青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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六十二話

混合合宿という名の、一週間に及んだ強制的な男女隔離期間。

あの生き地獄のような特別試験が終わり、学校に日常が戻ってきてから数週間の時が流れた。

 

季節は一月の終わりを過ぎ、二月の上旬。

高度育成高等学校の敷地内には、冬の厳しい寒さが依然として居座っていた。空から舞い落ちる粉雪が、ケヤキモールの木々を白く染め上げている。

 

だが、どれほど外の気温が下がろうとも、俺――呉 刃叉羅の心と身体は、常に春の陽だまりのような温かさに包まれていた。

 

「……んっ、刃叉羅くん。外、とっても寒いです」

 

「そうだな。ほら、もっとこっちに来い」

 

放課後の帰り道。

俺は、隣を歩く愛しの天使――椎名ひよりを、自分の着ている少し大きめの冬用アウターの中にすっぽりと包み込むようにして引き寄せた。

俺のコートのポケットの中で、俺の大きな手と彼女の小さな手が、隙間なくしっかりと絡み合っている。

 

「ふふっ。刃叉羅くんのコートの中、すごく温かくて安心します」

 

ひよりが、嬉しそうに俺の胸元に頬をすり寄せてくる。

花の蜜のような甘い香りが鼻腔をくすぐり、俺の心臓は致死量の幸福ホルモンを分泌して激しく跳ね回った。

 

「だろ? 俺はひより専用の歩く暖房器具だからな。寒かったら遠慮なく俺から熱を奪ってくれ」

 

「もうっ、刃叉羅くんったら……。でも、ありがとうございます」

 

合宿中、夕食のわずかな時間しか会えなかった反動で、俺たちの距離感は以前にも増して『ゼロ距離』が基本となっていた。

 

休日はもちろん、平日も朝の登校から放課後のデートまで、可能な限り全ての時間を共に過ごしている。クリスマスイブの夜に心と身体を深く重ね合わせた俺たちにとって、もはや互いの存在は、呼吸をするのと同じくらい不可欠なものになっていた。

 

暗殺一族の最高傑作として血と硝煙の中で生きてきた俺が、今や一人の少女の笑顔だけで世界が輝いて見えるただの男子高校生に成り下がっている(あるいは昇華している)。

 

一族の人間が見たら即座に精神鑑定を勧めてくるだろうが、知ったことではない。俺の人生は、ひよりを愛し、ひよりを守るためにあるのだから。

 

だが、俺の完璧で幸福な日常のすぐ外側では。

この高度育成高等学校という箱庭の中で、他者を引きずり下ろすための醜悪な権力闘争と、ドロドロとした人間模様が、絶え間なく蠢き続けていた。

 

 

二月の上旬。

一年Dクラスの教室は、朝からある一つの『噂』で持ちきりになっていた。

 

「ねえ、聞いた!? 平田くんと軽井沢さん、別れたらしいよ!」

 

「嘘でしょ!? クラス公認のラブラブカップルだったのに……!」

 

「なんか、軽井沢さんの方から振ったみたいな噂もあるけど……」

 

クラスの女子生徒たちが、ヒソヒソと、しかし隠しきれない興奮を含んだ声で噂話に花を咲かせている。

 

クラスのリーダー格である平田洋介と、女子のトップである軽井沢恵の破局。

それは、Dクラスの人間関係のパワーバランスを根底から揺るがす大事件だった。

 

俺は自分の席で頬杖をつきながら、その騒ぎをぼんやりと眺めていた。

 

(……まあ、そうなるよな)

 

俺は、全く驚くことなく、内心で一人納得していた。

屋上での龍園との死闘を経て、彼女の心は完全に『綾小路清隆』という絶対的な庇護者へと依存し、忠誠を誓う形へ移行した。

 

当の平田は、別れた後も相変わらずの爽やかな笑顔でクラスメイトたちと接しているし、軽井沢も女子グループの中心として強気に振る舞っている。

 

だが、その視線の先が、時折不自然なほどに『部屋の隅で大人しくしている綾小路』へと向けられていることに、俺の暗殺者としての観察眼はとっくに気づいていた。

 

俺がチラリと綾小路の方を見ると、彼は一切の感情を読み取らせない無表情のまま、俺の視線に気づいて小さく肩をすくめた。

 

そんなDクラスの喧騒が少し落ち着きを見せ始めた、昼休みのことだった。

 

ガラッ、と。

教室の後ろのドアが開き、Dクラスの空気が一瞬にして凍りついた。

 

