絶望と混乱に包まれた、五月一日のホームルーム。
茶柱先生が『0ポイント』と『赤点による退学』という冷酷な事実を言い残して去った後、1年Dクラスの教室は完全に二つに分断されていた。
一方は、平田洋介の呼びかけに応じ、なんとかこの状況を打破しようと教室に残った者たち。
もう一方は、「知ったことか」と現実逃避をして、あるいは怒りに任せて教室を出て行こうとする者たちだ。
不良の須藤健は真っ先に「俺を巻き込むな」と教室を蹴り出て行き、それに続くように、ショックで放心状態だった池寛治や山内春樹も、「ジュースも買えねえのに話し合いなんてやってられるかよ……」とフラフラした足取りで退出していった。
ふと視線を向けると、孤高の美少女――堀北鈴音もまた、誰とも言葉を交わすことなく素早く席を立ち、教室を後にしていくところだった。
彼女の横顔には、かつてないほどの焦燥感と、強い憤りが張り付いていた。
(……先生のところへ、理由でも聞きに行ったのかな)
彼女の足早な背中を見送りながら、俺は内心で推測した。
入学初日から見ている限り、あの子は異常なほどプライドが高そうだ。「お前は最も劣った不良品だ」などと全否定されて、大人しく引き下がるような性格には見えない。あの険しい表情からして、茶柱先生に直接抗議にでも向かったのだろう。
(まあ、俺には関係のない話だ)
「あの、呉くん……残ってくれるんだね。ありがとう」
ふと、申し訳なさそうな声がして顔を上げると、平田が俺の席のそばに立っていた。彼の顔には、クラスをまとめきれなかったことへの疲労と、それでも前に進もうとする生真面目さが滲んでいる。
「ああ。まあな」
俺は鞄から出したままにしていた端末の画面をタップした。
『刃叉羅:ごめん、椎名さん。クラスで今後のことについて話し合いがあるみたいだから、少しだけ図書室に行くのが遅れる。本当にごめん』
送信ボタンを押すと、数十秒も経たないうちに返信が来た。
『椎名ひより:気にしないでください。クラスの話し合い、大変ですね。私は図書室で本を読みながら待っているので、呉さんのペースで来てくださいね。頑張って!』
(――――天使ッ!!)
俺は端末の画面を拝みそうになるのを必死に堪えた。どんな時でも彼女の優しさは俺の心を浄化してくれる。暗殺者として血塗られた人生を送ってきた俺にとって、この純度100%の善意は眩しすぎる。
「別に、用事がなかったわけじゃないけどな」
俺は端末をポケットにしまい、平田に向き直って軽く肩をすくめた。
「お前みたいな真面目な奴が、馬鹿な連中の尻拭いで一人で苦労してるのを見ると、さすがに少し同情する。大した力にはなれないが、話し合いの数合わせくらいにはなるだろ」
「呉くん……。ありがとう、本当に助かるよ」
平田はパッと顔を輝かせ、深く頭を下げた。
俺は別にクラスのために行動しているわけではない。ただ、平田という『善人』の努力が、あまりにも報われないのが少しだけ哀れに思えただけだ。
こうして、残された半数の生徒たちによる、Dクラスの生き残りをかけた話し合いが始まった。
「とにかく、これ以上の減点を防ぐことが最優先だ。授業中の私語や居眠りは絶対にやめること。それから、遅刻や無断欠席も厳禁だ。みんな、気をつけて生活しよう」
「うんうん、平田くんの言う通りだね! みんなで協力して、来月は絶対ポイントもらえるように頑張ろっ!」
平田の真面目な提案に、櫛田が持ち前の明るさで合いの手を入れる。彼女の存在のおかげで、重かった教室の空気が少しだけ前向きなものになっていた。
「それと、問題は赤点回避のための勉強会だね。……幸村くん、みーちゃん、それに呉くん。君たちは小テストの点数が高かったから、もしよかったら教える側に回ってくれないかな?」
平田に話を振られ、俺は腕を組んで頷いた。
「俺は構わないぞ。ただ、人に教えるのが上手いかは別問題だがな」
「ありがとう、呉くん! 助かるよ。幸村くんは……」
