青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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六十四話

学校全体を泥沼の疑心暗鬼に引きずり込んだ『一之瀬帆波は犯罪者である』という悪質な噂。

 

その嵐がピークに達した二月中旬、当の一之瀬帆波は精神的に追い詰められたのか、数日間にわたって学校を欠席し、自室に引きこもる事態に陥っていた。

 

だが、その数日後。

一之瀬は突如として学校に復帰し、自らの口で過去の『万引き』という罪をクラスメイトたちの前で曝け出した。結果としてBクラスの結束はさらに強固なものとなり、坂柳有栖による執拗なネガティブキャンペーンは完全に無力化されるという結末を迎えた。

 

「……なるほどな。まあ、一之瀬が立ち直ったんならそれでいいか」

 

俺――呉 刃叉羅は、昼休みの食堂でカツカレーを口に運びながら、風の噂で聞いたその顛末を脳内で適当に処理していた。

 

(一之瀬をあの状態から復帰させたのは、綾小路の仕業か?そのために他の奴の噂を拡散させて、噂の流布を学校側から禁止させる。そう考えれば辻褄が合う。……でも、あいつが一之瀬を助けるメリットって何だ? 自分のクラスのライバルを塩漬けにしておく方が、あいつの『平穏』にとっては好都合なはずだが)

 

思考を巡らせてみるものの、綾小路の真意など、俺に読めるはずもなかった。

 

「刃叉羅くん? どうかしましたか?」

 

向かいの席で、愛しの天使・椎名ひよりが小首を傾げて俺を覗き込んでくる。

 

「いや、一之瀬が無事に学校に来られるようになって良かったなと思ってさ。ひよりもずっと心配してただろ?」

 

「はいっ!」

 

ひよりはパァッと花が咲くような笑顔になった。

 

「一之瀬さん、色々と辛い過去があったみたいですけれど……Bクラスの皆さんに受け入れてもらえて、本当に良かったです。私、一之瀬さんの笑顔がまた見られて、すごく安心しました」

 

「ひよりが安心したなら、それが一番だ」

 

俺はニコリと笑い返した。

ひよりが心を痛める原因が取り除かれたという事実。それだけで、俺の人生においては万々歳なのだ。

 

そうして噂の嵐が過ぎ去った二月の中旬には、俺にとってこの世の春とも言える、極上のイベントが待っていた。

 

二月十四日。バレンタインデー。

 

「……あの、刃叉羅くん。これ……受け取って、もらえますか?」

 

放課後。俺の部屋のリビングで。

少しだけ頬を赤く染め、上目遣いでモジモジとしているひよりが、綺麗にラッピングされた小さな箱を差し出してきた。

 

「私、お菓子作りはあまり得意じゃないんですけれど……刃叉羅くんのために、一生懸命作りました。その……私の、気持ちです」

 

「――――ッ!!」

 

俺は、その箱を受け取る前に、危うくその場で昇天しかけた。

 

(やばい……やばいぞ。可愛すぎる。エプロン姿のひよりがキッチンで俺のためにチョコレートをかき混ぜている姿を想像しただけで、俺の脳内麻薬が致死量を超えそうになっている)

 

「あ、ありがとう、ひより……! これ、俺の人生で最高の宝物にするよ」

 

俺は、震える手でその箱を恭しく受け取った。

 

「ふふっ。宝物にしないで、ちゃんと食べてくださいね。……今、開けてみてもいいですよ?」

 

「いいのか? じゃあ……」

 

リボンを解き、箱を開けると。

そこには、少しだけ形は不揃いだが、可愛らしいハート型に成形された生チョコレートが敷き詰められていた。表面には綺麗にココアパウダーがまぶされている。

 

俺は、その中の一つを指でつまみ、口に運んだ。

 

「……っ」

 

「ど、どうですか……? お口に合いましたか……?」

 

ひよりが、不安そうに俺の顔を覗き込む。

俺は、目を閉じた。

 

