甘く濃密なクリスマスを終えてからというもの。
俺――呉 刃叉羅の冬休みは、まさに『砂糖漬け』と呼ぶに相応しい、極上の平穏と幸福に満ちたものだった。
クリスマス以降も、俺とひよりの逢瀬は途切れることがなかった。
年越しの瞬間を俺の部屋で一緒に迎え、元日には二人でマフラーに顔を埋めながら施設内にある神社へ初詣に出かけた。おみくじで「大吉」を引いてはしゃぐひよりの笑顔は、どんなご利益よりも確実に俺の人生を豊かにしてくれた。
寒い日は俺の部屋で毛布に包まりながら一日中映画や読書を楽しみ、時にはキッチンに並んで温かい鍋料理を一緒に作ったりもした。
クリスマス・イブの夜に『一線』を越えてからというもの、俺たち二人の間にある心の距離は完全にゼロになり、触れ合うこと、互いの温もりを感じることが、息をするのと同じくらい自然なことになっていたのだ。
暗殺者として血と硝煙の匂いしか知らなかった俺の過去など、もはや前世の記憶のように遠く霞んでいる。
ただひたすらに、愛しい少女と愛を囁き合い、イチャイチャと甘い時間を貪り尽くす。
そんな、夢のような冬休みだった。
そして、年が明け、一月。
いよいよ、三学期の始業式の日がやってきた。
「……ふふっ。今日からまた、学校ですね、刃叉羅くん」
「ああ。まあ、授業は面倒くさいが、こうしてひよりと一緒に登校できるのは悪くないな」
キリリと冷え込んだ冬の朝。
俺たちは、学生寮から学校へ続く遊歩道を、しっかりと手を繋いで歩いていた。
俺のコートのポケットの中で、ひよりの小さな手を包み込む。彼女の手は少し冷たかったが、俺の体温で少しずつ温まっていくのを感じるのが心地よかった。
「あ、あの二人……また手繋いでるよ」
「Dクラスの呉と、Cクラスの椎名さんだよね? マジで付き合ってるんだ……」
周囲を歩く他の生徒たちから、好奇と嫉妬の入り混じった視線やヒソヒソ声が向けられる。
だが、今の俺たちにとって、そんな外野の雑音は、木枯らしの音以下の価値しかない。
「みんな、見てますね……」
ひよりが少しだけ恥ずかしそうに頬を赤らめ、俺の腕にキュッと身を寄せてくる。
「見せつけてやればいいさ。俺の彼女が世界で一番可愛いってことをな」
俺が堂々と言い放つと、ひよりは「も、もう……刃叉羅くんったら」と照れ笑いを浮かべた。
教室の前で、俺たちは名残惜しく手を離した。
「じゃあ、放課後。いつもの図書室でな」
「はいっ。後ほど、刃叉羅くん」
天使のような笑顔に見送られながら、俺は一年Dクラスの教室へと足を踏み入れた。
三学期の初日。
浮き足立った冬休みボケの空気を一刀両断するように、ホームルームのチャイムと共に、担任の茶柱佐枝が冷ややかな表情で教壇に立った。
「あけましておめでとう、と言いたいところだが。お前たちにのんびりしている暇はないぞ」
茶柱は、手に持った資料を教卓に叩きつけるように置き、クラス全体を見渡した。
その只者ではない空気に、池や山内たちの私語がピタリと止まる。
「これより、三学期最初の『特別試験』……【混合合宿】のルールについて説明する」
茶柱がチョークを手に取り、黒板に概要を書き出し始めた。
【混合合宿・基本ルール】
• 全学年合同で、山奥の林間学校施設にて数日間の合宿を行う。
• 同学年で、男女ごとに『6つの小グループ』を作成する。この際、必ず『複数クラスの生徒』で構成し、責任者を決めること。
• さらに、他学年(2年、3年)の小グループと合流し、全体で『6つの大グループ(男女別)』を形成する。
• 合宿中の集団行動や、最終日に実施されるテストの総合結果により、大グループごとの順位が決定する。
「……詳しいペナルティやポイントの増減については、合宿所に到着してから改めて説明される。だが、これだけは言っておこう」
茶柱は、鋭い視線で生徒たちを射抜いた。
「今回の試験の肝は『他クラス、他学年との連帯』だ。これまでのクラス対抗戦とは違い、昨日までの敵と手を取り合わなければならない。もしグループ内に一人でも和を乱す者や、赤点を取るような落ちこぼれがいれば……グループ全体が、致命的な連帯責任を負うことになると思え」
