特別試験『混合合宿』の二日目。
時刻は早朝の六時。外はまだ薄暗く、吐く息が真っ白に染まるほどの冷気が合宿所を包み込んでいる。
「……ふぁぁ」
俺――呉 刃叉羅は、大食堂の厨房で、魂の抜け出たような大あくびを噛み殺していた。
昨夜のババ抜きを経て、今日から学年ごとに朝食当番を回すことになった。そして、栄えある初日の当番は、俺たち一年生のグループだった。
「おい、高円寺! お前もさっさと手伝え! なんで一人だけ椅子に座って優雅に紅茶なんて飲んでるんだ!」
厨房に、グループのまとめ役である幸村の、朝から胃が痛くなりそうな怒声が響き渡った。
「ふっ。私が朝から他人のために料理をするなど、私の美学に反するからね。君たち凡人が私の分まで労働する、それが自然の摂理というものだよ」
高円寺六助は、どこから持ってきたのか分からないティーカップを傾け、一切の悪びれもなく言い放った。
「てめぇっ、いい加減にしろよ! みんな眠い中やってんだぞ!」
Cクラスの石崎も、包丁を握りながらブチギレている。
「おい、石崎。怒るのは勝手だが、包丁を持ったまま振り回すな。危ないだろ」
同じく当番として野菜を洗っていた綾小路清隆が、淡々とした声で注意する。
「はぁ。清隆の言う通りだ、石崎。高円寺の相手をしていると時間がなくなる。放っておいて俺たちでやるしかない」
啓誠が、ギリッと歯を食いしばりながら作業に戻った。
一方の俺はといえば。
「……」
完全に無の境地に至っていた。
男女隔離という絶望のルールにより、俺の動力源である『ひより成分』は著しく枯渇している。俺は今、ただ呼吸を繰り返し、夕食の時間までのカウントダウンを刻むだけの機械と化していた。
俺は、焦点の合わない死んだ魚のような目を虚空に向けながらも、手元のまな板の上で、タタタタタッ! と機械のような正確さとスピードで、キャベツの千切りを量産していた。
「Oh……エクセレント」
その俺の隣で、Cクラスの巨漢・アルベルトが、俺の異常な包丁さばきを見て感嘆の声を漏らす。
「"Albert, pass me the salt and pepper, please. And check the soup stock." (アルベルト、塩と胡椒を取ってくれ。あと、スープの出汁を見ておいて)」
俺が、無表情のまま流暢な英語で指示を出すと。
「"Yes, Boss. Right away." (イエス、ボス。すぐに)」
アルベルトもまた、極めて自然な英語で返し、的確に調味料を渡してくれた。
「"Thanks. Your class's dictator... Ryuen is working you hard, huh?" (サンキュー。お前のとこの独裁者……龍園も、人使いが荒いだろう?)」
「"Haha... He has his own way of doing things. But he's strong." (ハハ……彼には彼のやり方がある。だが、彼は強い)」
そんな風に、俺とアルベルトは、周囲がピリついている中で、なぜか平和なイングリッシュ・クッキングタイムを展開していた。
(アルベルトは、屋上の一件以来俺にビビっているかと思ったが……案外、普通にコミュニケーションが取れるらしい。言葉の壁がないのも楽でいい)
そうして、俺たちの作った朝食は、思いのほか高い評価を受け、無事に当番の責務を果たすことができた。
