黒瀬武道は目を覚ました。
知らない天井だった。
正確には、知らない部屋だった。
白い壁。
硬い椅子。
縛られた身体。
そして外からしか開かないらしい扉。
黒瀬は三秒ほど考えた。
「誘拐……?」
真っ先に浮かんだ結論だった。
昨日の記憶を辿る。
仕事を終えて、スーパーで半額弁当を買って、帰宅した。
玄関を開けたら首筋に衝撃。
終了。
「誘拐だな」
かなり確信を持った。
そのまま静かに部屋を見回す。
服はそのままだが、ポケットに入れた鍵の感触がない。
ポケットの中まで綺麗に漁られたらしい。
誘拐だった。
だが、誘拐だとしても疑問がある。
なぜ、一般人である自分を?
研究?
黒瀬はそこで固まった。
「研究か……?」
嫌な予感がした。
自分には金はない。
コネもない。
社会的地位もない。
だが研究データならある。
それなりに。
結構。
割と。
あとは被験者の家族とか。
「いやいやいや。副作用で幻覚消えなくなった人は治せたし」
首を振る。
流石に考えすぎだ。
そんな大層な研究じゃないし、死人も出てないし、副作用も解決した。
ただの趣味だ。
趣味の超能力研究。
「……」
今思うとだいぶ怪しかった。
そんなことを考えているうちに扉が開く。
スーツ姿の男女が入ってきた。
雰囲気が公務員っぽかったので、黒瀬は少し安心した。
怪しい宗教団体ではなさそうだ。
だが次の瞬間、別の可能性が浮かぶ。
「警察……?」
男は何も答えない。
黒瀬はさらに考える。
待て。
警察なら令状は?
説明は?
そもそも初手気絶させるってどうなの?
警察はそんなことしない。
たぶん。
すると。
「違法捜査……?」
男の眉がぴくりと動いた。
「安心してください。違法ではありません」
黒瀬の背筋に寒気が走る。
「公安……?」
男が深くため息を吐いた。
黒瀬は戦慄した。
当たった。
たぶん。
知らないけど。
たぶん。
男は向かいの椅子に腰を下ろした。
「黒瀬武道さんですね」
「はい」
「少しお話を聞かせてください」
警察っぽい身分証明を提示される。公安かもしれない。
遠くてよく見えない。
「弁護士は」
「呼べません」
終わった。
男は資料を取り出す。
見覚えしかなかった。
研究ノートだった。黒瀬のものだ。
「あー……」
これは本格的に終わった。
男が淡々とページをめくる。
「こちらは?」
「研究ノートです」
「何の研究ですか」
「超能力です」
男が黙った。
黒瀬も黙った。
気まずかった。
「超能力」
「はい」
「本気で?」
「本気です」
黒瀬は研究者だった。
そこだけは譲れない。
男は頭を押さえた。
「こちらの薬品について説明を」
「どれです?」
「全部です」
「多いな……」
本当に多かった。
趣味だから。
いや趣味で済むだろうか。
すまないからこんな状況になっているのだろう。
大変なことになってしまった。
「まずこちら」
試験管の写真。
見覚えがある。
「知覚拡張剤です」
「効果は」
「集中力向上」
「副作用は」
「幻覚」
「幻覚」
男が顔をしかめた。
黒瀬も顔をしかめた。
やはり幻覚は不味かったかもしれない。
「危険では?」
「副作用を消す薬も開発してます」
即答した。
「それで許されると思ってるんですか」
「許されないですか」
男が沈黙した。
黒瀬も沈黙した。
その沈黙が答えだった。
「人体実験も?」
「しました」
「しました」
「同意書あります」
「そういう問題ではありません」
「そこをなんとか」
「なりません」
ならないのか。同意書が万能ではないことくらい知っている。
ただ、どこまで有効なのかは知らない。
今になって調べておけばよかったと思った。
「幻覚とはどんなものですか」
「人によります。見える時と見えない時があります」
「具体的には」
「巨大な虫だったり」
「……」
「人影だったり」
「……」
「動物だったり」
「……」
「おどろおどろしい見た目で、廃墟とか夜とかだと見えやすいです。不安を視覚化してしまうのだと思います」
黒瀬は真面目に説明した。
本当にそう考えている。
男はさらに頭を抱えた。
黒瀬には理由がわからなかった。
「こちらは?」
「オーラ増強剤です」
「副作用」
「幻覚と筋肉痛です」
「他には」
「壁が壊れました」
「壁」
「壁です」
「どうして」
「強化されすぎて」
男が無言になった。
黒瀬も無言になった。
事故だった。
研究に事故はつきものだ。
たぶん。
「こちらのサークルは?」
「あー……」
黒瀬は目を逸らした。
そこも見つかったか。
「超能力研究会です」
「会員数」
「三十二人」
「活動内容」
「研究です」
「具体的には」
「研究です」
「具体的に」
「超能力の」
男が机に額を打ち付けた。
黒瀬は申し訳なくなった。
たぶん忙しい人なのだろう。どうぞ自分のことは放っておいて自分の仕事に注力してほしい。
それから数時間。
質問は続いた。
黒瀬は正直に答えた。
隠しても仕方ないからだ。
だが答えれば答えるほど男達の顔色が悪くなる。
意味がわからなかった。
やがて尋問は終わった。
部屋に一人残される。
黒瀬は天井を見上げた。
「……」
冷静に考える。
状況を整理する。
誘拐された。
たぶん公安。
研究ノート押収済み。
薬品押収済み。
サークルもバレた。
人体実験もバレた。
同意書はある。あるのだが。
「これ、駄目かもしれないな……」
ゲームオーバー。一体何が悪かったのか。
黒瀬は何も反省してなかった。
廊下では伊地知が頭を抱えていた。
「どうでした」
補助監督が聞く。
伊地知は疲れ切った顔で答える。
「呪霊については全く知らないようでした。全て幻覚だと」
「それは……全くの非術師の素人が、本当に術師になる薬を?」
「むしろ非術師だからかもしれません」
「これは呪術界の規定的にどうなるんですか? 非術師でしょう?」
「ですが放置もできません。厄介です」
伊地知は部屋を移動した。
部屋の机に、大量の資料が並べられている。
人体実験記録。薬品データ。資金管理表。会員名簿。
そして大量の研究ノート。
「本人は何も知りません。超能力研究だと思っています」
「違うんですか」
「ある意味では正しいですね。そして本物です」
余計に厄介だった。
「処分はどうなりますかね」
補助監督が呟く。
伊地知は答えなかった。
答えられなかった。
ただ一つだけ分かる。
高専がこの男を無罪放免で帰す未来は。
存在しない。
マシュマロ
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