夏油は、猿を糞だと思っている。
だが同時に、術師だけの世界だって同じくらい糞だとも思っている。
どちらが正しいかではない。
結局は、その人間自身が、いい人なのかどうかだ。
本当の善を知り、本当の悪を知った今では、そう思っている。
その基準で言えば。
夏油は、どうしようもなく悪い子で。
虎杖は、底抜けにいい子だった。
虎杖は眩しくも懐かしい、夏油にとって失ったキラキラしい過去だった。
幼女を二人抱えたまま、異世界に転移した。
ヒーローに助けられ、圧倒的な善意を知った。
AFOに囚われて、圧倒的な悪意を知った。
そこから先の記憶は、あまり思い出したくない。
体を弄られた。性別すら弄られた。
術式を解析された。個性を埋め込まれた。
自分の力で、自分が嫌悪することを何度もさせられた。
正義感を利用され、正義の基準を何度も揺らされ、最終的に自分を騙すことすらできない悪に堕とされた。
自分を騙してまでも正義の側に立とうとした自分は。
滑稽なほど、無力な道化だった。
私はヒーローではなく、筋金入りの偽善者だった。
私は善を為したいのではなく、善の側にいたかっただけだと思い知った。
気がつけば。
大義さえ、掲げられなくなっていた。
だからこそ、虎杖に出会った時。胸の奥が、じんわりと温かくなった。
忘れていたものを、思い出した。
「……綺麗事、か」
ぽつりと呟く。
あの男は、それを本気で信じている。
疑いもせずに。
折れもせずに。
愚かだ。
眩しすぎる。
――そして。
救われてしまう。
私もかつて、無邪気に純粋に、善意を信じていた時があったのだ。
何よりも大事な親友とのキラキラした日々。決して戻れない青。
悟が、未来であり太陽だとするなら、虎杖は、過去であり日向でありアルバムだった。
焼き尽くすような光ではなく、容赦無く蝋の翼を溶かす圧倒的な高みではなく。
ただ、そこにあって、見ているほど胸が暖かくなる。
虎杖くんとなら、虎杖くんの為なら。
もう一度だけ、頑張れる気がした。
そして両面宿儺なら。
あの呪いの王なら。
この魔王を、倒せるはずだ。
だから。
隙を見て、協力を願った。
指を集め。
呪霊に膝を折り。
器を整え。
限りなく完全に近い状態で、呪いの王を個性の女王にぶつけた。
――結果。
叩きのめされた。
呪いの王が。
呪いを持たない、非術師の女に。
理解が、追いつかない。
だが、このままでは絶対にまずい。
呪いの世界に、この者達を招いてはいけない。
呪いだけでも厄介だというのに、そこに“個性”が混ざる。
呪術は、心に沿う。憎しみが力となる。
だが。
個性は――
個性は、心を添わせる。凶悪な個性が凶悪な心を産む。
卵が先か、鶏が先かと個性社会のものは言うが、夏油からしたら結果は明らかだ。なにせ幼児の心構えがもう違う。
そして、異形の姿で 異形の心を持ち、異形として扱われて異形に成り果てる。最悪の連鎖。一度ヴィラン向きの個性で生まれてしまえば、這い上がる事は至難の業だ。
呪いの世界の闇が薄闇から徐々に暗くなる闇なら、個性社会の闇はメリハリのある黒だ。ヒーローという圧倒的な光からそれた途端、真っ暗で這い上がれない闇と化す。
ーーAFOは、すでに動いている。
静かに。
確実に。
呪いの世界へと、根を張っている。
最初に削るのは。
――悟だ。
非術師に対して呪術は使えない。だが、個性は呪術ではない。その“隙間”を突く。
ルールを守る者は、ルールに縛られる。
ならば。
ルールそのものを、歪めればいい。
六眼で見ても、個性の持ち主は“ただの人間”。
いくら悟でも、いや悟だからこそ、見えない敵意はたやすく刺さるだろう。
――悟。
ーーごめん。
ーー君を守りたかった。
――美々子。菜々子。
ーー許してくれ。
暗い地下室。光はない。
ただ、沈むだけの空間。
頭を突如掴まれて、目の前の圧倒的存在感を認識する。
つい一瞬前まで、何も感じ取れなかった。
個性の女王。
あまりにも個性的すぎる女。
女が口早に命令した。それもまた命令という名の個性。
「五条悟についての全てを思い出せ」
記憶が、引きずり出される。
「あああああっ!!」
悟との時間。
笑った日。
喧嘩した日。
全部。
全部、勝手に。
暴かれる。
止められない。
何度も。
何度も。
何度もリピートする。
ーーやめろ。
ーーやめろ。
ーーやめてくれ。
やがて満足したのか、女は頭から手を離した。
「夏油 傑」
声が、落ちる。
「あなたには、五条悟に嫌われてもらうわ」
息が止まる。
「……百鬼夜行でもするかい?」
皮肉。
だが。
「あの五条悟が、その程度で貴方を嫌うはずがないでしょう」
即座に否定される。
理解している。
悟という人間を。
正確に。
「だから、虎杖くんにメス堕ちしている所を見せつけてもらうわ」
静かに。
冷たく。
「手順は、追って通達します」
決定事項として。
抗う余地など、最初からない。
覚悟は、していた。
AFOは私を母体に使うと常々言っていた。器として優れているから、別の意味で器として優れている虎杖くんと掛け合わせたいと。
だが。
それでも。
悟にだけは。
見られたくなかった。
涙が、落ちる。
止まらない。
「……数多様」
声がする。
「骸。どうしたの?」
AFOの側近の女の声。
私と同じスペアであり実験体の一人。
「虎杖悠仁が行方不明の件で、五条悟が責任を問われる可能性があります。秘匿死刑を求刑されているとか」
「虎杖くんは解放します」
結論が先にあるかのような早口。
「ただ、いくつか縛りを結ばないとね」
それだけ言って悪魔は、去っていく。
――おかしい。
まるで、慌てて庇うかのような。
だが。
そんなはずはない。
あの女が。
あの悪魔が。
――五条悟を、気遣うなど。
あり得ないのだから。
マシュマロ
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