青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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六話

放課後のチャイムが鳴り響いた瞬間、俺は誰よりも早く席を立ち、教室を後にした。

 

背後で「おっ、呉! 今日も早く帰るのか?」「おいおい付き合い悪いぜー!」という池や山内の声が聞こえた気がしたが、華麗にスルーする。

 

今の俺には、あいつらの低俗なノリに付き合っている暇など一秒たりともない。俺の足は、迷うことなく学校の敷地内にある巨大な図書室へと向かっていた。

 

(急げ。俺の『青春』が待っている)

 

廊下を早歩きで進みながら、俺は内心でそう呟いた。

 

午前中の学級崩壊の惨状、そして午後の水泳の授業での馬鹿騒ぎ。一日の大半を動物園のようなDクラスで過ごした俺の精神は、確かな安らぎを求めていた。

 

血生臭い暗殺の世界から抜け出し、普通の高校生としての平穏を味わうためにこの学校に来たというのに、あのクラスにいると逆に精神をすり減らされる気がする。

 

だが、それも放課後までの辛抱だ。

図書室の重厚な扉を静かに押し開けると、そこにはインクと古い紙の匂いが入り混じった、静寂という名の聖域が広がっていた。

 

「……」

 

俺は足音を殺し――いつもの奥の書架へと向かう。

 

そこには、西日を背に受けて文庫本を開く、銀髪の少女の姿があった。

椎名ひより。

 

俺にとっての、この高度育成高等学校における最大の癒しであり、紛れもない『天使』だ。

 

窓から差し込む光が彼女の銀色の髪をキラキラと輝かせ、長い睫毛が伏せられた白い肌に淡い影を落としている。ただ本を読んでいるだけだというのに、その一枚の絵画のような美しさに、俺は思わず見惚れて立ち尽くしてしまった。

 

「……あ、呉さん」

 

俺の視線に気づいたのか、椎名さんが顔を上げ、ふわりと花が咲くような笑顔を見せた。

その瞬間、俺の胸の奥でドクンッと心臓が大きく跳ねる。

 

「待たせたか、椎名さん。今日は早かったんだな」

「いえ、私も今来たところです。今日は……少し、教室が騒がしかったので」

 

椎名さんは少しだけ困ったように微笑み、隣の席を勧めてくれた。

俺は鞄を置き、彼女の隣に腰を下ろす。

 

「奇遇だな。うちのクラスも大概騒がしかったよ。午前中なんて、動物園かと思ったくらいだ」

「ふふっ、動物園ですか。呉さんのクラスは、元気な方が多いんですね」

「元気というか……まあ、問題児の集まりだな。そういえば、今日は体育で水泳があったんだ。こんな時期からプールに入るなんて、珍しい学校だよな」

 

俺がそう話を振ると、椎名さんは「あっ」と小さく声を漏らした。

 

「うちのクラスも、今日水泳の授業がありました。室内プールなので寒くはないですが……やっぱり、少し不思議な感じがしますね」

「椎名さんも泳いだのか?」

「……はい。でも、私、運動はあまり得意ではなくて……。50メートルを泳ぐだけで、息が上がってしまいました。クラスの女の子たちに、少し遅れをとってしまって……」

 

椎名さんは恥ずかしそうに俯き、モジモジと指先を絡ませた。

 

(――――ッッ!!)