その後も、午前から午後にかけての座学や体育のカリキュラムが続いたが、俺は初日と同様、完全に『省エネモード』で適当に流し続けた。幸村は俺の無気力っぷりに文句を言いたげだったが、綾小路が「放っておけ」とフォローしてくれたおかげで、何とかやり過ごすことができた。
そして、待ちに待った夜の十八時。
一日の中で唯一、隔離の檻が解き放たれる、奇跡の一時間。
「ひよりぃぃぃぃっ!」
俺は大食堂に足を踏み入れた瞬間、全速力で愛しの天使の元へと向かい、隣の席を確保した。
「ふふっ、刃叉羅くん。お疲れ様です。今日のお顔も、少しお疲れ気味ですね」
ひよりが、クスクスと笑いながら俺を出迎えてくれる。
その笑顔を見た瞬間、俺の身体の奥底から枯渇していたエネルギーが爆発的に湧き上がり、全身の細胞が歓喜の歌を歌い始めた。
「……ひよりの顔を見たら、全部吹き飛んだよ。お前は本当に俺の特効薬だ」
俺が彼女の小さな手を握り締めながら言うと、ひよりは頬を赤く染め、嬉しそうに微笑んでくれた。
「刃叉羅くん、聞いてください。私……今日、新しいお友達ができたんです」
食事を進めながら、ひよりが少し弾んだ声で報告してくれた。
「お友達? Cクラスの女子以外でか?」
「はいっ。Dクラスの、王美雨(みーちゃん)さんです。今日、同じグループの活動で少しお話しする機会があって……彼女も読書が好きみたいで、すっかり意気投合してしまったんです」
ひよりが、本当に嬉しそうに、みーちゃんとの会話の内容を語ってくれる。
俺は、その話を聞きながら、心底ホクホクとした温かい気持ちになっていた。
これまで、ひよりの交友関係はあまり広い方ではなかった。
だが、こうして俺がいない場所で、彼女が自分の力で新しい繋がりを作り、世界を広げている。それは、彼女の確かな成長であり、彼氏としてこれ以上なく喜ばしいことだった。
「そうか、そりゃあ良かったな。みーちゃんは優しくていい子だし、ひよりとも絶対に気が合うと思ってたんだ」
「はいっ! 今度、学校に戻ったら、一緒に図書室でおすすめの本を紹介し合う約束もしたんですよ」
「ははっ、俺の席が奪われないように、俺ももっと本を読んでおかないとな」
そんな風に、愛する彼女との甘く穏やかな時間は、瞬く間に過ぎていく。
『――間もなく、夕食の時間が終了します。生徒の皆さんは、速やかに男女別の宿泊棟へ戻ってください』
無情なアナウンスが響き、俺は再び、現世から地獄へと引き戻されるような絶望感を味わった。
「じゃあ、また明日。刃叉羅くん」
「ああ……。おやすみ、ひより」
手を振りながら女子棟へと向かうひよりの背中を見送り、俺は深く、重いため息を吐いた。
「……あーあ。また明日の夕食まで、長い長い地獄の始まりだぜ」
俺が肩を落として呟くと、隣から「相変わらずだな」という綾小路の平坦な声が聞こえた。
「行くぞ、呉。いつまでも食堂にいても、減点されるだけだ」
「わかってるよ……」
俺と綾小路は、男子棟の部屋へと戻るため、少し薄暗くなった合宿所の渡り廊下を歩き出した。
その、帰路の途中のことだった。
俺たちの数メートル前方を、一人の小柄な女子生徒が、杖をつきながらゆっくりと歩いていた。
銀色の髪に、整った顔立ち。Aクラスのリーダー、坂柳有栖だ。
彼女は、生まれつき足が不自由であり、杖なしでは長距離を歩くことができない。
合宿所という不慣れな環境での移動は、彼女にとって通常以上の負担になっているはずだ。
そこへ。
前方から、ふざけ合いながら歩いてきた男子生徒の二人組が、坂柳の横を通り過ぎようとした。
Dクラスの、池寛治と、山内春樹だった。
「あははっ、マジでそれウケるんだけどー!」
「だろぉ? でさー……おっと!」
ドンッ!