「俺は断る」
眼鏡を押し上げながら、幸村輝彦が冷たく言い放った。
「なぜ俺が、出来の悪い連中の世話を焼かなきゃならない。俺は俺の勉強で忙しいんだ。お前たちで勝手にやれ」
「でも幸村くん、もし誰かが赤点を取って退学になれば、クラス全体の大きなペナルティになるかもしれないんだよ?」
「なら、そんな連中はさっさと退学になればいい。足を引っ張る無能がいなくなった方が、クラスの平均点も上がるだろうが」
幸村の言葉に、教室の空気が再びピリッと張り詰める。
(……こいつもこいつで、極端な思考回路だな)
俺は内心で呆れ返った。確かに数字上の平均点は上がるかもしれないが、仲間を見捨てるようなクラスが、この先の理不尽な試験を勝ち抜けるとは思えない。
「まあまあ、幸村くんにも都合があるもんね! じゃあ、勉強会は私と平田くん、それに呉くんやみーちゃんで中心になって進めよう!」
櫛田がすかさずフォローを入れ、場を収めた。
結局、話し合いは『生活態度を改める』『有志で勉強会を開く』という、極めて常識的で、だが根本的な解決には至らない結論で幕を閉じた。
(たいした話にはならなかったな。肝心の赤点候補の連中がいないんじゃ、どうにもならない)
俺は時計を見て、小さく息を吐いた。
すでに放課後の貴重な時間が、三十分以上も経過している。
「俺は用事があるから、これで帰るぞ。勉強会の日程が決まったら教えてくれ」
「うん、ありがとう呉くん。引き止めてごめんね」
平田と櫛田に軽く手を上げ、俺は逃げるように教室を出た。
足は自然と、図書室へ向かって早足になる。
こんなドロドロとしたクラスの争いなど、俺の知ったことではない。俺の心はすでに、あの静寂な空間で待つ銀髪の天使のもとへと飛んでいた。
図書室の重厚な扉を押し開け、いつもの奥の書架へと向かう。
西日が差し込む窓際の席。そこには、開いた文庫本に静かに目を落とす椎名さんの姿があった。
夕陽を浴びてキラキラと輝く銀髪。長い睫毛。まるで一枚の絵画のようなその光景に、俺は苛立っていた心がスッと凪いでいくのを感じた。
「……遅れてごめん、椎名さん。待たせたな」
俺が声をかけると、彼女はパッと顔を上げ、花が咲くような笑顔を見せた。
「呉さん! お疲れ様です。話し合い、大変でしたね」
「ああ……まあな。いろいろと疲れたよ」
俺は彼女の向かいの席に腰を下ろし、深く溜め息をついた。
「ポイントのこと、聞いたか? Aクラスから順にポイントが割り振られていて、学校全体でクラス間の競争をさせられるシステムらしい。うちのクラスは、ついにゼロポイントになっちまった」
俺がそう説明すると、椎名さんは少しだけ眉を下げ、悲しそうな顔をした。
「Cクラスのホームルームでも、先生から同じような説明がありました。ポイントはクラスの成績や態度で変動すると……。つまり、これからはクラス同士でポイントを奪い合う、本格的な争いが始まるということですね」
「……ああ。そういうことだ」
俺は、机の上でギュッと拳を握りしめた。
これから俺の口にする言葉は、俺自身の心をナイフで抉るようなものだ。暗殺者として、あらゆる事態を想定し、最も『安全な選択』をしなければならないという冷徹な思考回路が、一つの結論を導き出していた。
「……なあ、椎名さん」
俺は努めて平坦な、感情を押し殺した声を出した。
「本格的にクラスの争いが始まったら、他のクラスの生徒と仲良くしているのは、変に疑われたり、目をつけられたりする原因になるかもしれない。特に、椎名さんのいるCクラスは……」
先日、彼女が言っていた言葉を思い出す。『一人の生徒がクラス全体をまとめている』という、独裁的な空気。もしそのリーダーが、他クラスとの交流を「敵との内通」とみなしたら、おとなしい彼女がいじめや攻撃の標的にされる可能性は十分にある。
(ッ……!! もしそんなことになったら、俺はそいつを絶対に許さない! 寝首を掻いて東京湾に沈めてやる!!)