その言葉に、教室の空気が一気に重く沈み込んだ。
(……なるほどな)
俺は、頬杖をつきながら黒板のルールを眺め、内心でため息をついていた。
(他クラスと組んでのグループ作成、それに他学年との合流か。……コミュニケーション能力と、集団を統率するリーダーシップが問われる試験ってわけだ)
ペーパーシャッフルのような純粋な学力テストなら、俺が満点を取れば済む話だったが、集団行動となると少し面倒だ。
(まあ、俺はいつも通り、事なかれ主義を貫くだけだ。適当なグループに潜り込んで、それなりの貢献をこなす。ひよりとの逢瀬の時間を削ってまで、他クラスの連中と汗を流す気はないからな)
暗殺者である俺にとって、集団行動は最も不向きな分野だ。目立たず、波風を立てず、ただ愛する日常を守る。それが俺の絶対的な方針だった。
茶柱の重苦しいルール説明が終わり、昼休みのチャイムが鳴った時のこと。
俺が席を立ち、購買にでも行こうとしたところへ、一人の女子生徒が力ない足取りで近づいてきた。
「……あ、呉くん」
クラスのギャルグループの一人であり、俺の料理をよく食べてくれる友人、佐藤麻耶だった。
だが、今日の彼女は、いつもの明るい笑顔が完全に消え失せ、今にも泣き出しそうな、ひどく落ち込んだ表情をしていた。
「なんだ、佐藤。ひどい顔してるぞ。……お年玉でも落としたか?」
俺がわざとらしく冗談めかして聞くと、佐藤はフルフルと首を横に振り、ポツリとこぼした。
「……振られちゃった」
「ん?」
「冬休み……クリスマスの日にね。綾小路くんに、告白したんだけど……ダメだった。私じゃ、綾小路くんの特別にはなれないって……」
佐藤は、涙を堪えるようにギュッと唇を噛み締めた。
その視線の先、少し離れた席では、当の綾小路清隆が何食わぬ顔で弁当を広げている。
(……ああ。やっぱり、そうなるよな……)
俺は内心で、深く納得していた。
クリスマスの日、ケヤキモールで綾小路と佐藤、そして平田と軽井沢のWデートを見かけた時から、こうなる結末は予想がついていた。
綾小路の奴は、佐藤の純粋な好意を利用して盤面を動かすことはあっても、彼女を本当の意味で『パートナー』として迎え入れるつもりはなかったのだろう。彼が選んだのは、過去の闇を共有し、絶対に自分を裏切らない忠誠を誓った『軽井沢恵』の方だ。
だが、そんな残酷な裏事情を、純粋に恋に破れたこの女子高生に教える必要はない。
「……そっか。そりゃあ、辛かったな」
俺は、佐藤の肩をポンと軽く叩き、優しい声で慰めた。
「まあ、綾小路の奴はちょっと変わってるっていうか、色々とめんどくさい思考回路してるからな。お前の魅力が分からないなんて、あいつの目が節穴なだけだ」
「呉くん……」
「お前は可愛くて、料理の味も分かるいい女だ。……泣くのは今日までにしておけ。高校生活はまだ長いんだ、もっとお前のことを第一に考えてくれる、いい奴にいつか必ず出会えるさ」
俺が真っ直ぐに目を見てそう告げると、佐藤は袖で乱暴に目を拭い、少しだけ赤くなった鼻をすする。
「……うんっ。ありがとう、呉くん。なんか、ちょっと元気出たかも」
「おう。気晴らしに、今度また勉強会の時にでも、美味いデザート作ってきてやるよ」
「やった! 絶対だからね!」
佐藤が少しだけ笑顔を取り戻し、自分のグループの元へと戻っていくのを見送りながら。
俺は、チラリと綾小路の方へ視線を向けた。
(……罪作りな男だぜ。ま、お前にはお前の考えがあるんだろうがな)
俺は小さく息を吐き、自分の平穏な昼休みへと戻っていった。
一方、その日の放課後。
一年Cクラスの教室では、別の意味で重要な『転機』が訪れようとしていた。
ホームルームが終わり、生徒たちが次々と教室を出て行く中。
読書好きの銀髪の少女、椎名ひよりがカバンを持ち上げ、図書室へと向かおうとした時だった。
「――待ちやがれ、椎名」
教室の後方から、低く、しかし力強い声が彼女を呼び止めた。
声の主は、Cクラスのリーダー、龍園翔だった。
「……龍園くん。何か御用ですか?」
ひよりは、振り返り、不思議そうに首を傾げた。