前を見ていなかった山内が、すれ違いざまに、坂柳の肩に激しくぶつかった。
「あっ……!」
ただでさえ足元が不安定な坂柳は、その衝撃に耐えきれず、バランスを崩して冷たい床へと転倒してしまった。
カラン、と。彼女の命綱である杖が、床を滑って数メートル先へと転がっていく。
「あ、わりぃわりぃ!」
山内は、自分がぶつかって転ばせた相手がAクラスのリーダーであることに気づき、少しだけ焦ったような顔で、彼女に向かってヘラヘラと手を差し出した。
「大丈夫か、坂柳ちゃん? ほら、手貸してやるよ」
悪気はないのだろう。だが、そこには明確な『下心』と、足の不自由な彼女に対する『無意識の優越感』が透けて見えていた。
転倒した坂柳は、山内の差し出したその手を、見ることすらしなかった。
彼女は、表情を一切変えることなく、自力でゆっくりと身体を起こし、冷ややかな声で短く告げた。
「……結構です」
その拒絶の言葉に、山内は少しバツが悪そうに手を引っ込めた。
「なんだよ、せっかく親切で言ってやってんのにさ。愛想ねえな」
山内はそうぼやくと、池の方を振り返り、ヘラヘラと笑いながら歩き出した。
「なー、池。坂柳ちゃんってさ、顔はめっちゃ可愛いけど、運動神経ゼロっていうか……どんくさいよな!」
「お、おい! 春樹! 」
山内は、転ばせた相手へのまともな謝罪もそこそこに、そんな心ない暴言を吐き捨てながら、男子棟の方へと立ち去っていった。
「――――」
その後ろ姿を見送る、坂柳有栖。
彼女は、床に座り込んだまま、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間。
少し離れた場所から見ていた俺の全身の皮膚が、粟立った。
(……おいおい)
俺は、暗殺者としての本能で、坂柳の目から放たれる『それ』をはっきりと感知していた。
坂柳の瞳。
表面上は静かで、いつものように余裕に満ちているように見える。
だが、その瞳の奥底で渦巻いているのは、山内春樹という存在に対する、絶対的な怒りと、純度100パーセントの『殺意』だった。
(……あのお嬢さん、『暗殺者』みたいな目をしてるな)
肉体的な力ではなく、権力と知略を用いて、標的を社会的に、あるいは精神的に完全に『抹殺』しようとする者の目。
あの山内という愚者は、自分が今、この学校で最も怒らせてはいけない存在の一人の『逆鱗』を、冗談混じりのステップで踏み抜いたことに全く気づいていないのだろう。
「……行くぞ、呉」
綾小路が、静かに歩みを進めた。
俺もそれに続き、転倒したままの坂柳の元へと近づいた。
綾小路は、彼女の数歩先に転がっていた杖を拾い上げ、そして、彼女に向かって静かに右手を差し出した。
「……立てるか?」
無表情で、一切の感情を挟まない、ただの事実確認のような声。
坂柳は、綾小路の顔を見上げると、山内の時とは違い、フッと少しだけ嬉しそうな、柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ。ありがとうございます、綾小路くん」
坂柳は、綾小路の差し出した手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
そして、綾小路から杖を受け取り、ドレスの埃を払うように軽く服を整えた。
「すまんな、お嬢さん」
俺は、ポケットに手を入れたまま、彼女に向かって軽く頭を下げた。
「うちのクラスの馬鹿が、無礼な真似をした。……同じクラスのよしみってわけじゃないが、一応、俺からも謝らせてもらうよ」
俺が言うと、坂柳は俺の方を見て、優雅に微笑んだ。
「お気になさらないでください、呉くん。あのような些事、私は全く気にしておりませんから」
言葉ではそう言っている。
だが、彼女の瞳の奥で燃える『殺意』の炎は、俺と綾小路の目には痛いほどはっきりと映っていた。
(……ああ。あの馬鹿(山内)、近いうちに消されそうだな)
俺は、内心で苦笑した。
坂柳有栖というAクラスの女王が、あの屈辱をそのまま水に流すはずがない。合宿中か、あるいは学校に戻ってからか。彼女の恐るべき知略の刃は、確実に山内の首を刎ねにいくはずだ。
だが。
(……まあ、あいつは普段からうるさいし、あいつが消えてくれた方が、俺の平穏にとってはプラスだ。……どうでもいいか)
俺にとって、山内春樹の運命など、道端の小石がどこへ転がろうが知ったことではない。
あいつのために坂柳の報復を止めてやる義理も、理由も、一ミリも存在しなかった。
「怪我がないなら、良かった。……じゃあ、俺たちはこれで」
「ええ。ごきげんよう、綾小路くん、呉くん」
俺と綾小路は、坂柳に背を向け、再び男子棟へと歩き出した。
隔離の檻の中で進む、混合合宿の二日目。
俺は、ひよりとの温かい時間の余韻に浸りながら。
背後で静かに動き出した、愚者の『死へのカウントダウン』を、完全に放置して傍観を決め込むのだった。