 

俺は机の下で、ギュッと拳を握りしめた。

運動が苦手で一生懸命泳ぐ椎名さん……。想像しただけで破壊力が高すぎる。スクール水着姿の彼女が、顔を真っ赤にして息を切らしながらプールサイドに上がる姿。

 

もし俺が同じクラスでその光景を目の当たりにしていたら、脳の血管が何本か切れていたかもしれない。いや、むしろ他の男子の視線から彼女を守るために、プールに致死性の毒を撒き散らしていた可能性すらある。

 

「そ、そうか。まあ、運動なんて得意不得意があるからな。気にすることないさ」

「呉さんは、泳ぐの得意ですか? 見たところ、すごく運動神経が良さそうですが……」

「俺? 俺は……まあ、それなりって感じだよ。今日はクラスで3位だったしな」

 

俺は爽やかに笑って返した。

 

「3位ですか! すごいです。やっぱり呉さんは、頼りになりますね」

「ははっ、大げさだよ」

 

そんな他愛のない会話をヒソヒソ声で交わしながら、俺たちはお互いに持ち寄った本を開いた。

 

静かな図書室。隣からは、椎名さんの微かなシャンプーの香り――数日前にケヤキモールで一緒に選んだ、あのフローラル系の香りが漂ってくる。

本の内容など、今の俺には半分も頭に入ってこなかった。ただ、彼女と肩を並べて同じ空間を共有しているという事実だけで、俺の心は満たされていた。

 

やがて、一時間ほどが経過した頃。

キリの良いところまで読み終えた椎名さんが、小さく息を吐いて本を閉じた。

 

「……呉さん」

「ん、どうした?」

「もし、この後お時間が許せば……少し、場所を変えませんか? 図書室だと、あまり大きな声でお話しできませんし……その」

 

椎名さんは上目遣いで俺を見つめ、ほんのりと頬を染めながら言葉を紡いだ。

 

「ケヤキモールのカフェに、行きたいな……なんて」

(行く!! 絶対に行く!!!!)

 

俺の心の中の『呉 刃叉羅』が、ドラミングをしながら雄叫びを上げた。

 

これは間違いなく、放課後デートの誘いである。一族の長である恵利央爺様が聞いたら、「高校生風情がわしの曾孫をたぶらかしおって!」と血涙を流しながら薙刀を持って襲撃してくるレベルの事案だ。

 

だが、今の俺はただの高校生。この誘いを断る理由など、宇宙のどこを探しても存在しない。

 

「ああ、もちろんいいぞ。ちょうど俺も、少し甘いものが食べたいと思ってたところだ」

「本当ですか? よかったですっ!」

 

俺が快諾すると、椎名さんは嬉しそうに立ち上がり、鞄を手に取った。

俺たちが向かったのは、数日前に櫛田たちとも訪れたカフェ『パレット』とは別の、少し落ち着いた雰囲気のクラシックな喫茶店だった。

 

アンティーク調の家具が並び、店内には静かなクラシック音楽が流れている。客層も上級生や落ち着いた雰囲気の生徒が多く、Dクラスの喧騒とは無縁の空間だ。

窓際の席に案内された俺たちは、それぞれケーキと紅茶のセットを注文した。

俺はアールグレイの紅茶とビターチョコレートのケーキ。椎名さんは、ダージリンティーと、イチゴがたっぷりと乗ったショートケーキだ。

 

「わぁ……美味しそうです」

 

運ばれてきたケーキを見て、椎名さんが目を輝かせる。

小さくフォークで切り分け、一口頬張ると、彼女は幸せそうに頬を緩ませた。

 

「……美味しいっ」

「そりゃよかった。この店、図書室の帰りに見つけて、いつか椎名さんと来たいなって思ってたんだ」

 

俺がコーヒーカップを傾けながらそう言うと、椎名さんは少しだけ驚いたように目を見開き、それから「嬉しいです」とはにかんだ。

紅茶の香りを楽しみながら、俺はふと気になっていたことを口にした。

 

「そういえばさ、椎名さん。クラスの雰囲気はどうだ? 友達は、できたか?」

 

Dクラスはすでにいくつかのグループができているが、椎名さんのいるCクラスはどうなのだろうか。

彼女のような優しくて大人しい子が、いじめられたり孤立したりしていないか。暗殺者としての防衛本能が、彼女の周囲の環境を無意識に探ろうとしていた。

 

俺の質問を聞いた椎名さんは、ケーキをすくうフォークの手を止め、ほんの少しだけ……悲しそうな顔をした。

 

「……クラスで仲良くしている生徒は、いませんね」

 

寂しげな、透き通るような声だった。

 

「Cクラスは……少し、特殊というか。ある一人の生徒がクラス全体をまとめているような状態で、私はあまり、その空気に馴染めなくて。だから、教室ではいつも一人で本を読んでいるんです」

(……なんだと?)