以前の龍園なら、恐怖と暴力でクラスを支配しており、ひよりのような大人しい生徒に自ら声をかけることなど稀だった。
だが、今の龍園は違う。
二学期の終盤、屋上での綾小路清隆との死闘を経て、圧倒的な敗北を味わった男。
彼は一度心が折れかけたものの、そこから這い上がり、ただの独裁者から、真の意味でクラスを統率する『王』へと変貌を遂げつつあった。
「……お前に、頼みがある」
龍園は、ポケットに両手を突っ込んだまま、ひよりの正面へと歩み寄り、真っ直ぐに彼女の目を見据えた。
「この先、俺一人の『暴力』と『勘』だけじゃ……あの綾小路や、Aクラスの坂柳、それにDクラスのあの『化け物』には絶対に勝てねえ局面が必ず来る」
龍園は、自らの限界を、屈辱を噛み殺しながらもはっきりと口にした。
「だが、俺は勝つ。どんな手を使ってでも、あいつらを盤面から引きずり下ろす。……そのためには、お前のその『頭脳』が必要になる局面があるだろう」
龍園は、ひよりの高い知性と、物事を俯瞰して見る冷静な観察眼を高く評価していた。
「椎名。俺の『参謀』として、俺に知恵を貸せ。……俺たちCクラスが上に這い上がるために」
それは、命令でも脅迫でもない。
龍園翔という男からの、純粋な『勧誘』であり『頼み』だった。
ひよりは、目を丸くして龍園を見つめ返した。
彼女のポケットの中で、端末が小さく震える。おそらく、図書室で待っている刃叉羅からのメッセージだろう。
ひよりは、コートのポケットに手を入れたまま、素早く画面を見ずに指先だけで『少し遅れます。先に図書室で待っていてくださいね』と返信を打ち込んだ。
そして、再び龍園へと視線を戻す。
(……龍園くんが、私に……)
ひよりの胸の奥で、小さな、けれど確かな『決意』の炎が灯った。
ひよりはこれまで、この血みどろのクラス間闘争において、常に安全な『蚊帳の外』にいた。
それは、彼女自身がクラスの争いに興味がないということもあったが、何より、最愛の彼氏である呉刃叉羅が、その圧倒的な力で彼女に一切の火の粉が降りかからないように、守り続けてくれていたからだ。
(刃叉羅くんは、いつも私を守ってくれます。……でも、私は、ただ守られているだけの弱いお姫様でいたくありません)
自分のクラスが苦境に立たされている時。
自分もまた、戦う力を持っているのなら、クラスメイトのためにそれを使いたい。
そして何より……自分自身の足で立ち、強く賢くあれることが、刃叉羅の隣を歩く彼女としての『誇り』でもあった。
「……分かりました、龍園くん」
ひよりは、天使のような微笑みを浮かべたまま、しかしその瞳の奥には、確かな『参謀』としての鋭い光を宿して頷いた。
「私でよければ、微力ながら知恵を貸させていただきます。……Cクラスの、勝利のために」
「……ククッ。助かるぜ」
龍園が、満足げに凶悪な笑みを浮かべる。
「龍園くん。……早速ですが、私から一つ、提案があります」
ひよりが、不意に声を潜め、人差し指を口元に当てて、極めて魅力的な、それでいて悪魔的な微笑みを浮かべた。
「提案、だと?」
「はい。……今後、もし私たちCクラス全体で協力して、プライベートポイントを『2000万ポイント』貯めることができたら」
ひよりは、この学校に存在する、とある『絶対的なルール』を口にした。
「そのポイントを使って……刃叉羅くんを、私たちの『Cクラス』に勧誘しませんか?」
「――――!!」
その言葉を聞いた瞬間。
龍園の背筋に、ゾクッという強烈な悪寒と、同時に、身震いするほどの『歓喜』が走り抜けた。
2000万プライベートポイント。
それは、生徒個人の権限で『好きなクラスへ移動できる』という、この学校の究極の権利。
「……クククッ。なるほどな」
龍園は、腹の底から湧き上がる笑いを噛み殺しながら、目の前の銀髪の少女を見直した。
(呉 刃叉羅。あいつは今、Dクラスに所属してはいるが、基本的には事なかれ主義の『傍観者』だ。退学にならないよう、ルールの範囲内でそれなりの貢献をしているに留まっている)
だが、もし。
その呉 刃叉羅が、最愛の彼女である『椎名ひより』のいるCクラスに籍を移したとしたら?