そこに立っていたのは、このクラスの生徒ではない。

銀色の髪を美しく切り揃え、小柄な身体を杖で支えるAクラスのリーダー・坂柳有栖と、その後ろで怠そうに腕を組む護衛の神室真澄だった。

 

「……なんだ、坂柳? Dクラスに何の用だ」

 

クラスを代表して、幸村が警戒心を剥き出しにして声をかける。

だが、坂柳は幸村の言葉を完全に無視し、教室内をゆっくりと見渡した。

そして、その視線が、ある一人の男子生徒のところでピタリと止まった。

 

「ふふっ。ごきげんよう、一年Dクラスの皆様」

 

坂柳は、優雅な笑みを浮かべ、コツ、コツと杖を鳴らしながら、その男子生徒の席へと歩み寄っていった。

 

「――山内くん。少し、よろしいかしら?」

 

「…………えっ?」

 

名を呼ばれた山内春樹は、信じられないものを見るような目で坂柳を見上げ、そして自分を指差した。

 

「お、俺? 坂柳ちゃんが、俺に用……?」

 

「ええ。以前から、山内くんのことが少し気になっておりまして……。もしよろしければ、山内くんとお話がしてみたくて、伺った次第です」

 

坂柳は、小首を傾げ、まるで恋する乙女のような上目遣いで、山内に向かって甘く微笑みかけた。

 

「――――ッ!!」

 

山内の顔が、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まり上がった。

Aクラスのトップであり、学校中を探してもトップクラスの美貌を誇る坂柳有栖からの、突然のロックオン。

山内のような非モテの勘違い男にとって、これほどの劇薬はない。

 

「お、おうっ! もちろんだぜ坂柳ちゃん! 俺でいいなら、いくらでも話聞くよ!」

 

山内は、慌てて髪型を整え、だらしない鼻の下を限界まで伸ばして立ち上がった。

 

だが、周囲のクラスメイトたちは、そんな山内とは対照的に、完全にドン引きしていた。

 

「おい、春樹!目を覚ませ! 絶対に罠だぞ!」

 

池寛治が、慌てて山内の腕を引っ張って止める。

 

「そうだぜ! お前なんかが、あのAクラスのトップの坂柳に相手にされるわけがないだろ! 何か裏があるに決まってる!」

 

須藤も、珍しくまともな危機感を持って山内を制止しようとした。

だが、完全に舞い上がっている山内の耳には、そんな友人の忠告など全く届いていなかった。

 

「うるせえな! お前ら、ただ俺が坂柳ちゃんと仲良くしてるのが羨ましいだけだろ!?」

 

山内は、池の手を乱暴に振り払い、得意げに胸を張った。

 

「ふんっ。ようやく、俺の隠された魅力が世間に知れ渡ったみたいだな。……待たせたな、坂柳ちゃん。俺たち、どこで話す?」

 

「ふふっ。ありがとうございます。では、少し廊下の方へ……」

 

坂柳は、山内を連れて、神室と共に教室から出て行った。

 

残されたDクラスの面々は、「あいつ、絶対痛い目見るぞ……」と、完全に山内に呆れる空気になっていた。

 

俺は、自分の席で頬杖をつきながら、その一連の茶番劇を、極めて冷ややかな目で見送っていた。

 

(……俺の魅力が知れ渡った、ね。笑わせる)

 

俺の脳裏に、合宿の二日目の夜の光景が蘇る。

山内が、足の不自由な坂柳にぶつかって転ばせ、あまつさえ「どんくさい」「運動神経ゼロ」と馬鹿にして立ち去った、あの瞬間。

あの時、坂柳の瞳の奥に宿っていた、絶対的な怒りと、純度100パーセントの殺意。

 

(手段は知らんが……あのAクラスのお嬢さん、山内の奴を『退学』させるか、社会的に『殺す』つもりだろうな)

 

自分を侮辱した愚者を、ただ怒鳴り散らすのではなく、あえて甘い罠に掛け、一番高いところまで持ち上げてから、地獄の底へと突き落とす。

それが、坂柳有栖という女の、最も残酷で効率的な復讐のやり方なのだろう。

 

(まあ、あの馬鹿がどうなろうと、俺の知ったことじゃない)

 

俺は、自ら死刑台の階段を笑顔で上っていくクラスメイトの背中から興味を失い、放課後のひよりとのデートプランを考える作業へと意識を戻した。

 

山内への死刑執行の準備が静かに進む裏で。

学校全体を揺るがす、もう一つの巨大な『悪意の波』が、静かに、しかし確実に広がり始めていた。

 