口の中でとろける、濃厚なカカオの甘み。

暗殺者として、実家で世界中の最高級の菓子や料理を口にしてきた俺の味覚が、一瞬でこれまでの常識を上書きされた。

 

「……美味い」

 

俺は、ゆっくりと目を開け、ひよりを真っ直ぐに見つめた。

 

「俺が今まで生きてきた中で食った、どんな三ツ星のスイーツよりも、何万倍も美味い。……ひよりの愛情が、俺の身体の隅々にまで染み渡っていくのが分かるよ」

 

「も、もうっ……! 刃叉羅くんは、本当に大げさなんですから……っ」

 

ひよりが、顔を真っ赤にして両手で顔を覆う。

 

「大げさなもんか。俺は今、幸せの供給過多でマジで死ぬかもしれないって戦慄してるんだぜ?」

 

俺は、顔を隠して照れる彼女の細い手首を優しく掴み、そのまま自分の胸の中へと引き寄せた。

 

「きゃっ……」

 

「ひより……ありがとう。世界で一番、愛してる」

 

俺は、彼女の柔らかな髪に顔を埋め、甘いチョコレートの香りが混じった彼女の匂いを深く吸い込みながら、そのまま甘く、長いキスを交わした。

 

バレンタインデー。

それは俺にとって、愛する天使が作ってくれたチョコレートに心ゆくまで酔いしれる、至上のひと時だった。

 

その甘いバレンタインの余韻から数週間。

二月末の期末テストも、俺は平田たちと一緒にクラスの連中に勉強を教える講師役をこなしつつ、無事に乗り切った。俺自身も上位の成績をキープしている。

 

そして、季節は三月へと突入した。

三月一日。

学年集会において、学校側から『三月二十二日に学年末特別試験が開催される』という予告があった。

 

まだ詳しいルールの発表はされておらず、生徒たちの間には「また面倒な試験があるのか」という程度の、比較的緩い緊張感が漂っていた。

 

「まあ、三月下旬ならまだ時間はあるな」

 

「学年末ってことは、またクラス対抗の筆記試験か?」

 

池や須藤たちも、期末テストが終わった解放感からか、のんびりとした様子で話し合っていた。

 

そう、誰もが思っていたのだ。

平穏な春休みを迎えるための最後の壁は、三月下旬の学年末試験だけだと。

だが、この高度育成高等学校という箱庭は、生徒たちが平穏に息を吐くことなど決して許さない。

 

翌日。三月二日、火曜日。

朝のホームルームのチャイムと共に、一年Dクラスの教壇に立った担任の茶柱佐枝の表情は、いつも以上に険しく、冷酷な光を帯びていた。

 

「……席につけ。これより、新たな『特別試験』について説明する」

 

その重苦しい声に、教室の空気がピンと張り詰める。

気が抜けていた池や山内たちの顔が、一気に引きつった。

 

「う、嘘だろ……。学年末特別試験は、二十二日って言ってたじゃねえか……」

 

須藤が、舌打ちをしながら身構える。

 

「ああ、学年末特別試験は予定通り三月二十二日に行われる。……だが、今日説明するのは、それとは全く別の『追加の特別試験』だ」

 

茶柱は、生徒たちの動揺を冷徹に見下ろした。

 

「今年度、お前たち一年生からは……ここまで『退学者』が一人も出ていない。それは一見素晴らしいことのように思えるが、学校側はこれを問題視した。実力至上主義を謳うこの学校において、淘汰されるべき人間が一人も出ていないのは不自然だからだ」

 

その冷酷な宣告に、教室がざわめき始める。

退学者がいないことが問題? そんな理不尽な話があるか。

 

「だからこそ、学校は誰かを確実に退学させるための試験を急遽用意した」

 

茶柱が、黒板に白いチョークで大きく試験の名称を書き殴った。

 

【 クラス内投票 】

 

「……クラス内、投票?」

 

平田洋介が、その見慣れない単語を怪訝そうに口にする。

 

