襲撃から三日が経っていた。研究所はどうにか平静を取り戻しつつある。破損した設備の修復は順調に進み、負傷者達も医療班の尽力によって快方へ向かっていた。終夜の状態も安定している。数字だけを見れば状況は改善していると言っていい。それでも研究所全体を覆う空気は重かった。
誰もが忙しく働いている。技術班は徹夜続きで端末に張り付き、制御室の灯りは昼夜を問わず点いたままだ。医療区画も人の出入りが絶えない。普段と変わらない光景のはずだった。けれど、どこかが違う。食堂では笑い声が減り、廊下ですれ違う研究員達も必要以上に言葉を交わさない。皆が同じことを考えているからだ。
悟がいない。
たった一人欠けただけなのに、研究所全体から何か大切なものが抜け落ちたようだった。
夏油は副所長室の窓辺に立ちながら、ぼんやりと東京の夜景を見下ろしていた。高層階から見る街は今日も明るい。無数の灯りが地上を埋め尽くし、その上を覆うように巨大な術式が脈打っている。東京呪力結界。研究所最大の成果の一つであり、悟が何年もかけて完成させた術式だった。
完成した日のことを思い出す。あの日の悟は珍しく上機嫌だった。研究員達に自慢しただけでは飽き足らず、半ば強引に夏油を屋上へ連れ出し、得意げな顔で結界を見上げていた。
「どう?」
その一言だけで褒めてほしいのが丸分かりだった。だから凄いねと答えたのだが、今思えばあれは失敗だったのかもしれない。悟は満足そうに笑った後、勢いそのままに三日近く徹夜して倒れたからだ。結局、医療区画へ担ぎ込まれた時には研究員全員から説教されていた。
その時の事を思い出すと、いつだって五条への甘い想いが溢れ出す。
うっかりで婚約したふうな様子を装っているが、実際あれはうっかりだったが、私は悟に惚れ抜いていた。自分でも信じられないほど、悟を愛している。それこそ、命を共有しても構わないほどに。あの時に戻れたら、また同じ事を……いや、どんな事をしてでも指輪を嵌めただろう。それほどに好きだ。悟に全部を貰った。だから全部をあげたい。私にとって悟はそんな存在だ。
溢れ出る想いに少しだけ口元が緩む。しかし、その笑みは長く続かなかった。無意識に左手へ触れてしまったからだ。
薬指には指輪がある。術式共有のための呪具。婚姻の証。そして今は沈黙の証明だった。
三日前から何度呼びかけても返事がない。海外任務の時も、長期実験の時も、こんなことはなかった。どれほど離れていても何らかの反応は返ってきた。喧嘩をしていた時ですらそうだった。呼べば返事がある。それが当たり前だった。だからこそ今の沈黙が恐ろしい。
生きているのだろうか。
その考えが頭をよぎった瞬間、夏油は小さく首を振った。考えるな。今はまだ考えるべきではない。悟は強い。自分が知る誰よりも強い。優人も一緒だ。あの子はまだ幼いが、肝心なところでは驚くほどしぶとい。自分の全てを刻んできたし、周囲に止められながらも強行して特級呪霊を持たせてある。だから大丈夫だと自分に言い聞かせる。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「副所長」
入ってきたのは伊地知だった。いつも以上に疲れた顔をしている。襲撃後の対応で休む暇もないのだろう。
「総監部への車が到着しました」
その言葉に夏油は窓の外から視線を戻した。今日はいよいよ総監部との交渉の日だった。
研究所だけで悟を助けることはできない。世界を越えるためには膨大な準備が必要になる。設備も、人員も、資材も、そして何より許可が必要だった。研究所は東京に深く根を張っている。東京呪力結界を管理し、各種研究施設を運営し、複数の企業とも提携している。そんな組織が何の説明もなく消えれば混乱は避けられない。
だから総監部と話をしなければならない。
悟なら嫌がるだろうと思った。そもそも許可を取るという発想自体が気に入らないはずだ。どうせ最後には、後で怒られればよくない、などと言い出すに違いない。
だが今ここに悟はいない。
だから自分がやるしかない。
「行こうか」
そう言って部屋を出た夏油は、歩きながらもう一度だけ指輪に触れた。返事はない。それでも構わない。迎えに行く。そのためなら頭だって下げるし、譲歩だってする。悟が後でどれだけ怒ろうと構わない。怒るためには生きて帰ってこなければならないのだから。
