その日の夜は静かだった。
宗教施設の奥に用意された部屋で、五条悟は車椅子に座ったまま窓の外を眺めていた。並行世界と言っても、空は同じはずだ。それなのに、どこか違って見えた。研究所の照明もなければ、モニターの光もない。深夜まで稼働している研究設備の音も聞こえない。代わりに聞こえるのは風の音と虫の声だけだった。
静かな夜だった。
だからこそ考えてしまう。
今日聞いた話を。
理子という少女のことを。
灰原という少年のことを。
美々子と菜々子のことを。
そして、その全てを抱えたまま呪詛師になった夏油傑のことを。
向こうの傑は何も話してくれなかった。
それでも、今傑が隣にいてくれるならいいと思っていた。
知る必要がないと思っていたわけではない。
知りたくなかったわけでもない。
ただ、色々な事を諦めるのに慣れていた。
研究所で一緒に働いて、同じ目標を追い掛けて、時々喧嘩をして、毎日のように顔を合わせていた。過去に何があったとしても、今の傑がそこにいるならそれでいいと納得したはずだった。
傑の痛みを思うと悟の胸も痛くなる。そして、悟がいないと傑が道を踏み外す事実。
傑が繰り返し言っていて、信じてなかった言葉は事実だった。
「僕がいないと生きてけない、か。喜ぶな僕」
やっぱり傑の全てが欲しい。当たり前のことを自覚する。毎秒好きを更新していく。夏油傑は人誑かしだった。
「向こうの私はそんな事を? 否定しきれないのが悔しいな」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、夏油が立っていた。
教祖服姿にもだいぶ慣れてきたが、それでもまだ違和感はある。
五条は少しだけ笑った。
「僕もそうだよ。傑がいないとどこにも行けない」
「君は唯一だけど、私は別の人でも問題ないだろう」
「傑じゃないと今はないよ。呪霊を電力に変える研究はメイン研究じゃなかったんだ。ほんの思いつきで、傑が望まなければ完成はしなかったと思う。そもそも僕じゃ予算持ってこれなかったし、人が集まらなかった。僕だって傑以外に身の回りの世話をしてもらうの嫌だったし。術式も実験には好都合だったしね」
「私は君に必要だった?」
「当然だろ。だから必要として貰うために必死だった。僕には研究しかないからね。傑は誰にでも優しいし、研究と指輪だけが傑を繋ぎ止める手段だった」
傑は声を上げようとして黙る。
「ほらな、否定できない」
「私は、研究の事がなくても君を好きになったと思うよ。君は魅力的だ。恋人関係まではいかないかもしれないけどね」
「それってみんなと同じくらい好きって事だろ。僕はもっと欲しかった。傑は愛が多すぎる。優しい傑は好きだけど、いつも不安で苦しいよ」
ほら、また否定しようとして黙る。
「おあいこだね」
「え?」
「私も嬉しい」
傑は僕の傑じゃないのに、僕の胸はきゅううううううんとなった。
本当に人誑かしだ。毎秒人を口説かずにはいられなくて、それでそんなつもりじゃなんていうんだ。
「こういうのって最低だけどさ」
「うん?」
「傑に嫌われるのが怖くて、でも言いたかったこと、全部傑に言っていい?」
傑は笑う。
「いいよ。受け止めてあげよう」
傑は隣に来る。ピッタリと体を寄せてくるから、僕の傑がきた時みたいに嬉しくなる。温かいココアを渡される。好きな味。ホッとして甘くて温かい。僕の傑に謝って、マグカップを両手で包んで寄りかかった。
「まず」
「うん」
「浮気しすぎ。僕の判定、笑いかけただけでアウトだから。毎日浮気しまくりだから。優人が相手でもムカッとくるのに、毎日毎日初恋泥棒の日課まであるんだからほんと酷い」
「それは厳しいな。初恋泥棒?」
「子供相手の配信やってんの。研究所のやってることの周知。僕あれ、ほんと嫌い」
傑はくすくすと笑う。
「バレンタインにチョコいくつもらってんだよ。有象無象からのチョコで部屋がいっぱいになるってなんなんだよ。しかも特に親しい間柄から貰う特別枠が段ボール箱三個ってなんなんだよ」
「呪術師全員から貰ってるのかな?」
「総監部とかには嫌われてるし、全員じゃない。せいぜい30分の1くらい」
「うわ……クラスに1人は私にチョコをくれるんだ?」
