青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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六十三話

一年Bクラスのリーダー、一之瀬帆波が犯罪者であるという出所不明の怪文書が、一年生全員のポストに投函されてから数日後。

 

学校全体を覆う悪意の嵐は、収束するどころか、さらに無差別で混沌とした『泥沼』へと変貌を遂げていた。

 

「……なんだ、こりゃ」

 

二月中旬の、ある冷え込んだ朝。

俺――呉 刃叉羅は、自室のベッドで目を覚まし、日課となっている学校の匿名掲示板サイトのチェックをしていた。

 

そこには、これまでの一之瀬への単一の攻撃とは全く異なる、狂気に満ちた書き込みが溢れ返っていた。

 

Aクラスを除いた、B、C、Dの各クラス。

そのクラスメイトたちの名前と、真偽不明の『黒い噂』が、各クラス数人ずつ、リスト化されるように次々と書き込まれていたのだ。

 

一之瀬の噂が流れた時は、十中八九、Aクラスのリーダーである坂柳有栖の仕業だと確信していた。

 

だが、この掲示板での無差別な噂の流布は、あのプライドが高く、理詰めで盤面を制圧するお嬢さんのやり方としては、あまりにも露骨で、美学に反している。

 

(なら、誰だ? ……消去法でいけば、龍園か、綾小路か、その辺りだろうな)

 

もし龍園翔の仕業だとすれば、目的は明確だ。

Aクラスだけが噂のターゲットから外れている状況を作り出し、「この掲示板の書き込みはAクラスの仕業だ」と全生徒に錯覚させる。一之瀬の噂を利用して、Aクラスを全クラスの共通の『敵』へと仕立て上げるための、巧妙なヘイトコントロールだ。

 

(だが……綾小路の奴も、怪しいな)

 

俺の脳裏に、あの無機質な瞳が浮かぶ。

彼が自らの盤面を整えるため、あるいは裏で何かを『試す』ために、あえて泥を塗るような真似をしたとしても、何ら不思議ではない。

 

俺は、掲示板の書き込みの中で、自分の所属する『Dクラス』の項目に目を向けた。

 

『本堂:肥満の女子にしか興味がない』

『佐藤:小野寺のことが嫌い』

『綾小路:軽井沢のことが好き』

『篠原:過去に買春をしていた』

 

「……えげつねえな」

 

俺は思わず眉をひそめた。

 

本堂の性癖や、佐藤のクラスメイトへの感情など、事実確認が難しく、かつ本人が否定しづらい絶妙なラインを突いている。

 

さらに、綾小路自身の『軽井沢が好き』という書き込み。自分で自分の噂を書き込むことで、容疑者のリストから外れようとするカモフラージュにも見える。

 

そして、篠原への『買春』という極めて攻撃的で社会的なダメージの大きいデマ。

 

(……虚偽かどうか微妙なラインを攻めてるな。人の尊厳やプライバシーの急所を的確にえぐってやがる)

 

俺は制服に着替え、いつものように愛しのひよりを迎えに、女子寮へと向かった。

 

教室の前でひよりと別れ、完璧な朝の『ひより成分』のチャージを完了させた俺は、自分の所属する一年Dクラスの教室へと足を踏み入れた。

 

だが。

教室のドアを開けた瞬間、俺は思わず舌打ちをしたくなった。

 

「――――」

 

教室の中は、先ほどのひよりとの甘い空気とは正反対の、最悪にドロドロとした、刺々しい空気に包まれていたのだ。

その最悪の空気の中心で、下衆な笑い声を響かせている男がいた。

 

「あははははっ! おいおい、マジかよ! 掲示板見たかお前ら!」

 

山内春樹。

つい先日、Aクラスの坂柳から声をかけられ、自分がモテ期に入ったと完全に勘違いして天狗になっている愚者。

 

彼は、教室内を練り歩きながら、掲示板に書かれたクラスメイトたちの噂を、大声で読み上げて囃し立てていた。

 

「おい、綾小路! お前、軽井沢のことが好きなのか!? まさかあの無口なお前が、クラスのカーストトップ女子を狙ってたなんてな! はははっ、身の程知らずもいいとこだぜ!」

 

「……」

 

綾小路は、自分の席で読書をしたまま、完全に山内を無視していた。

 

「それに佐藤! お前、小野寺のこと嫌いなんだってな! 女の友情って怖え〜!」

 

「なっ……! ち、違うわよ! 何言ってんのよあんた!」

 