内心では血の涙を流し、暗殺者としての本能を爆発させそうになりながらも、俺は必死に声を振り絞った。
「だから……俺たち、もうあんまり、今までみたいに仲良くしないほうがいいか? 図書室で会うのも、少し控えた方が……」
その言葉を口にした瞬間、俺の心はズタズタに引き裂かれていた。
青春の終わり。天使との決別。
彼女に迷惑がかかるくらいなら、俺が身を引くべきだ。それが、彼女を守る一番確実な方法だから。
だが。
「――そんなこと、言わないでください」
静かな図書室に、凛とした、だがどこか怒気を孕んだ椎名さんの声が響いた。
顔を上げると、彼女は文庫本を強く胸に抱きしめ、悲しそうに、そして強く俺の目を見つめ返していた。その色素の薄い瞳には、うっすらと涙の膜が張っているように見えた。
「私は……クラスの争いなんて、興味がありません。Aクラスに上がることよりも、ポイントをもらうことよりも……こうして、呉さんと一緒に本を読んだり、お話ししたりする時間の方が、ずっと、ずっと大切なんです」
「椎名さん……」
「呉さんが気にしてくれているのは、私がクラスで孤立したり、目をつけられたりするかもしれないから、ですよね? 優しい呉さんのことだから、私の心配をしてくれているんだと思います。でも……」
椎名さんは、自分の胸元で小さな両手をギュッと握りしめた。その手が、微かに震えている。
「私は、呉さんと会えなくなる方が、よっぽど辛いです。……呉さんは、違うのですか? 私と会えなくなっても、平気なんですか?」
潤んだ瞳から、ついに一筋の涙がこぼれ落ちた。
不安そうに、そしてすがるように俺を見つめてくる天使。
(――――――――――――ッッッ!!!!!!!)
俺の心の中で、理性という名のストッパーが完全に弾け飛んだ。
もう我慢の限界だ。悶絶なんてレベルじゃない。俺の精神は、彼女の涙と健気さの前に完全にひれ伏した。
クラスの争い? ポイント? リスク管理?
知るかそんなもの! この世界で一番優先されるべきは、目の前で泣きそうな顔をしているこの少女の心を守ることだ!
暗殺者としての冷徹な思考など、この一瞬で宇宙の果てに消し飛んでいた。
「違う……! 平気なわけないだろ!」
ガタッ! と椅子を鳴らして身を乗り出した俺は、机の上にあった彼女の小さな手を、思わず両手で包み込んでいた。
「ひゃっ……」
俺のゴツゴツとした、血と硝煙に塗れてきたはずの大きな手が、彼女の白くて柔らかい手をすっぽりと覆い隠す。
「俺だって、この時間が1番大切だ!椎名さんと会えないなんて……俺にとっては、拷問より辛い」
暗殺者として、本物の激痛に耐える訓練を受けてきた俺が言うのだから間違いない。物理的な痛みなど、彼女を失う痛みに比べれば蚊に刺されたようなものだ。
「俺の勝手な思い込みで、椎名さんを傷つけて本当にごめん。……俺も、椎名さんに会えないのは絶対に嫌だ」
熱に浮かされたように、一気に本音を吐き出してしまった。
自分の言葉の熱量に気づき、ハッとして手を離そうとしたが、椎名さんは俺の手を逆にギュッと握り返してくれた。
「ふふっ……」
彼女の瞳からポロポロとこぼれていた涙が止まり、代わりに、太陽のように暖かく、柔らかい笑顔が浮かんだ。
「嬉しいです。……呉さん、ありがとうございます」
紅く染まった頬。涙に濡れた睫毛の奥で、嬉しそうに細められた瞳。
俺の手に伝わる、彼女の確かな体温。
「私の方こそ、これからも……ずっと、一緒にいてくださいね。刃叉羅くん」
(――ッッ!! 下の名前で……!!)
俺の脳は完全にショートし、心臓が早鐘のように鳴り響いた。顔がショートケーキのイチゴよりも真っ赤になっているのが、自分でもわかる。
「あ、ああ……! 当たり前だ! もしクラスの連中がひよりに何か言ってくるようなら、俺が全部、物理的に……いや、なんとかして守るから! 絶対に、守り抜くから!」
「ふふっ、物理的に、ですか? 刃叉羅くんは頼もしいですね」
椎名さんはクスクスと笑いながら、俺の手をさらに優しく握ってくれた。
クラスは絶望のどん底にあり、水面下ではポイントを巡る醜い争いが始まろうとしている。
平田や櫛田が必死に足掻き、孤高の少女が牙を剥く、この狂った箱庭。
だが、そんな血生臭い闘争の裏側で。
暗殺者の少年は、一人の天使との間に、誰にも邪魔されない絶対的な『青春の聖域』を、確かに築き上げていたのだった。