「赤ちゃんとか入れて30分の1だからもっと。若い奴からすげーもらいまくってる。どこか出かけると新しい仲良しが最低1人は増えている。傑の知らない所でマウント合戦マジ大変なの」
「大人気だね……。アイドルでも目指してるのかな?」
「俺だけのアイドルでいて」
またクスリ。
「僕が傑に逆らえないって知ってて割とハイペースで自分のしてもらいたい研究の予定入れてくる。で、僕がしたい研究の予定を抜いたりする。護衛用の兵器の研究、それでだいぶ遅れてんの。護衛は自分が頑張るから日本から早く呪霊を消して欲しいって」
「気持ちはわかるかな。でもひどいね」
「構築術式の運用がしたくて真依の子供作る研究の資料隠したのは可愛いからいいけど」
「自分は独占欲発揮するんだね」
「そーなの! 後、都合が悪くなると俺が動けないのを良いことに俺のことお持ち帰りするし。メカ丸と話してるとヒョイッと抱き上げて移動したり」
「それは良くないんじゃないか? 真面目に良くないよ」
「傑だし可愛いから良いけどさ」
話はいつまでも続いた。
傑は全部柔らかく受け止めて、親身になって聞いてくれた。愚痴のはずなのに、聞けば聞くほど傑の機嫌は良くなっていくのだった。また傑に会いたい。今なら勇気を出して、傑にも本心を言えるかもしれなかった。
傑。きっともう会えない。
また傑に会いたい。
研究所で待っている傑に。
指輪を嵌めてくれた傑に。
研究室で呆れた顔をする傑に。
会いたい。
そう思っているはずなのに。
気が付けば、視線は目の前の教祖へ向いていた。
あまりに教祖の傑の笑みが優しくて、胸は高鳴り続けている。
本当にずるいと思う。
世界が違う。歩いてきた道も違う。研究所の副所長ではなく、呪詛師であり教祖として生きている夏油傑だ。
それなのに、人を安心させるような笑い方も、困っている子供を放っておけないところも、誰かの痛みに自分のことのように心を痛めるところも、五条が好きになった夏油傑のままだった。
何一つ同じ人生を歩んでいないはずなのに、肝心なところだけは驚くほど変わらない。
だから困るのだ。
目の前にいるのは自分の傑ではない。研究所で共に過ごした傑ではないし、指輪を嵌めた相手でもない。それでも、夏油傑であるだけで僕はどうしょうもなく惹かれてしまうのだ。
会いたい相手は決まっている。
今この瞬間だって会いたいのは自分の傑だ。
それなのに、教祖の傑が見せる優しい笑顔に頬が熱くなるのは、この人もまた間違いなく夏油傑だからなのだろう。
五条は小さく息を吐いた。
本当に、どうしようもない。
でも今は、この時間が続いて欲しかった。
翌朝、夏油は五条と優人を家族に紹介した。
家族、という言葉が出た時、五条は少しだけ驚いた顔をした。呪詛師の一団でも、信者でも、部下でもなく、家族。夏油はその言葉を自然に使った。そこに、この世界の夏油傑が何を大事にしているのかが滲んでいた。傑だ、と思わずにいられなかった。
広間には数人が集まっていた。美々子と菜々子は夏油の後ろに半分隠れるように立ち、こちらを警戒している。利久は少し離れた場所で様子を見ていた。一部から向けられる鋭い視線に実家に帰った感じがする。夏油に惚れてる恋敵共の視線である。夏油が気付かないのもいつも通り。今回は配偶者を巡って戦わなくて良いので、五条は当たり障りなく微笑む。敵ではありませんよ。納得してくれるかは別問題だが。ほかにも幹部らしい者達がいるが、夏油が紹介したのはまず子供達だった。
「この子達は美々子と菜々子。私が保護した子達だよ。こちらは利久。皆、私の家族だ」
五条は三人を見た。知らない子供達だった。だが、夏油のそばにいる理由は何となく分かる。理屈ではなく、納得に近かった。夏油傑は、どこの世界でも子供を放っておけないのだろう。
「五条悟です」
五条は少し迷ってから、いつもの調子より柔らかく名乗った。
「こっちは優人。僕の子」
「俺、五条優人」
優人がぺこりと頭を下げる。昨夜あれだけ叱られたせいか、今日は妙に礼儀正しい。五条はそれを横目で見て、後で絶対にこの話をしようと思った。外面が良すぎる。
美々子と菜々子は、白い髪の大人と白い髪の子供を交互に見ていた。困惑と警戒。
「夏油様と結婚してたってほんと?」
「そうだよ。並行世界でね」
「足はまだ痛む? 戦えないの?」
