三学期が始まり、高度育成高等学校は新たな特別試験『混合合宿』の準備期間へと突入していた。
学年を越え、さらにクラスという枠組みすらも越えたグループ作り。
学校側から提示されたルールは、生徒たちの間にこれまでにない混乱と疑心暗鬼を生み出していた。
他クラスと協力しなければならないという前提は、これまで敵対してきた各クラスの間に奇妙な緊張感をもたらしている。
一月下旬。
俺たち一年生を乗せた大型バスは、雪化粧を施された険しい山道を、合宿所である林間学校施設に向けてひた走っていた。
「……さて。目的地に到着する前に、今回の混合合宿における『生活のルール』について補足しておく」
揺れる車内。一番前の座席に座っていた担任の茶柱佐枝が、マイクを片手に立ち上がり、生徒たちに向かって冷ややかな声で説明を始めた。
「お前たちがこれから一週間を過ごす施設は、非常に巨大なものだ。風呂の時間はグループごとに厳密に分けられており、消灯時間も徹底されている。……そして、何より重要なのは『男女の隔離』だ」
茶柱の口から発せられたその言葉に、俺は嫌な予感を覚えて眉をひそめた。
「合宿中、男子生徒と女子生徒は、完全に別の宿泊棟を使用することになる。授業も、入浴も、自由時間も、全て男女別々で行われる。……生活エリアの境界を越えることは厳重に禁止されており、違反した者は即座に退学を含む重いペナルティが課されると思え」
「ええーっ!?」
「マジかよ! じゃあ合宿中、女子と全然会えないってことかよ!」
池寛治や山内春樹といった男子生徒たちから、絶望の悲鳴が上がる。
俺の心臓も、その時、ドクンと嫌な音を立てた。
(……おい、待て。男女隔離? 授業も自由時間も別々?)
「静かにしろ」
茶柱が冷たく一喝する。
「ただし、全く顔を合わせないわけではない。唯一、夜の18時から19時までの『夕食の時間』。この1時間だけは、大食堂にて男女合同での食事が許可されている。……男子が女子と接触できるのは、一日の中でこの『1時間のみ』だ」
「――――」
その瞬間。
俺の脳内の処理領域が、完全にフリーズした。
(いち、じかん……?)
朝起きて、ひよりの顔が見られない。
昼休みに、ひよりと図書室で本を読めない。
放課後に、ひよりとカフェで甘い時間を過ごせない。
一日のうち、たったの一時間……それも、他の生徒たちが大勢いる騒がしい食堂でしか、彼女に会うことが許されないだと?
「……嘘だろ」
俺は、窓際の席で、ゆっくりと両手で顔を覆った。
暗殺者として、実家で一ヶ月間真っ暗な地下室に閉じ込められる修練も、毒蛇がうようよいるジャングルでサバイバルする訓練も耐え抜いてきた。
そんな俺の強靭な精神力が、今、音を立てて崩壊していくのを感じていた。
「おい、呉。……どうしたんだ」
隣の席に座っていた綾小路清隆が、俺の異変に気づき、怪訝そうな顔で声をかけてきた。
彼の目には、今の俺がどう映っているのだろうか。
「……終わった」
俺は、指の隙間から、焦点の合わない死んだ魚のような目を綾小路に向けた。
「俺の、平穏な高校生活が……俺の、心のオアシスが……完全に、絶たれた……っ」
「……」
綾小路は、俺の言葉の意味を瞬時に理解したらしく、呆れたように小さくため息をついた。
「お前、本当にそれだけが生きがいなんだな。……だが、ルールなら仕方ないだろう。一日一時間会えるだけでもマシだと思うしかない」
「お前に何が分かるんだ!!」
俺は、声を出さずに心の中で絶叫した。
クリスマスイブの夜に一線を越えてから、俺とひよりの距離はさらに密接になり、文字通り『片時も離れたくない』という重度の依存症(俺が)に陥っているのだ。
それが、いきなり一週間の強制隔離。これはもう、精神的拷問以外の何物でもない。
「ああっ……ひより……ひより成分が足りない……。俺は、この合宿を生き延びられる気がしない……」
俺は、座席の背もたれに完全に力なく寄りかかり、魂が口から抜け出たような『放心状態』へと陥った。
その後、茶柱が合宿のカリキュラムや、最終日のテストの内容について何か重要なことを説明していたようだが、俺の耳には一切入ってこなかった。
俺の脳内は、「どうすれば監視の目を潜り抜けて女子棟に侵入できるか」という、退学(および犯罪)スレスレの暗殺ルートの構築で完全に埋め尽くされていたのだ。
それから数時間後。
バスは、雪深い山奥に建設された、巨大な林間学校施設へと到着した。
「よし、荷物を持って順番に降りろ。外は滑るから気をつけろよ」
茶柱の指示に従い、生徒たちがぞろぞろとバスを降りていく。
冷たい冬の山の空気が、肺を刺す。
