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五条悟が目を覚ました時、最初に感じたのは身体の重さだった。
睡眠薬の残滓がまだ身体の奥に沈んでいる。頭はぼんやりしているし、喉も乾いている。けれど思考そのものは動いた。動いた瞬間に、まず自分の状態を確認する。
生きている。
怪我は増えていない。
車椅子も近くにある。
傑の呪力の気配がする。
そして、自分は長い間眠らされていたらしい。
身体の感覚がそう告げていた。空腹感も、筋肉の硬さも、一晩程度では説明がつかない。少なくとも数日。もしかすると、それ以上かもしれない。
五条はしばらく天井を見上げていたが、やがて大きく息を吐いた。
「優人……」
怒るべきなのは分かっている。
気絶させられた。
生得領域へ押し込まれた。
睡眠薬まで使われた。
説教は確定だった。
だが、それと同時に別の感情もあった。
あの子は本当にやり遂げたのだ。
金もない。
後ろ盾もない。
頼れる人間もいない。
それなのにこちらの世界の夏油傑を見つけた。
並行世界で。
小学校一年生の身体で。
やったことは滅茶苦茶だが、成果だけ見れば信じ難い。
自分の子ながら、とんでもない。
そんなことを考えていると、部屋の扉が静かに開いた。
「起きたかい」
聞き慣れた声だった。五条はそちらを見る。
そこに立っていた男を見た瞬間、思わず目を細めた。
「傑」
「そうだよ」
顔は知っている。声も知っている。けれど服装が違う。
白衣ではない。
研究所の制服でもない。
宗教家のような黒い衣装だった。
しかも妙に似合っている。並行世界の夏油傑だった。悟の傑ではなく。
五条は数秒眺めてから率直な感想を口にした。
「何その格好」
「教祖だからね」
「教祖」
「そう」
「傑が?」
「私が」
五条は黙った。
似合う。似合うのだが、意味が分からない。
研究所副所長でもなく。護衛でもなく。助手でもなく。
教祖。
想像もしてなかったが、本当に似合っていた。教祖も衣装も。悟の知る傑も、人誑かしはお手の物だった。むしろ天職かもしれない。僕がいないとそうなるのか君。
「なるほど」
五条は小さく呟いた。
「並行世界の夏油傑、ね」
「予想していたのかい」
「一応ね」
研究所は消えていたし、東京呪力結界もなかった。自分の口座も存在しておらず、ネットの情報から過去でもない。途中までの歴史は同じ。なら並行世界が一番自然だった。驚いているのは世界の方ではない。
目の前の夏油傑だった。
「優人は?」
「休ませている」
「そう」
少し安心する。
起きたら説教だ。
かなり説教だ。
だが褒めるところは褒めなければならない。
その考えが顔に出ていたのか、夏油が少し眉をひそめた。
「褒める前に叱りなさい」
「叱るよ」
「本当に?」
「本当に」
五条は苦笑した。
「薬は駄目だし、監禁も駄目。でもさ」
「でも?」
「夏油傑を見つけたんだよ。そこは褒めなきゃ」
夏油は額を押さえた。
「そういうところだよ」
「褒めるところと叱るところは別」
「だから暴走するんだ」
「それはそう」
否定できなかった。
その時、扉の向こうに気配を感じた。
少女が二人。新より大きい、でも子供。こちらを窺っている。
五条は覚悟を決めた。自分が死んでる世界だ。傑の束縛は出来ない。会ってない人から浮気を責められてもホラーなだけ。
「傑の子供?」
「まさか。私は独身だよ。あの子たちは保護した子。娘同然だけどね」
「へえ」
ホッとして、ついでに納得した。
どんな世界でも、夏油はそういうことをする。
困っている子供を放っておけない。そこは変わらないらしい。
少しだけ安心した。それに独身。そうだ、夏油傑の心を射止められるのは自分だけ。
だが、その安心は長く続かなかった。
「私は呪詛師だ」
夏油が静かに言ったからだ。
五条は一瞬言葉を失った。
そんなまさか。けれど、そういえば一時期とても苦しく、自分に救われたのだと言っていた。
自分がそばにいなかったから。並行世界のこととはいえ、五条は胸を痛めた。
「何があったの」
自然とそう聞いていた。