(あいつの行動原理の全ては、この椎名ひよりにある。もしあいつがCクラスになれば……椎名を勝たせるために、あの『バケモノ』が、ルールの範囲内で本気で盤面に介入してくる可能性がある……っ!)
異常な観察眼。圧倒的な暴力。底知れぬ暗殺者のスキル。
それら全てを持つジョーカーが、自分たちのクラスの、最大の手札になる。
「……クハハハッ! 恐ろしい女だぜ、お前は。あの化け物の手綱を、完全に握り切ってやがる」
龍園は、ひよりのその大胆かつ凶悪な『盤面操作』の提案に、心底感服したように天を仰いだ。
「悪くねえ。2000万ポイントを貯めるのは並大抵の苦労じゃねえが……その価値は十二分にある。……頭の片隅に、しっかりと置いておくぜ」
「ふふっ。よろしくお願いしますね、龍園くん」
ひよりは、上品に一礼すると、今度こそ教室を後にし、足早に廊下を歩き出した。
愛する彼に、少しでも早く会うために。
特別棟、図書室。
暖房の効いた静かな空間で、俺は窓際の特等席に座り、ひよりが来るのを待ちながら、適当な文庫本のページをめくっていた。
先ほどの『少し遅れます』というメッセージから、すでに十数分が経過している。
(……遅いな。まあ、日直の仕事か何かだろうが)
俺が本から視線を外し、図書室の入り口の方へ目を向けた、その時。
「――お待たせしてしまって、ごめんなさい! 刃叉羅くん」
少しだけ息を切らし、頬をピンク色に染めたひよりが、小走りで俺のテーブルへとやってきた。
「おう、お疲れ。……急がなくても、俺はいつまででも待ってるのに」
俺は立ち上がり、彼女が椅子に座るのを手伝った。
「ふふっ、ありがとうございます。……でも、少しでも早く刃叉羅くんのお顔が見たくて」
「っ……! お前なぁ、そういうことサラッと言うの反則だぞ……」
俺は、危うく図書室で彼女を抱きしめそうになるのを必死に堪え、席に座り直した。
「ホームルーム、長引いたのか? 龍園の奴がまた何か面倒なことでも言ってたのか?」
俺が何気なく尋ねると。
ひよりは、持ってきた本をテーブルに置きながら、フワッと、いつも通りの天使のような笑顔を浮かべた。
「いえ。……少しだけ、クラスのみんなと『今後のお勉強(作戦)』についてお話ししていただけですよ」
その瞳の奥に、Cクラスの『参謀』としての、強く、賢い決意の光が宿っていることに、俺の暗殺者としての観察眼は、もちろん気づいていた。
(……ん? なんだか、今日のひよりはいつもより少し……キリッとしてるというか、芯が強くなったような気がするな)
だが。
「そうか。お前が無理してないなら、それでいいさ。もし龍園が理不尽なこと言ってきたら、いつでも俺に言えよ? すぐに懲らしめに行ってやるからな」
「も、もうっ、刃叉羅くんはすぐに物騒なことを言うんですから。大丈夫ですよ」
俺の脳内スーパーコンピューターは、そのひよりの僅かな変化を、『ひよりが今日も最高に可愛くて凛々しい』という、極めて個人的で甘ったるい結論へと即座に変換してしまっていた。
まさか、彼女が俺をCクラスに引き抜くための『2000万ポイント計画』を龍園と企てているなどとは、夢にも思わずに。
「さて、今日はどの本から読もうか」
「はいっ。冬休みの間に読んでいた本の、続きからですね」
窓の外では、冷たい冬の風が木々を揺らしている。
来るべき『混合合宿』という新たな波乱の気配が、学校全体を包み込み始めている。
だが、この図書室の片隅、俺とひよりのいるテーブルだけは、一切のノイズを遮断した、完全なる平穏と幸福の聖域だった。
暗殺者の少年は、自らの恋人が秘めた『女王』としての才覚に気づかぬまま。
ただ愛しい少女の隣で、インクの香りと彼女の甘い体温に包まれながら、三学期最初の穏やかな放課後を、心ゆくまで満喫し続けるのだった。