佐藤が顔を真っ赤にして怒鳴り返すが、山内は意に介さない。

 

「おい、春樹……やめとけよ。そんな掲示板の噂、デタラメに決まってるだろ」

 

「そうだぞ。クラスの空気悪くすんなって」

 

仲の良い、池寛治や須藤健でさえも、今日の山内の異常なテンションと下劣さにはドン引きしており、必死に止めようとしていた。

 

だが、坂柳という強力な『後ろ盾』を得た山内は、完全にブレーキが壊れていた。

 

「いいじゃねえか、火のない所に煙は立たないってやつだろ! ……それにしても傑作なのはこれだな!」

 

山内は、ゲスな笑顔をさらに深め、教室の隅で震えている女子生徒――篠原さつきの元へと歩み寄った。

 

「おい篠原! お前、過去に『買春』してたってマジかよ!? ははっ、お前みたいな女を買う物好きなオッサンがいるなんて、世の中広いよなぁ!」

 

「――――ッ!!」

 

教室の空気が、凍りついた。

 

「ち、違う……っ! そんなの、絶対に嘘……っ!」

 

篠原は、両手で顔を覆い、ボロボロと涙を流し始めた。

女子生徒にとって、これ以上ないほどの最悪な侮辱。

軽口や冗談で済まされるラインを、山内は完全に越えていた。

 

「あんた、最低だよ山内くん!」

 

「篠原さんがそんなことするわけないでしょ! 謝りなさいよ!」

 

女子生徒たちが一斉に立ち上がり、山内を激しく非難し始める。

そして、最近篠原と距離が近づきつつあった池が、ついに堪忍袋の緒が切れたように立ち上がった。

 

「おい! 春樹! いい加減にしろよ!」

 

池が、山内の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで詰め寄る。

 

「女子相手に売春がどうとか、絶対に言っちゃダメなことだろ!」

 

だが、山内はヘラヘラと笑いながら、池の言葉を鼻で笑った。

 

「ははっ、なんだよ寛治! お前、もしかして篠原のことが好きなのか? だから必死に庇ってんの?」

 

「なっ……! べ、別にそういうんじゃねえけど……!」

 

「それともなんだ? 俺が坂柳ちゃんと仲良くしてて、お前はモテないから嫉妬してんのか? みっともねえなぁ!」

 

山内は、自分が完全にクラスのヒエラルキーの頂点に立ったかのような、度し難い勘違いの表情で池を煽り散らした。

 

「おい、山内」

 

不快に思った俺は、席から立ち上がることもなく、低く冷たい声で教室の中心にいる山内に声をかけた。

 

「朝からうるせえよ。くだらない便所の落書きを真に受けてはしゃいでる暇があるなら、自分の顔でも洗ってこい。……これ以上、クラスの空気を悪くするな」

 

だが。

 

「あぁ?」

 

山内は、不満げに顔を歪めて俺の方を振り向いた。

 

「なんだよお前、かっこつけやがって。Cクラスの『スパイ』は黙ってろよ!」

 

俺がため息をつこうとした、その時。山内はさらに悪びれる様子もなく、最も踏みにじってはならない地雷を全力で踏み抜いた。

 

「ていうか、お前みたいな気取った不良ぶってる奴と付き合ってる時点であの椎名って女も頭おかしいんじゃねえの!? どうせ男好きの尻軽女なんだろ!」

 

「――――」

 

ドクン、と。

俺の中で、絶対に触れてはならない逆鱗が完全に撫で斬られた。

 

次の瞬間、俺の体内から極限まで圧縮された、『おぞましい殺気』が、教室という閉鎖空間に爆発的に解き放たれた。

 

「ヒッ……!?」

 

「な、何……!?」

 

室内の温度が急激に下がったかのような錯覚。息をすることすら困難なほどの暴力的なプレッシャーに、クラス中の生徒たちが一斉に顔面を蒼白にし、ガタガタと震えながら縮こまった。

 

俺は無言のまま席を立ち上がった。

 

――だが、次の一歩を踏み出そうとした、その瞬間。

 

脳裏に、俺に向けて嬉しそうに微笑むひよりの顔がフラッシュバックした。

その絶対の誓いが、ドス黒い衝動に染まりかけた脳髄に、強靭な理性のブレーキをかけた。俺はギリッと奥歯を噛み締め、踏み出しかけた足をピタリと床に縫い留める。

 

俺自身の手で、すんでのところで怒りを檻に閉じ込めた。

 

「――やめろ、呉」

 