夏油は少しだけ目を伏せる。
長い沈黙が落ちた。
その沈黙だけで、軽い話ではないと分かった。
「理子ちゃんを守れなかった」
最初に出てきたのは、その名前だった。
五条は眉をひそめる。聞いたことがある気はするが。何処だったか⋯⋯。
夏油は続ける。
「星漿体だよ」
そこで五条はようやく理解した。
天元と星漿体。定期的な同化システム。
六眼の因果。五条を殺して新しい六眼を招く提案をしたもの。車椅子だった五条は、自作の呪具は提供したがそれだけだった。そもそも自分の処分を申し出た人間を守りたいとも思わなかったし。
「それで?」
「失敗した。私は守れなかった。死なせてしまったんだ」
深い悔い。夏油が悲しんでるので五条も悲しかった。天元はどうでもいいが、夏油は責任感がある。嫌いな相手のことでも心を痛められる人間だ。さぞ傷ついたのだろう。
「それから灰原が死んだ」
その名前は聞いたことがあった。
夏油が酒を飲みすぎた時。あるいは深夜に珍しく眠れなかった時。何度か名前だけは出たことがある。けれど聞いても詳しい話は聞かせてもらえなかった。夏油は五条に多くを語ってくれない。寂しいと思う。
それでも傑が話したくないことなら、悟が聞くことは出来ない。ただ一つ知っていた単語を言ってみる。
「後輩?」
「そう」
夏油は静かに頷いた。
「良い子だった」
それだけだった。
だが、その一言だけで十分だった。
大切な人だったのだろう。五条は悲しい。夏油は愛をそこら中に配る。
「そして」
夏油は続ける。
「非術師に虐待される美々子と菜々子を見た」
扉の向こうで気配が揺れた。
五条は黙って耳を傾ける。
「もう駄目だった。だから私は2人を虐待していた村を滅ぼし、術師を搾取する非術師を殺すことを決意した。そして手始めに両親を殺したんだ。自分の親だけ例外にはできない」
夏油の声は平坦だった。
平坦すぎた。
何度も何度も思い返して、擦り切れてしまった人間の声だった。
「私は耐えられなかった」
五条は何も言えなかった。
理子。
灰原。
菜々子と美々子。
全部初めて聞く話だった。
自分の知らない夏油傑の人生だった。
でも自分の傑と全く関わりのないこととは断言できなかった。傑も苦しんでいたのは知っていた。同じ経験と思いをしていたかもしれず、違いは自分の存在だったのだろう。
五条は夏油の手を握って自分の頬に当てた。
「傑も灰原の名前言って魘されてたよ。僕には全然話してくれなかったけど。なにせ僕の体はこうで、何も出来ないからね」
「それは違うだろう。そちらの私が折れなかったのは君が希望になったからだ。多分⋯⋯いや、絶対。君が私を救ってくれた」
「そうだと嬉しい。傑は優しいからさ。僕の事は助けてくれるけど、頼ってはくれないんだ。夫婦なのに俺は傑のこと何も知らない。ご両親に挨拶だってさせてくれなかったし」
監視役として近付いてきた頃の話も。
総監部時代の話も。
嫌だった出来事も。
嬉しかったことも。
ほとんど聞かせてくれなかった。
だから五条は2人で紡いできた今の積み重ねしか知らない。五条は静かに目を伏せた。夏油のことになると、嫌になるほどに貪欲になるのに、及び腰にもなってしまう。そして、夏油の胡散臭い笑みに何もいえなくなるのだ。
「そうか」
夏油は少しだけ驚いたようだった。呪詛師になっていることを非難されると思ったのかもしれない。
だが五条が何か言えるはずもない。
その場にいたわけでもないし、傷ついたのは夏油当人だろうから。
ただ力になれなかったことが悲しかった。
「傑らしいね」
ぽつりと呟く。
「何がだい」
「子供を助けるところ」
夏油は答えなかった。
けれど否定もしなかった。
部屋の中に静かな沈黙が落ちる。
五条は天井を見上げながら考えていた。
今、こちらの傑ならば。
色々話してくれるのだろうか。
傑の思い、気持ち、過去。本当は何でも知りたかった。でも卑怯な気がして、口を閉じた。
無性に傑に会いたかった。悟の傑に。
マシュマロ
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