『ねえ、聞いた? Bクラスの一之瀬さんって……昔、犯罪を犯したことがあるらしいよ』

 

『えっ、嘘でしょ!? あの聖人みたいな一之瀬さんが!?』

 

『でも、火のない所に煙は立たないって言うし……』

 

一之瀬帆波。

一年Bクラスのリーダーであり、その圧倒的な善性とカリスマ性で、クラス内はおろか他クラスや上級生からも絶大な信頼を集めている少女。

 

そんな彼女をターゲットにした、極めて悪質で、根拠の不明な『犯罪者である』という黒い噂。

 

それは、冬の乾燥した風に乗る山火事のように、瞬く間に一年生全体へと蔓延していった。

 

そして、その噂の出所を巡る諍いに、俺とひよりは偶然遭遇することになる。

 

数日後の、放課後。

俺は、いつものようにひよりとケヤキモールでのデートを楽しむため、特別棟の裏手にある静かな渡り廊下を歩いていた。

 

「今日行くカフェ、新作のイチゴのタルトが出たらしいですよ、刃叉羅くん」

 

「マジか。そりゃあ絶対食べないとな。ひよりの笑顔がさらに甘くなりそうだ」

 

「ふふっ、またそんなこと言って……」

 

俺たちが手を繋いで、平和で甘ったるい会話を交わしていた、その時。

廊下の角を曲がった先で、数人の生徒が険悪な雰囲気で対峙しているのが見えた。

 

「――とぼけるな、橋本!」

 

怒気を含んだ声で相手を問い詰めていたのは、Bクラスの参謀役である神崎隆二だった。

 

彼の背後には、数人のBクラスの男子生徒が控え、一触即発の空気を醸し出している。

 

そして、神崎に詰め寄られているのは、Aクラスの橋本正義だった。

 

「お前たちが、一之瀬の『あの噂』を流しているんだろう! 噂の出所を探ると、必ずお前たちAクラスの生徒に辿り着くんだ!」

 

神崎が、ギリッと歯を食いしばりながら橋本を睨みつける。

 

Bクラスの精神的支柱である一之瀬を傷つける卑劣な噂。神崎が怒るのも当然だ。

 

だが、橋本はそんな神崎の怒りを、どこ吹く風といった様子で飄々と躱していた。 

 

「おいおい、勘弁してくれよ神崎。俺たちAクラスが噂を流してるって? 証拠もないのに、そんな言いがかりはやめてくれないか」

 

橋本は、両手を広げて大げさに肩をすくめた。

 

「そもそも、一之瀬ちゃんが犯罪者だなんて、俺も信じちゃいないさ。あの天使みたいな子がそんなことするわけないだろ? 噂なんて、誰が最初に言い出したかも分からない無責任なもんだ。俺たちを疑うのは筋違いってもんだぜ」

 

「白々しい……! 坂柳の指示だろうが!」

 

「やれやれ。これだから熱血漢は困る。……悪いが、俺はこれから用事があるんでね。失礼するよ」

 

橋本は、神崎たちの包囲網をヒラリとすり抜け、そのまま俺たちのいる方向へと歩いてきた。

 

すれ違いざま、橋本は俺の姿を認めると、片目を軽くウインクしてみせた。

 

(……食えない男だ)

 

俺は無表情のまま、橋本を視界の端で見送った。

神崎たちは、逃げられた悔しさに拳を握りしめながら、足早に別の方向へと去っていった。

 

「……一之瀬さん、犯罪者だなんて噂を立てられて、可哀想に……」

 

その一部始終を俺の隣で見ていたひよりが、ギュッと俺の手を握りしめ、悲痛な声で呟いた。

 

「一之瀬さんは、私が図書室で本を探している時に優しく声をかけてくれたり、落とし物を拾ってくれたり……とても、とても良い方なんです。そんな方が、あんな酷い噂で傷つけられるなんて、悲しいですね……」

 

ひよりの大きな瞳が、理不尽な悪意への悲しみで微かに潤んでいる。

他人の痛みを自分のことのように悲しむことができる。彼女のそういう果てしなく純粋で優しいところが、俺は死ぬほど好きだった。

 

同時に。

俺の愛する天使の心を痛めさせ、悲しい顔をさせた『Aクラスの連中』に対して、俺の胸の奥で、冷たく黒い殺意がチリチリと燻り始めた。

 

「……ひより」

 

俺は、足を止め、ひよりの肩に優しく手を置いた。

 

「一之瀬のことは、俺には関係ない。だが、その噂のせいでひよりが悲しい思いをしているのは、俺にとって重大な問題だ」

 