横から伸びてきた手が、俺の右腕をガシッと力強く掴んで引き留めた。

視線を向けると、そこには……普段の無表情の奥に、明らかな『焦燥』を滲ませた綾小路清隆の姿があった。

 

その異常な踏み込みの初速と、俺の腕をホールドする容赦のない力強さは、彼が普段のことなかれ主義を投げ捨ててでも『本気』で俺の暴力を制止しに来たことを物語っている。

 

「ここでお前が手を出せば、確実に退学になる。……椎名が悲しむことになるぞ」

 

淡々とした、しかし急所を正確に突くその言葉。

 

「……大丈夫だ、綾小路。もう止まってる」

 

俺が小さく息を吐き、全身から立ち上っていた殺気を完全に霧散させると、綾小路は微かに目を見開き、俺がすでに自制していることを悟って、静かに腕を離した。

 

「……すまんな、少し頭に血が上ってた」

 

「……いや、気にするな」

 

綾小路が静かに腕を離し、自分の席へと戻っていく。

 

一方、俺の殺気の直撃を受けていた山内は、完全に腰を抜かして床にへたり込んでいた。

 

「び、び、びびらせやがって……っ!」

 

ガチガチと歯の根を鳴らしながら、涙目で捨て台詞を吐く山内。

 

(……危ないところだった。ひよりが悲しむような真似はしないと、誓ったばっかりだっていうのにな)

 

俺は小さく息を吐きながら自分の席に座り直した。

しかし、教室の空気は完全に凍りついたままだった。

俺がほんの一瞬だけ放った、異常な殺気。その強烈な余韻に当てられ、室内の誰一人として言葉を発することができない。

 

いつもなら真っ先に山内を罵倒する軽井沢たち女子グループでさえ、今はただ青ざめた顔で息を潜め、沈黙を守るしかなかった。

重く、息苦しい無言の空間。誰の咳払い一つ聞こえない異常な静寂の中、朝のホームルームを知らせるチャイムだけが、空虚に鳴り響いた。

   

 

 

そして、放課後。

ホームルームが終わるや否や、俺は無言のままカバンを掴んで立ち上がった。

頭は冷えたが、機嫌が完全に直ったわけではない。愛しい彼女を侮辱された不快感は、そう簡単に消えるものではなかった。

 

教室を出る直前、俺はチラリと視線を巡らせ、自分の席でまだ縮こまっている山内を、射殺すような冷たい目で一瞥した。

 

「ヒッ……!」

 

山内がビクッと肩を跳ねさせ、怯えたように顔を伏せる。

俺は小さく舌打ちをし、苛立ちを隠すことなく教室のドアを開け、ひよりの待つ場所へと足早に向かった。

 

俺の足音が廊下の奥へと完全に消えていくと同時に。

教室に張り詰めていた目に見えない重圧の糸が、ようやくプツリと切れた。

 

「……信じられないわね」

 

堀北鈴音が、かすかに震える手でペンを置きながら、隣の席の綾小路清隆に声をかけた。

 

「以前、ケヤキモールで彼が龍園くんに放ったプレッシャーも異常だったけれど……今回はそれ以上だったわ。もし綾小路くんが止めに入らなかったら、山内くんは本当にどうなっていたか……」

 

「……さあな。だが、一つだけ確かなのは、椎名ひよりのことだけは絶対に刺激しない方がいいってことだ」

 

綾小路は淡々と返しながらも、内心で深く同意していた。

 

(……なんとか踏み止まってくれたが、山内は本当に救いようがないな……)

 

一方、ようやく呼吸を取り戻した軽井沢恵たち女子グループは、山内に直接詰め寄る気力すら湧かず、自分たちの席で固まるようにして身を寄せ合っていた。

 

「ぐすっ……うぅ……っ」

 

篠原さつきが、机に突っ伏してガタガタと震えながら泣きじゃくっている。

 

「大丈夫、篠原さん?」

 

松下千秋が、気遣うように篠原の背中を優しくさすった。

 

「そうだよ、泣かないで。掲示板の噂なんて、クラスの誰も信じてないからね」

 

佐藤麻耶も、慰めるように言葉をかける。

 

「うん……ありがと……。それにしても、今日の呉くん、マジで怖かったね……。一瞬、本当に息ができなかった……」

 

涙を拭いながら篠原が呟くと、佐藤たちもまだ青ざめた顔のまま深く頷いた。

 

「勉強会で根気よく教えてくれたり、すっごく美味しいご飯を作ってくれる、いつもの呉くんとは完全に別人だったね……」

 

