音が響き、綾小路の口から一筋の血が流れる。
「……っ!?」
ダメージを与えたはずの龍園の方が、驚愕に目を見開いた。
綾小路の無機質な瞳には、痛みの色も、怒りの色も、当然ながら『恐怖』の色も、一切存在していなかった。
彼は、血を流したまま、全くの無表情で龍園の胸ぐらを掴み、足を刈ってマウントポジションを奪った。
そして。
『ドガッ!』『メキッ!』『ゴスッ!』
何の感情も込められていない、機械のような正確さで。
龍園の顔面に、容赦のない鉄槌を振り下ろし続けた。
「ぐっ……! がはっ……!」
殴る。殴る。殴る。
綾小路は、龍園が反撃の意思を見せようとする度に、それを上回る冷酷な暴力で、淡々と、作業のように彼を破壊していく。
『……お前は勘違いしている。俺は、お前に恐怖を教えるために殴っているんじゃない。ただ、お前という障害を排除する作業をしているだけだ』
無言の拳が、そう語りかけているようだった。
龍園の『心が折れない』という執念すらも、綾小路の『一切の感情を持たない無限の暴力』の前には、無意味なものへと変わっていく。
やがて。
龍園の目に宿っていた狂気の光が、ついに揺らぎ、そしてフッと消え去った。
彼の心が、完全に『折れた』瞬間だった。
「……クソ……が……」
龍園は、白目を剥き、ついに完全に意識を手放した。
冷たい風が吹き荒れる屋上。
そこに立っているのは、返り血を浴び、無傷とは言えないまでも、呼吸一つ乱していない綾小路清隆ただ一人となった。
Cクラスの面々が全員気絶し、完全決着がついたことを確認し。
「――パチパチパチパチ」
俺は、メンテナンススペースからゆっくりと立ち上がり、乾いた拍手を送った。
「やるな、綾小路。大した格闘センスだ。あんな一方的な蹂躙、映画の暗殺者でもなかなかお目にかかれないぜ」
俺がヒラリと飛び降りて歩み寄ると、綾小路は制服の汚れを払いながら、こちらを無表情で見つめ返した。
「……お前が、敵に回らなくて安心したよ」
綾小路が、微かに疲労を滲ませた声で呟く。
「おいおい、俺はただの事なかれ主義の高校生だっていつも言ってるだろ?」
俺は笑って肩を叩き、出入り口の扉の方へと視線を向けた。
「それにしても。軽井沢は強いな」
「……」
「龍園にあの極寒の中で水攻めされそうになっても……何を言われても、あいつは最後までお前の名前を口にしなかったぜ。……相当、お前を慕っているみたいだな」
俺の言葉に、綾小路は少しだけ目を伏せた。
「そうか」
彼が短く答えたその声の奥に。
単なる『手駒』として扱っていた軽井沢恵への評価を、明確に改め、より重要な『パートナー』として認識し直した気配があった。
「早く、軽井沢のところに行ってやりな。今頃、寮の部屋で震えながらお前の帰りを待ってるはずだぜ。……ちゃんと、優しく抱きしめて安心させてやれよ?」
俺がニヤニヤしながらアドバイスすると、綾小路は「……お前のその冷やかしは、時々本当に鬱陶しいな」とだけ言い残し、背を向けて屋上を後にした。
綾小路が去り、屋上に残された俺は。
冷たいコンクリートの上で気絶しているCクラスの面々を見下ろしながら、ポケットに手を入れて彼らが目覚めるのを待った。
数十分後。
「……う、あ……」
最初に呻き声を上げたのは、独裁者・龍園翔だった。
彼は、全身の激痛に顔を歪めながら、ゆっくりと上体を起こした。
周囲には、同じように倒れている配下たち。そして、目の前には、見下ろすように立っている俺の姿。
「……綾小路は……」
「とっくに帰ったよ。軽井沢のところにな」
俺が答えると、龍園は自分が完全に敗北した事実を噛み締め、ギリッと歯を食いしばった。
「俺の言った通り、Xは来ただろう?」
俺がわざとらしく笑いかけると、龍園は忌々しそうに「……チッ」と舌打ちをした。
「まあ、そう落ち込むなよ」
俺は、龍園に向かって、少しだけ本気の感心を込めて言った。
「結果的にはボロ負けだったが……お前、前より確実に強くなってんじゃないか。あの綾小路相手に、一発でもクリーンヒットを入れた執念は、素直に褒めてやるよ」
俺の言葉に、龍園は驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつものように鼻で笑った。
「……化け物に慰められるほど、俺も落ちぶれちゃいねえよ」
その時。
俺のポケットの中で、端末が小さく振動した。
画面を見ると、愛しのひよりからのメッセージだった。
『刃叉羅くん、部活が終わりました。今、ロビーにいます』
(おっと、いけねえ)
俺の顔から、暗殺者としての冷徹な気配が完全に消え去り、デレデレの彼氏の顔へと一瞬で切り替わる。
「さてと。俺の愛しの天使からお呼び出しがかかった。俺は可愛い彼女を迎えに行かなきゃならないんで、これにて退散させてもらうぜ」
俺は、ボロボロの龍園たちに軽く手をヒラヒラと振った。
「じゃあな、ドラゴンボーイ。良いお年を」
「……てめえ、マジでその呼び方やめろ……」
龍園の恨みがましい声を背中で聞き流しながら。
俺は、血と暴力の匂いが染み付いた屋上を後にし、世界で一番温かくて甘い、彼女の待つ場所へと足早に向かうのだった。