「そうだ。今回の試験は、お前たちの学力や身体能力を問うものではない。……お前たち自身が、クラスメイトを『評価』し、その結果によって不要な人間を決める試験だ」

 

茶柱は、手元の資料を読み上げながら、黒板に試験の詳細なルールを書き連ねていった。

 

【特別試験『クラス内投票』ルール】

1.日程:本日3月2日(火)にルール説明を行い、3月6日(土)に投票を実施する。

 

2.投票の仕組み:

生徒は、自分以外のクラスメイト3名に『賞賛票』を、同じく自分以外のクラスメイト3名に『批判票』を必ず投じなければならない。

さらに、クラス外の生徒1名に『賞賛票』を必ず投じること。

 

3.禁止事項:

同一人物への複数回の記入、無記入、棄権などの行為は一切不可能。必ず指定された人数分を記入すること。

 

4.結果の算出:

賞賛票と批判票は打ち消し合い、各生徒の最終的な得票数が算出される。

 

5.報酬とペナルティ:

各クラスにおいて、最終得票数が最も多かった【首位生徒】には、今後一度だけ退学を免除される『プロテクトポイント』が与えられる。

逆に、最終得票数が最も少なかった(マイナスが多かった)【最下位生徒】は、『退学処分』となる。

 

6.情報の公開:

最終的な投票数は公開されるが、「誰が誰に投票したか」までは完全に非公開の匿名投票となる。投票数についても、結果発表までは分からない。

 

7.特殊ルール:

全員が0票という結果になった場合は、違う結果になるまで再投票を繰り返す。

同率首位生徒、同率最下位生徒が出た場合も決選投票を行うが、それでも同率の場合には学校が用意した特殊な方法で優劣を決める。

 

「――――」

 

ルール説明が終わった瞬間。

教室は、水を打ったような静寂に包まれ。

次の瞬間、阿鼻叫喚の渦へと叩き落とされた。

 

「た、退学処分!?」

 

「冗談じゃない! なんでクラスメイト同士でマイナス票を入れ合わなきゃいけないんだよ!」

 

「誰かが……絶対に一人、退学になるってこと!?」

 

女子生徒たちが悲鳴を上げ、男子生徒たちが立ち上がって抗議の声を上げる。

無理もない。

 

これまでの試験は、クラス全員で協力して他クラスと戦うものだった。赤点さえ取らなければ、誰も退学にならずに済んだのだ。

 

だが、この『クラス内投票』は違う。

ルール上、どれほどクラスが結束しようとも、必ず誰か一人にマイナス票が集中し、最下位が生まれる。

学校側が、強制的に『生贄』を一人選べと命じているのだ。

 

「静かにしろ」

 

茶柱の一喝が、騒ぎ立てる生徒たちを黙らせた。

 

「これは学校が決めた絶対のルールだ。お前たちに拒否権はない。……3月6日の投票日までに、誰に賞賛票を入れ、誰に批判票を入れるか。せいぜい話し合って決めることだな」

 

茶柱はそれだけを言い捨て、足早に教室を去っていった。

残されたのは、疑心暗鬼と恐怖に完全に支配されたDクラスの生徒たち。

 

「……最悪な試験だな」

 

俺は、自分の席で頬杖をつきながら、極めて冷静に事態を分析していた。

 

(完全に『魔女狩り』だ。匿名投票で、クラス内の不要な人間、あるいは嫌われている人間を合法的に切り捨てる試験)

 

俺の脳内スーパーコンピューターが、即座にいくつかの懸念事項を弾き出す。

 

(まず、ひよりの安全だ)

 

俺の第一優先事項は、いついかなる時も椎名ひよりの身の安全である。

だが、そこはすぐにクリアされた。ひよりはCクラスの中で龍園の参謀として確固たる地位を築いており、クラスメイトからの信頼も厚い。彼女に批判票が集中して最下位になる可能性は、万に一つもないだろう。

 

(問題は……俺自身か?)