呪術高専に向かうと、いつだって夏油の心は締め付けられる。
灰原の笑顔を思い出し、それのない寒々しさに凍えそうになる。
ここはもう私の居場所ではない。
乱立する寺などの見た目をした建物。昔ながらの家屋。東京にありながら自然豊かで平成の世にあって古臭い。そして静かで閑散としている。研究所とはまるで違う。
研究所は騒がしく、散らかっていて、誰かがいつも議論し、誰かが叫び、誰かが余計な実験を始める場所だった。悟がいる時など特にそうだ。けれど、そこには熱がある。ここにはそれがない。静かで、正しくて、ひどく冷たい。
案内された会議室には、既に数人の幹部が座っていた。国、東京都、関係企業、そして総監部の代表。どの顔も見覚えがあり、同時に、研究所に好意的ではないことも分かりきっていた。国はまだ呪術を受け入れていないし、総監部は呪術の公開にいまだに反対の立場だ。歓迎されていない場に足を踏み入れることには慣れている。それでも今日ばかりは、普段より息苦しかった。
席に着くと、形式的な挨拶の後に会談が始まった。最初に並べられたのは予想通りの反対意見だった。並行世界転移など危険すぎる。前例がない。失敗した場合の責任は誰が取る。研究所が消えれば東京はどうなる。どれも正論だったので、夏油はすぐには反論しなかった。ここで感情的になっても意味はない。相手が求めているのは納得ではなく利益だ。こちらが何を差し出せるのか。それを理解させなければ会談は進まない。
夏油は相手の反応を観察した。国は電力を、都は結界を気にしているようだった。総監部はレギオン関連の資料へ目を向けている。企業陣もこっそりと資料の記録をとっているのが丸わかりだ。心配しなくとも、今回は資料を回収しないのだが。
夏油は意を決して顔を上げた。
研究所の技術は総監部にとって魅力的だ。だが、それ以上に東京呪力結界は失えない。研究所が移動するなら、東京の安全をどう維持するのか。総監部にとってそれは避けて通れない問題だった。
「研究所が転移した場合、東京呪力結界の管理権を総監部へ移譲します。東京呪力結界は、予備の施設をすでに建設してあります」
会議室の空気がわずかに変わった。先ほどまで夏油の話を値踏みするように聞いていた結界管理局長が、初めてはっきりと顔を上げる。夏油はその反応を見て、資料を机の中央へ滑らせた。
悟が用意していた隠れ家。それを売り渡させてもらう。ごめん悟。
夏油はカードキーを置いた。
「予備の研究所には今の研究所の代替機能が全て揃っています。中枢管理権、運用マニュアル、教育プログラム、保守用の術式群。必要なものは全て引き渡します。研究所がなくなって例え戻らずとも、東京が困らない体制を整えるつもりです」
総監部の人間達は互いに視線を交わした。拒絶の空気が、計算の空気へ変わっていく。夏油はそれを待ってから、次の資料を開いた。
「加えて、呪力炉の基礎理論、結界解析補助システム、レギオンの基礎運用理論も一部開示します。もちろん、終夜と現在稼働しているレギオンは対象外です。そこは譲れません」
「随分と気前がいい」
幹部会の代表が言った。皮肉の混じった声だったが、先ほどまでのように即座に却下する響きはない。
「必要だからです」
「そこまでして、五条悟を取り戻したいと?」
悟の名が出た瞬間、夏油の指がわずかに動いた。表情は変えなかったつもりだったが、幹部達の視線が一斉にこちらを向いたので、完全には隠せなかったのだろう。
ここで否定しても意味はない。悟の消失は既に知られている。優人のことまでどこまで掴まれているかは分からないが、少なくとも研究所が急いでいる理由は察されているはずだった。一ヶ月の期限は、既に知られている。
「取り戻します。でないと私も死んじゃいますしね」
夏油はおどけて言った。だからこの件について妥協はないと暗に念押しする。
「五条悟は研究所の所長です。東京呪力結界の設計者であり、六眼システムの管理者であり、終夜の開発責任者でもあり、私の生命維持装置でもある。失うわけにはいきません」
そこまで言って、少しだけ間を置く。公的な理由ならいくらでも並べられる。総監部が納得しやすい理由も用意してある。けれど、それだけで終わらせたくなかった。