俺の声音から、いつもの温もりが消え、絶対零度の『暗殺者』のものへと変わる。

 

「……ひよりが望むなら。俺が今すぐ、あいつらが口を利けないように、黙らせてこようか?」

 

「――――だ、ダメですっ! 刃叉羅くん!」

 

だが、ひよりは慌てて俺の服の袖を掴み、ブンブンと強く首を横に振った。

 

「そんな、刃叉羅くんが手を汚すようなこと、絶対にしないでください!」

 

ひよりが、涙ぐんだ瞳で俺を真っ直ぐに見上げて訴えかける。

その純粋すぎる懇願の前に、俺の中に湧き上がっていた殺意は、まるで春の雪のように一瞬で溶け去ってしまった。

 

「それに……」

 

ひよりは、少しだけ視線を落とし、静かに言葉を続けた。

 

「一之瀬さんは、あんな根拠のない噂に負けるような、弱い方ではありません。……いずれ、真実が明らかになって、噂は自然と落ち着くはずです。私たちは、それを信じて静かに見守りましょう」

 

(……本当に、敵わないな)

 

俺は、深く息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を完全に抜いた。

 

「……分かった。ひよりがそこまで言うなら、俺は手を出さない。……でも、もしあの噂が飛び火して、少しでもひよりに被害が及ぶようなことがあったら、その時は問答無用で全員地獄に送るからな」

 

「も、もうっ……刃叉羅くんは、本当に極端なんですから……」

 

ひよりが、安堵したように困った笑顔を浮かべる。

俺は彼女の頭を優しく撫でてから、再び手を強く握り直した。

 

「さあ、気を取り直してデートに行こう。イチゴのタルトが俺たちを待ってるぜ」

 

「はいっ!」

 

他クラスの泥沼の権力闘争も、悪意に満ちた噂話も。

俺とひよりが手を繋いで歩く、この温かい時間だけは、絶対に侵すことはできないのだ。

 

だが。

ひよりの「いずれ落ち着く」という優しい願いとは裏腹に、事態はさらに最悪の方向へとエスカレートしていく。

 

神崎と橋本の接触から数日後の、ある朝のこと。

 

「……なんだ、これ」

 

学生寮の1階。

自分の郵便ポストを開けた俺は、その中に入っていた一枚の『プリント』を見て、微かに眉をひそめた。

 

それは、ワープロ打ちされた無機質な文字が並ぶ、出所不明の怪文書だった。

そこには、デカデカと、こう印字されていた。

 

『一年Bクラス・一之瀬帆波は、過去に犯罪を犯した犯罪者である』

 

俺が周囲を見渡すと、ポストを確認しに来た他の生徒たちも、同じプリントを手に持ち、ざわめき立っていた。

どうやら、一年生全員のポストに、この怪文書が一斉に投函されたらしい。

 

(……なるほどな)

 

俺は、そのプリントを指先で弾き、冷ややかな思考を巡らせた。

単なる口頭での噂話なら、証拠もなく、いずれ立ち消えになる可能性もある。

だが、こうして物理的な『怪文書』としてばら撒く行為は、事態を意図的にエスカレートさせ、一之瀬を完全に追い詰めるための明確な『攻撃』だ。

 

(裏社会で、敵対組織の幹部を失脚させる時によく使う『ネガティブ・キャンペーン』の手法と全く同じだな。……あのお嬢さん、本当に容赦がない)

 

他人のポストに怪文書を投函するという、一歩間違えれば学校側から重いペナルティを課されかねない危険な橋。

 

それを、証拠を残さずに一年生全員に対して実行できる組織力と、それを指示できる冷酷さを持っているのは、この学年では坂柳有栖を置いて他にいない。

山内春樹への死刑宣告といい、一之瀬帆波への社会的な抹殺工作といい。

彼女は今、この学校の盤面を、自らの圧倒的な知略と悪意で完全に支配しようとしている。

 

(……まあ、俺には関係ないことだ)

 

俺は、その怪文書をクシャッと丸め、近くのゴミ箱に放り投げた。

一之瀬が本当に犯罪者であろうとなかろうと。

坂柳がこの学校の覇権を握ろうと。

俺の愛する日常には、一ミリの影響もない。

 

「さて、今日はひよりにどんな差し入れを持っていってやろうかな」

 

暗殺者の少年は、学校全体を飲み込もうとしている巨大な悪意の嵐を完全に無視し、ただ世界で一番大切な天使のことだけを考えながら、平和な朝の教室へと歩き出すのだった。

 

 

 

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