だが、俺はバスから降りた瞬間、冷気など全く気にする様子もなく、周囲を猛烈な勢いで見渡した。
前方の広場には、すでに他クラスのバスも到着しており、生徒たちがこれから本格的なグループ決めの話し合いを始めようと、各所で集まりかけていた。
そして、少し離れた場所には……Cクラスの女子生徒たちが固まっているのが見えた。
「――――いた」
俺の視力は、その集団の中にいる、ひと際輝く銀色の髪の天使を、一瞬でロックオンした。
「おい、呉。これからグループ決めを……」
綾小路が俺を呼び止めようとするが、遅い。
「悪い、先行っててくれ!!」
俺は、手荷物のボストンバッグを肩に担ぎ直すと、暗殺者の脚力をフル稼働させ、雪が積もる広場を一直線に駆け抜けた。
「ひよりぃぃぃぃっ!!」
「えっ……? あ、刃叉羅くんっ!?」
Cクラスの女子の輪の中にいたひよりが、俺の姿に気づき、パァッと花が咲くような笑顔を向けてくれた。
俺は、周囲のCクラス女子たちの視線など一切気にせず、ひよりの目の前に滑り込んだ。
「刃叉羅くん、どうしたんですか? そんなに急いで……」
「ひより……っ! 会いたかった……!!」
俺は、本当なら今すぐ彼女を力強く抱きしめ、その柔らかな唇を奪いたい衝動に駆られていた。
だが、ここは教師の目もある広場のド真ん中だ。さっき茶柱が言っていた「男女の接触禁止」のルールがいつから適用されるのか分からない以上、初日から退学リスクを背負うわけにはいかない。
俺は、必死に理性を総動員して抱擁を我慢し、代わりに彼女の両手を、自分の両手でギュッと力強く包み込んだ。
「刃叉羅くん……?」
ひよりが、少し驚いたように目を瞬かせる。
「聞いたか、あの絶望的なルールを。……夕食の一時間以外、男女は完全に隔離されるらしい。そんなの、俺に対する死刑宣告と同じだ……っ」
俺が、この世の終わりのような顔で訴えかけると、ひよりは一瞬きょとんとした後、クスクスと可愛らしく笑い声をこぼした。
「ふふっ。刃叉羅くん、大げさですよ」
「大げさなもんか。俺は本気で、一日の大半をお前の顔を見ずに過ごさなきゃいけない苦痛に震えてるんだぞ」
俺が彼女の小さな手を揉み込みながら『ひより成分』を急速チャージしていると、ひよりもまた、俺の手を優しく握り返してくれた。
「私も、刃叉羅くんとずっと一緒にいられないのは寂しいです」
ひよりが、上目遣いで、少しだけ頬を赤く染めながら囁く。
「でも、お夕食の時間は必ず会えますよね? だから、それ以外の時間は……刃叉羅くんがお勉強や訓練を頑張っている姿を想像して、私も頑張ります。……離れていても、心はずっと一緒にいますから」
「――――――――ッッッ!!!!」
(あ、あああああああ……っ!! 好き!! 俺の彼女、マジで世界一可愛い!! 尊すぎて消滅しそう!!)
俺の心臓に、彼女の純度100パーセントの愛情と健気さが、クリティカルヒットした。
先ほどまでの絶望が嘘のように、全身の細胞に無限のエネルギーが満ち溢れていくのを感じる。
「……分かった。ひよりがそう言うなら、俺も耐えるよ。……でも、夕食の時は、絶対に俺の隣の席に座ってくれよな」
「はいっ。約束です、刃叉羅くん」
俺たちが、周囲の生徒たちの呆れ混じりの視線を完全に無視して、二人だけの甘い世界に浸っていると。
「……あー、ごめんね。邪魔して悪いんだけど」
背後から、極めて申し訳なさそうな、苦笑いを含んだ声がかけられた。
振り返ると、そこには一年Dクラスのオカンにして最高のバランサー、平田洋介が立っていた。
「平田か。なんだよ、いいところなのに」
俺が不満げに言うと、平田は困ったように眉を下げた。
「そろそろ、本格的なグループ決めが始まるんだ。それで、呉くんに相談なんだけど……幸村くんのグループに入ってもらってもいいかな?」
平田の話によれば、大半の生徒はすでに派閥を作り、4つの大きなグループがほぼ完成しつつあるという。
残されたのは、どの派閥にも属さない、あるいは属せなかった『余り物』の生徒たち。彼らを集めて2つのグループを作らなければならない状況で、幸村がその一つをまとめる責任者になる予定らしい。
「……なるほど。要するに、余り物ってことだな」
俺は小さく息を吐いた。
「じゃあな、ひより。また夜、食堂で」
「はい。お気をつけて、刃叉羅くん」
天使の笑顔に見送られ、俺は平田と共に、男子生徒たちが集まるエリアへと歩き出した。
だが、俺の足取りは、先ほどの『ひよりチャージ』にもかかわらず、どこか重く、そして死に絶えたようだった。
「……なぁ、平田」
「ん? どうしたの、呉くん」