 

俺の瞳の奥で、無意識のうちに『暗殺者』としての冷たい光が明滅した。

Cクラスを牛耳っている奴が誰かは知らないが、俺の天使である椎名さんに寂しい思いをさせているという事実だけで、そいつを始末する理由は十分だ。闇討ちにするか、毒殺にするか、それとも事故に見せかけて……。

いや、ダメだダメだ。俺は普通の高校生だ。物騒な思考を必死に抑え込む。

 

「そうか……。一人でいるのは、寂しくないか?」

「最初は、少し寂しかったです。でも……」

 

椎名さんは顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見つめた。

その瞳には、先ほどの悲しげな色はなく、代わりに温かい光が宿っていた。

 

「でも、こうして図書室に行けば、呉さんがいてくれます。……呉さんと仲良くなれて、一緒にお茶を飲んだり、本のお話をしたりできる。だから今は、少しも寂しくありません。呉さんとお友達になれて、本当に嬉しいです」

 

――――ドガァァァンッッ!!!

 

俺の脳内で、致死量の爆弾が爆発した。

可愛すぎる。なんだこの破壊力は。

「クラスで居場所はないけど、あなたがいるから幸せです」という、この上なく純粋で、健気な言葉。暗殺稼業で鍛え上げられた強靭な精神の壁が、彼女の無自覚な笑顔の前に、紙クズのように粉砕されていく。

悶絶しそうになるのを、超人的な忍耐力でなんとか顔の筋肉を制御して耐え抜く。

 

「……お、俺もだよ。俺も、椎名さんと友達になれて、本当に嬉しいと思ってる」

 

少し声が震えてしまったかもしれないが、なんとか平坦な声で返すことができた。

 

「ありがとうございます、呉さん」

 

椎名さんは嬉しそうに微笑み、再びケーキに手を伸ばした。

その無邪気な姿を見ているだけで、俺の心は浄化されていくようだ。

 

「そういえば、呉さんはどうですか?」

 

ふと、紅茶を一口飲んだ椎名さんが、小首を傾げて聞いてきた。

 

「呉さんは、クラスでお友達はできましたか?」

「俺? 俺は……そうだな」

 

俺はDクラスの面々を思い浮かべた。

隣の席の綾小路清隆、面倒見のいい平田洋介、天使のような笑顔を振りまく櫛田桔梗、おとなしいみーちゃんや井の頭……。

 

「まあ、何人か話すやつはいるよ。前後の席のやつとか、よく話しかけてくれる女子とかな。でも……」

 

俺は苦笑交じりに言葉を続けた。

 

「うちのクラス、とにかく騒がしいやつらが多いんだよ。毎日馬鹿みたいに騒いで、トラブルばかり起こしそうでさ。俺はどっちかっていうと静かに過ごしたい派だから、あんまりクラスの空気に馴染めてる感じじゃないな」

「そうなんですね……。呉さんは、落ち着いて本を読むのがお好きですものね」

「ああ。だから……」

 

俺は、カップをソーサーに置き、椎名さんの目を真っ直ぐに見つめ返した。

この時の俺は、彼女の言葉に浄化されすぎて、思考のストッパーが完全に外れていたのだと思う。だから、心に浮かんだ素直な感情を、なんのフィルターも通さずに口にしてしまったのだ。

 

「俺にとっては、こうして椎名さんと過ごす時間が……1番だよ。この時間がなきゃ、学校生活なんて息が詰まって死んでたかもしれない」

「…………えっ?」

 

椎名さんが、目を丸くして固まった。

フォークを持ったままの動きが止まり、白い頬が、みるみるうちに林檎のように真っ赤に染まっていく。

その反応を見て、俺はようやく自分の発言の『ヤバさ』に気がついた。

 

(……やっべ)

 

俺の顔から、一気に血の気が引いていく。

 

(ちょ、待て。俺、今なんて言った? 『椎名さんと過ごす時間が1番』? それって……もうこんなの、告白みたいなもんじゃん!!!!)