「まあ、あれは山内が100パーセント悪いんだけどね。篠原さんのことを馬鹿にした上に、人の彼女まであんな風に侮辱したら、そりゃキレるよ。自業自得よ、あんなクズ」

 

松下が恨めしそうに教室の中心を一瞥する。

軽井沢恵も、表面上は「ホント、山内ウザすぎ」と友達の会話に同調していたが、密かに胸の中では全く別の感情を抱いていた。

 

(確かに、あの時の呉くんは本当に怖かった。……でも)

 

自分の彼女がバカにされたからといって、あそこまで周りが見えなくなるくらい、本気で、なりふり構わずブチ切れてくれる。

あの恐ろしい殺気は、裏を返せば、椎名ひよりに対する底知れないほど深くて重い『愛』の証明に他ならない。

 

(……ちょっとだけ、羨ましいかも)

 

軽井沢は、教室の後ろの席で帰り支度をしている、無表情な男――綾小路清隆の背中をこっそりと見つめた。

 

(もし、私があんな風に理不尽に侮辱されたら……清隆は、私のためにあそこまで怒ってくれるのかな?)

 

数秒の想像。そして、すぐに自嘲気味な答えに行き着く。

 

(……いや、それはないわね)

 

彼は絶対に、あんな感情的な行動は起こさない。常に冷静で、計算高くて、自分の利益と安全を最優先にする。それが彼の強さであり、自分が彼に依存している理由だと分かってはいる。

 

だが、呉刃叉羅がただ一人の女の子に向けた、あの不器用で狂気的なまでの『愛』を目の当たりにしてしまうと、どうしても胸の奥がチクリと痛む軽井沢だった。

 

 

 

そして、放課後。

俺は山内への苛立ちを腹の底に押し込め、いつものようにひよりとの待ち合わせ場所へと向かっていた。

 

「お待たせ、ひより」

 

「あ、刃叉羅くん!」

 

俺の顔を見るなり、パァッと花が咲くように微笑む愛しの天使。

だが、俺の腕に抱きつこうとした彼女は、ふと歩みを止め、小首を傾げて俺の顔をじっと見つめてきた。

 

「……刃叉羅くん、どうかしたのですか?」

 

「えっ?」

 

「なんだか……ほんの少しだけ、ご機嫌斜めに見えますけれど」

 

俺は自分でも驚いた。ひよりの前では完璧にいつもの温厚な顔を作っていたつもりだったが、彼女の純粋な瞳は、俺の心の奥底に燻る不快感のノイズを正確に見抜いていたのだ。

 

「……いや。クラスでちょっと、色々あってな。くだらない事だ」

 

俺が苦笑交じりにそう言うと、ひよりはそれ以上深くは追求せず、俺の右手を両手で優しく包み込んでくれた。

 

「そうですか。……今日は、カフェでパンケーキを食べましょうね。甘いものを食べれば、きっと一瞬で元気が出ますから」

 

「ああ。ひよりと食べる甘いもんは、一日の疲れも嫌なことも吹き飛ぶ特効薬だからな。もうすでに機嫌は直ってるよ」

 

特別棟の裏手にある渡り廊下を、手を繋いで歩いていた時のことだった。

 

「――てめえら! いい加減にしろよ!」

 

少し先の角で、怒号が響き渡った。

見ると、Cクラスの石崎大地、そして同じくCクラスの小宮と近藤の三人が、顔を真っ赤にして激昂し、数人のAクラスの生徒たちを壁際に追い詰めていた。

 

相手は、Aクラスの参謀格である橋本正義たちだ。

 

「おいおい、なんだよ石崎。急に胸ぐらなんか掴んで。野蛮だなぁ」

 

橋本が、石崎に掴まれながらも飄々とした態度で躱している。

 

「とぼけんな! 掲示板に俺のデマを書き込みやがったのは、てめえらAクラスだろうが! ふざけた真似しやがって!」

 

石崎は、掲示板に書かれた自分の噂に完全に頭に血が上っていた。今にも橋本たちを殴り飛ばしそうな勢いだ。

 

「だから、俺たちじゃないって言ってんだろ。証拠もないのに……」

 

「……石崎くん、小宮くん、近藤くん」

 

揉み合いになりそうだったその場に、凛とした、しかし優しい声が響いた。

俺の隣にいた、ひよりだった。

 

「ひより?」

 