 

俺は、周囲で青ざめているクラスメイトたちを眺めながら思考を巡らせた。

先日、山内の発言に対して俺がブチ切れ、本気の殺気を放ってしまった影響は小さくない。

 

軽井沢や佐藤たち女子グループ、平田のような普段から親しくしている連中とは良好な関係を保てているが、それ以外のあまり接点のない生徒たちから見れば、今の俺は「底知れない暴力性を秘めた恐ろしい奴」として畏怖の対象になっているはずだ。

 

池や山内のようなクラスの底辺層からはもともと嫌われているし、あまり関わりのない生徒たちからも「危険だから」という恐怖や敬遠を理由に、俺に批判票が集まる可能性はゼロではない。

 

(だが……客観的に、クラスへの『貢献度』で考えれば、俺が最下位になる確率は極めて低いな)

 

俺は自らを事なかれ主義と称しているが、実際の俺のクラスへの貢献度は決して低くない。

 

ペーパーシャッフルでの満点、体育祭での活躍、そして日常的な勉強会での講師役。平田や堀北のように表立ってクラスを牽引するリーダーではないが、俺の『戦力としての価値』は誰もが認めているはずだ。

 

まともに上のクラスを目指そうと考えている生徒なら、ただ「怖いから」という理由だけで、俺のような貴重な戦力に批判票を入れて切り捨てるような自滅行為は選ばない。

 

(この魔女狩りで、最も生贄に選ばれるのは……『クラスに貢献しておらず、かつ、日頃の素行が悪くてヘイトを集めている人間』だ)

 

俺の視線が、教室の端で顔を真っ青にして震えている男――山内春樹へと向けられた。

 

特別試験では足手まといになり、先日の掲示板の噂事件では、篠原たちを率先して侮辱し、クラスの空気を最悪にした男。

 

さらに、坂柳という他クラスのリーダーに媚びへつらっているその姿は、同性の男子からも薄気味悪く思われている。

 

(……このDクラスで一番首の皮が薄いのは、間違いなくあの馬鹿(山内)だろうな。自業自得の極みだ)

 

「……みんな、落ち着いて聞いてほしい!」

 

その時、教室の前方に立ち、パンッと手を叩いて皆の注目を集めたのは、クラスのリーダーである平田洋介だった。

 

平田の顔にも、隠しきれない苦悩の色が浮かんでいた。

 

「先生の言う通り、この試験は誰か一人を退学にするという残酷なものだ。……でも、僕たちDクラスは、ここまで一人も欠けることなく頑張ってきたじゃないか!」

 

平田は、必死にクラスの結束を呼びかけた。

 

「批判票を入れる相手を選ぶなんて、僕にはできない。……だから、みんなで話し合おう! 誰に票を集めるかじゃなくて、どうやってこの試験で誰も退学にならないように乗り切るかを!」

 

平田の悲痛な叫びに、何人かの生徒が頷く。

 

(……甘いな、平田)

 

少し離れた席から、その光景を無表情で見つめていた綾小路清隆が、内心で冷酷に切り捨てる。

 

(ルールの構造上、全員で同票にして再投票を繰り返すのは不可能に近い。誰が誰に入れたか分からない匿名投票である以上、必ず誰かが裏切り、誰かが生贄になる。この試験は、人間の醜いエゴを引き出すように設計されているんだ)

 

教室には、平田の言葉に賛同する者、自分の保身に走ろうと周囲の顔色を窺う者、そして、私怨を晴らす絶好の機会だと腹の中で黒い笑みを浮かべる者が入り混じっていた。

 

「……面倒なことになったな」

 

俺は、深くため息をつきながら、窓の外のまだ冷たい空を見上げた。

この疑心暗鬼に包まれた箱庭の中で、俺が愛する平穏な日常がしばらくの間かき乱されることだけは、どうしようもなく不愉快だった。

 

『クラス内投票』の投票日まで、あと四日。

高度育成高等学校に、血の流れない、しかし最も残酷なサバイバルの鐘が鳴り響いたのだった。

 

 

 

 

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