「護身用に銃は持ってるけどまあ無理かな」
美々子が小さく尋ねる。
「どうやって子供作ったの」
「呪霊を作って受肉させた」
「そんなに夏油様との子供欲しかったの?」
「傑が、僕がやられっぱなしなのは悔しいってあんまり怒るから。だから傑の力を借りて六眼を増やしたんだ。出来損ないの六眼である僕が六眼を量産すれば、僕を処分したがってた奴らにざまあって言えるだろ? 天元に喧嘩売った時はハラハラさせられたけど」
「指輪嵌めたのは私で、子供のきっかけが私で、君のメイン研究も私の望みか。昨日愚痴ってたけど、君、たまには怒っても良いんじゃないかな?」
夏油の言葉で、空気が緩む。指輪の件は驚いたが、暴走癖は確かにあった。ほんとに強要されたわけではなさそうだ。被害者が五条の可能性すらある。よく考えたらあの夏油に家柄が良いとはいえ、車椅子の男が何かを強要出来るはずがない。立場は悪かったようだし。むしろ夏油がやりたい放題出来てしまう。実際指輪事件はかなりそうだ。
「夏油ニ甘スギジャナイカ」
「惚れた弱み。傑、いつも僕の為に怒ってくれたから」
「私たちの時もそう」
「俺の時も」
「傑はいつもそう」
笑いが広がる。夏油は本当に人誑かしで、その意味では皆犠牲者だった。
「私達、呪詛師だよ、良いの?」
「傑が人を殺すのは嫌かな。でも天元様に喧嘩売れる人だから、プッツン来たら体制に喧嘩売るぐらいは、まあ。僕が止めなきゃ多分天元様のこともヤッてたし。後、傑が僕をアイテム扱いで振り回すのもいつものことかな」
「私はそんな恐ろしいことも酷いこともしないよ」
「傑お父さん、悟お父さんの言う事聞かずに持ち歩きするの結構あるよ。後天元様の命はまだ狙ってるよ」
「私はしない。動けない君にそんな事したら最低じゃないか」
「一応気遣ってはくれるよ。野菜食べなとか」
「メンテじゃん」
「惚れた弱み⋯⋯」
「それに、僕は傑が一月以内に助けに来るか死ぬかだからね。一ヶ月で帰るか死ぬかなんだから、あんまり関係ないかな。総監部が半分呪霊の優人をどう扱うかも心配だし、優人の人生は優人の物で、選択も優人がすべきだし」
「自分の道を選ぶにはまだ小さいんじゃないかしら」
「優人は製造後5年しかないけど、もう十分判断力はあるよ。それに僕じゃ止められないしね。ここへ来るときも優人に気絶させられて無理やりだったし。この体だからね。僕自身が選択権を持てたことはあまりない」
あまりにも酷い話だった。人権とは。
ドヤ顔をする優人の頭を、夏油はそっと持ち上げた。褒めてないんだよ。
「昨夜話したけど、悟は本当に凄い科学者なんだ。向こうの私が選ぶのも納得するくらい。それに下半身が動かないから、丁重に扱ってくれ。頼んだよ」
「勿論よ♡ 向こうの傑ちゃんの話を聞きたいわ」
「俺もこっちの傑お父さんのこと知りたい!」
優人は爆速で馴染んだ。
「じゃあ、悟は研究について私と話そうか」
夏油は返事を聞かずに車椅子を押した。
五条の拒否権。皆気にしたが、そっと口を継ぐんだ。なぜだか昨日の今日で教祖からハート乱舞が出てるので、相性は良いのだろう。並行世界で結婚しただけのことはある。こっちの悟とは喧嘩別れしているが。
真奈美はギリギリとしたが、あまりの夏油の幸せそうな顔に、ハンカチを噛むしか出来なかった。車椅子の余命一ヶ月の遭難者に嫌がらせしたらそれこそ悪役一直線で夏油からの信頼を失ってしまう。
「真奈美ちゃん、あの五条悟には配偶者がいるわ。大丈夫よ」
「だと良いのですが」
略奪愛しそう。だって夏油傑は呪詛師だった。
ハイパー呪詛師ムーブをした優人のお父さんだった。優人は生き残らせる気満々だったし、見るからにか弱そうな五条悟が特級呪詛師の妻子に勝てる要素なんてあるわけがなかった。
こちらの五条悟なら勿論勝てるだろうが、こちらにも優人がいる。時間は圧倒的味方だった。
「王ハ側室ヲ持ツモノダ」
ミゲルは慰める。本当に王になるかもしれなかった。あの研究にはそれだけのポテンシャルはある。呪術界を粉砕するに足るポテンシャルが。
破滅が決まった未来。
それが覆されようとしていた。
マシュマロ
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