「そして、私の家族です」
会議室が静まり返った。
悟なら、そういうことをここで言うなと怒るだろう。総監部相手に弱点を晒すなんて馬鹿だと言うかもしれない。けれど夏油は言った。隠したところで仕方がない。どうせ知っている。ならば最初から、譲れないものだと示しておいた方がいい。
代表者はしばらく夏油を見ていた。どこまで本気か測っている顔だった。夏油も視線を逸らさなかった。やがて代表者が小さく息を吐き、資料へ視線を戻す。
「条件付きで許可を出しましょう」
その言葉を聞いても、夏油は安堵しなかった。許可が下りたから終わりではない。むしろここから始まるのだ。技術移譲の準備、結界管理権の引き渡し、転移装置の調整、終夜の維持、研究員の選定、総監部への監査対応。やることはいくらでもある。
総監部は時間の引き延ばしという嫌がらせもやりかねない。できうる限り早く動かねばならない。まだ三日ではない。もう三日経っているのだ。
だが、道は開いた。
悟を探しに行ける。
それだけで十分だった。
会談が終わった時には、外はすっかり暗くなっていた。総監部の廊下を歩きながら、夏油は一度だけ振り返った。この場所に頭を下げた。悟を助けるために、悟が命懸けで作ってきた技術をこれでもかと差し出した。後でどれほど怒られるだろうかと考えると、少しだけおかしくなる。
怒ればいい。
いくらでも怒ればいい。
そのためには帰ってきてもらわなければならない。
車に乗り込むと、ようやく一人になった。運転席との間には仕切りがあり、車内は静かだった。窓の外では東京の灯りが流れていく。その一つ一つを、悟の作った結界が守っている。だからこそ置いていけなかった。総監部が嫌いでも、彼らに頭を下げるのが屈辱でも、東京を見捨てることだけはできなかった。
夏油は指輪へ触れた。
『悟』
心の中で呼びかける。
返事はない。
『許可は取れたよ』
やはり返事はない。
『東京呪力結界も引き渡す。君が聞いたら怒るだろうね』
返事はなかった。
分かっている。分かっているのに呼んでしまう。学生の頃から、何かあれば最初に呼ぶ相手は悟だった。腹が立った時も、困った時も、呆れた時も、嬉しかった時も、結局は悟に話していた。返事があるのが当たり前だった。
今だけが違う。
夏油は目を閉じた。研究所へ戻れば弱音は吐けない。新がいる。終夜がいる。研究員達がいる。副所長として、悟が戻るまで研究所を支えなければならない。
だから今だけだった。
「早く帰ってきてくれ」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
車は夜の高速道路を走り続ける。
その先には研究所がある。
悟を取り戻すための準備が、ようやく始まろうとしていた。
夏油が五条に惚れた理由
実は初対面からメチャクチャ顔がいいとは思っていた。
後、車椅子なのも、夏油は世話焼きなので逆に守ってあげなければと好印象だった。
半身不随なのに研究成果を上げているのも人間的に尊敬できると思っていた。
世話焼きなので我儘なところもGOOD。
守りたがりなので不憫な所も守ってあげなきゃポイント。
必要とされてる感じがなんとも言えず最高。
根は善良なのがいい。
育ちがいい所も好き。
なんと夏油にとってのマイナス要素が皆無という奇跡。
理想が服着て歩いてるので、これで好きにならなければ嘘である。
でも決定打は灰原を失って精神的に荒れていた時に聞いた研究の話。
「呪霊ってようはエネルギーに乗った負の感情だろ? 全部電力に変えちゃって思って」
五条にとっては数ある研究の一つ。
でも夏油にとっては世界を変えるほどの衝撃だった。
呪霊のない世界の実現。
それ以来、夏油は五条を誘導したし、応援したし、協力してきた。
五条は夏油の理想への手段であり、神様であり、全部になった。
東京呪力結界を実現して、ドヤ顔で「どう?」と聞いた五条に完全に落ちた。
というか、でなければプライドの高い夏油が受けになど回らない。
皆には周囲を全方位誑かす男と見られているが、本人的には一途で悟しか見えてない。
でもちょっと自分の野望の為に悟を利用してて悪いな、とは思ってる。
マシュマロ
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