 

俺の心の中の『呉 刃叉羅』が、頭を抱えてのたうち回った。

バカか俺は! 相手はうら若き女子高生だぞ! 出会ってまだ数週間の相手に「君といる時間が一番だよ」なんて、どの口が言ったんだ!

 

これでは完全に、発情した猿(池や山内)と同類ではないか! 嫌われる! 確実にキモがられる!

 

「あ、いや! 今のはそういう深い意味じゃなくて! ただ単に、静かな時間が好きっていうか、図書室の居心地がいいっていうか……! 椎名さんに変な意味で言ったわけじゃ……!!」

 

暗殺の任務で絶体絶命のピンチに陥った時でも、ここまで慌てたことはなかった。

俺は必死に手を振り、しどろもどろになりながら弁解しようとした。

だが。

 

「……ふふっ」

 

俯いていた椎名さんが、不意に小さく笑い声を漏らした。

そして、ゆっくりと顔を上げると、まだ頬を紅く染めながらも、花がほころぶような、この上なく愛らしい笑顔を俺に向けたのだ。

 

「……私も、です」

「え?」

「私も……呉さんと一緒にいるこの時間が、1番です。……誰とお話しするよりも、ずっと、ずっと楽しくて……特別です」

 

俺の言い訳など完全に遮るように、彼女はハッキリと、そう言ってくれた。

恥ずかしそうに視線を泳がせながらも、その言葉には一片の嘘も混じっていないことが、俺には痛いほどに伝わってきた。

 

(――――――――――――ッッッ!!!!!!!)

 

俺の心の中で、ついにファンファーレが鳴り響いた。

狂喜乱舞。有頂天。欣喜雀躍。

ありとあらゆる喜びの四字熟語が脳内を駆け巡り、俺の精神は成層圏を突破して宇宙空間へと飛び立った。

呉一族の歴史において、ここまで完全な幸福感に包まれた暗殺者が果たしていただろうか。

いや、いない。俺が歴史上初の、最高の青春を謳歌している暗殺者だ。

爺様、姉ちゃん。見てるか? 俺、この学校に来て本当に良かったよ……!!

 

「……そ、そう言ってもらえると、すげえ嬉しい」

 

俺は爆発しそうな心臓を必死に抑え込み、なんとか高校生らしい笑顔を作って答えた。

顔が熱い。俺の黒い強膜の目でも、今だけは優しい光を放っている自信があった。

 

「はいっ。……これからも、私と一緒に本を読んでくださいますか?」

「当たり前だ。卒業するまで、いや、卒業してからもずっと、読もう」

 

勢い余ってプロポーズのようなことを言ってしまった気もするが、椎名さんは「ふふっ」と嬉しそうに笑って頷いてくれた。

 

窓の外では、夕陽が沈みかけ、空を鮮やかな茜色に染め上げていた。

喫茶店に流れる静かなクラシック。甘い紅茶の香り。そして、目の前で微笑む銀髪の天使。

 

俺の初めての高校生活は、クラスの崩壊という不穏な影を落としつつも、それを補って余りあるほどの最高に甘く、尊い『青春』の輝きに満ち溢れていた。

この時間だけは、誰にも邪魔させない。

 

この平穏と、彼女の笑顔を守るためなら、俺はなんだってしてやる。

紅茶の最後の一滴を飲み干しながら、暗殺者の少年は、誰にも気づかれないほどの固い決意を胸に秘めるのだった。

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