俺が止める間もなく、ひよりは石崎と橋本たちの間へと歩み出た。

俺はその後ろ姿を静かに見守りながら、いつでも動けるように彼女の背後へと続く。

 

「ここで彼らに怒っても、仕方がありません」

 

ひよりは、Cクラスの参謀として、冷静な目で事態を収束させようとした。

 

「掲示板の書き込みは匿名です。Aクラスの方々がやったという証拠がない以上、ここで暴力沙汰を起こせば、石崎くんたち、ひいてはCクラス全体が不利になるだけです。……どうか、堪えてください」

 

理路整然とした、正しい忠告。

だが、完全に怒りで頭に血が上っている石崎は、乱暴に振り返り、声を荒げた。

 

「あぁ!? 椎名! てめえは引っ込んで――」

 

そこまで言いかけた瞬間。

石崎の視線が、ひよりのすぐ後ろ――無言で佇む『俺』の姿を捉えた。

俺は一言も発していない。

 

ただ、もし万が一、感情に任せて石崎がひよりに手を上げるようなことがあれば、即座にその腕を掴んで完全に制圧する。

その準備を整え、全身のバネを研ぎ澄ませた上で、一切の感情を排した絶対零度の眼差しで彼を見下ろしていた。

 

「――――ッ!!?」

 

ピタッ、と。

石崎の怒号が、不自然なほど完全に停止した。

彼の脳裏に、かつて屋上で味わった蹂躙の記憶がフラッシュバックしたのだろう。顔面から一瞬にして血の気が引き、ガチガチと歯の根が鳴る音が聞こえてきそうなほど、彼ら三人は激しく震え上がった。

 

「あ…………っ」

 

さっきまでの血走った怒りなど一秒で消え失せ、石崎たちはひよりの前に直立不動の姿勢をとった。

 

「し、椎名さんの仰る通りッス!! 俺たちが完全に間違ってました!! 本当に申し訳ありませんでしたぁっ!!」

 

見事な九十度のお辞儀。

 

「あ、あの、石崎くんたち。頭を上げてください、私は気にしてませんから……」

 

ひよりが突然の急変にオロオロとしながら石崎たちを宥めようとする。

俺は、冷ややかな目で石崎たちを見下ろし、「……さっさと行け」と顎でしゃくった。

 

「は、はいっ! 失礼します!!」

 

石崎、小宮、近藤の三人は、脱兎のごとく、文字通り転がるようにしてその場から逃げ出していった。

 

それを見ていた橋本たちAクラスの面々も、「……やれやれ、ヤバい奴に目をつけられる前に退散するか」と、足早に去っていった。

 

嵐が去った渡り廊下で。

 

「……刃叉羅くん」

 

俺の袖が、ツンツンと引っ張られた。

振り返ると、ひよりが少しだけ頬を膨らませ、両手を腰に当てて俺を見上げていた。

 

「どうした、ひより?」

 

ひよりは、少しだけ困ったように微笑み、優しく俺を諭すように言った。

 

「私を守ろうとして構えてくれたのは、ありがとうございます。……でも、彼らも自分の嘘の噂を書かれてパニックになっていただけなんです。あんなに怖がらせてしまっては、少し可哀想ですよ」

 

「……うっ」

 

俺は、愛する天使からの真っ当な見透かしに、言葉を詰まらせた。

 

「いや、でもな、俺はひよりを守ろうと……」

 

「お気持ちはとても嬉しいです。ですが、やりすぎはめっ、です。……ちゃんと、後で石崎くんたちにも謝ってくださいね?」

 

ひよりが上目遣いで俺を見つめてくる。

その純粋で優しすぎる瞳の前に、俺の理屈など一秒で崩れ去った。

 

「……そうだな。俺が悪かった。……ごめんな、ひより。次からはもう少し加減するよ」

 

「ふふっ、はい。約束ですよ」

 

ひよりが、パァッと花が咲くような笑顔に戻る。

俺は、自分のスマホを取り出し、連絡先を知っているアルベルト経由で石崎に『さっきは睨んでごめんな』とだけメッセージを送信しておいた。

 

「よし、これでいいだろ。……さあ、気を取り直してカフェデートに行こう。俺の口の中はもうパンケーキを食べる準備が完璧に整ってるぜ」

 

「ふふっ、はいっ! 行きましょう、刃叉羅くん!」

暗殺者の少年は、自らの恋人の優しさに完全に毒気を抜かれながら、甘い珈琲の香りが待つカフェへと足取り軽く向かうのだった。

 

 

 

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