俺は、雪道を歩きながら、完全に光を失った瞳で平田に告げた。
「俺はもう、この試験……一ミリも力を出せる気がしない」
「え?」
「夕食の時間までひよりに会えないなんていう生き地獄の中で、俺のモチベーションはすでにマイナスを突破している。……悪いが、この合宿のグループ運営とか、他クラスとの連携とか、俺には一切期待しないでくれ。……全て、お前と幸村に任せる」
俺の、あまりにも堂々たる『無気力宣言』。
それを聞いた平田は、一瞬呆気にとられたような顔をしたが、やがて「あはは……」と、完全に諦めたような乾いた笑いをこぼした。
「うん、分かったよ。呉くんがそういうモチベーションの時は、下手に口出ししない方がいいって、学んだからね。……退学にならない最低限の点数だけは、取ってくれるんでしょ?」
「ああ。赤点は回避する。それ以上はやらん」
「それなら十分だよ。あとは僕と幸村くんで何とかするから、呉くんはゆっくりしていて」
本当に、平田という男は出来た人間だ。俺が女なら惚れているかもしれない(絶対にないが)。
平田に連れられて、俺が自分たちの所属する『余り物グループ』の集合場所へと到着すると、そこには、予想を遥かに超える、最悪にカオスでピリついた空気が流れていた。
俺が所属することになった小グループのメンバーは、以下の通りだ。
【Aクラス】
戸塚 弥彦、橋本 正義
【Bクラス】
墨田 誠、時任 克己、森山
【Cクラス】
石崎 大地、山田 アルベルト
【Dクラス】
幸村 輝彦、高円寺 六助、綾小路 清隆、俺(呉 刃叉羅)
「……遅いぞ、呉。他のグループはもう編成を終えようとしているんだ」
グループのまとめ役を押し付けられた幸村輝彦が、すでに神経をすり減らしたような顔で俺を睨みつけてきた。
「悪い悪い。ちょっと忘れ物を取りに行ってただけだ」
俺が適当に誤魔化して列の端に加わると、グループのメンバーたちの視線が一斉に俺に向けられた。
Aクラスの橋本正義は、面白そうなものを観察するような目で。
そして、Cクラスの石崎とアルベルトは。
「…………」
彼らは俺の姿を認めた瞬間、そして少し離れた場所に立つ綾小路清隆の姿を確認した瞬間、露骨に顔を強張らせ、極度の『警戒』の目を向けてきた。
屋上での一件。
アルベルトは綾小路の圧倒的な無感情の暴力に沈められ、石崎もまた瞬殺された。そして、その一部始終を上から見下ろし、圧倒的な殺気で龍園すらも黙らせた俺。
彼らにとって、このDクラスの二人は、絶対に怒らせてはならない『禁忌の存在』だった。
石崎は、俺と目が合うと、不自然に視線を逸らし、アルベルトの背中に隠れるようにして距離を取った。
怯えて泣き叫ぶわけではないが、明らかに「関わりたくない」というオーラを全身から発している。
「ふふっ。ようやく全員揃ったようだねぇ」
その奇妙な緊張感を、全く別の意味で破壊する声が響いた。
手鏡で自分の髪型をチェックしていた、高円寺六助だ。
「だが、私はこのようなむさ苦しい男たちとの合宿など、私の美しい時間を浪費するだけで一ミリの価値も感じない。……君たちで適当にやってくれたまえ。私は私のペースで過ごさせてもらうよ」
高円寺はそう言い放つと、グループの輪からスッと抜け出し、一人で明後日の方向へと歩き出してしまった。
「なっ……! お、おい高円寺! どこへ行く気だ! 集団行動を乱すな!」
幸村が慌てて声を上げるが、高円寺がそんな言葉に耳を貸すはずもない。
「……あーあ。こりゃあ、前途多難だな」
Aクラスの橋本が、呆れたように肩をすくめる。
Bクラスの時任や墨田たちは、高円寺のあまりのマイペースぶりと、このまとまりのない余り物の集落を見て、怒るというよりも完全に困惑し、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「……えっと、とりあえず、彼には後で声をかけるとして……自己紹介とか、した方がいいのかな?」
時任が、どうにか場を繋ごうと気まずそうに提案する。
警戒心を剥き出しにするCクラス。
好き勝手に行動する高円寺。
空気と同化して存在感を消している綾小路。
困惑して苦笑いするBクラスと、それを面白がるAクラス。
そして、完全にやる気を失い、「早く夕食の時間にならないかな」と空を見上げている俺。
「お、お前ら……少しは協力する気を持て……っ!」
幸村の悲痛な叫び声が、雪山の冷たい空気に虚しく吸い込まれていく。
男女隔離という最悪のルールによって、俺のモチベーションは完全に底を突き。
個性とトラウマと爆弾が入り混じる、最悪の『余り物グループ』の波乱に満ちた混合合宿が、今、絶望と共に幕を開けたのだった。