五条悟は東京高専の地下で、縛られている伊地知を見下ろしていた。
正確には、伊地知に見える男だった。顔も声も呪力の癖も、ぱっと見た限りでは伊地知潔高そのものだ。だが、細部が違う。姿勢、目線、怯え方、そして何より、五条を見る時の感情の混ざり方が違っていた。高専の伊地知は五条を見ると、大抵は胃を痛めるような顔をする。仕事が増える、予定が狂う、無茶振りされる、そういう種類の諦めと恐怖がある。けれど目の前の伊地知は、目隠しを取られて五条を見た瞬間、驚きと安堵と、ほんの少しの罪悪感を浮かべた。
「や、伊地知。未来人なんだって?」
五条が軽い調子で声を掛けると、縛られた伊地知は少しだけ目を伏せた。
「その説は、少し違うかもしれません」
「へえ」
五条は笑った。夜蛾は隣で険しい顔をしている。昨日の襲撃で高専は大混乱に陥った。総監部関係者は軒並み誘拐され、呪胎九相図は奪われ、黒瀬武道も奪還され、夏油傑に関する資料まで持ち去られた。死者が出なかったのは不幸中の幸いだが、それは相手が殺す気で来ていなかったからであって、高専が防ぎ切ったからではない。そう、襲撃者達は双方ほぼ無傷で襲撃を終えていた。完敗だった。
五条悟がいれば違ったのだろうが、五条を遠方へ飛ばしたのが総監部側の小細工だったと分かっている以上、夜蛾の機嫌が良いはずもなかった。
「君達は何者だ」
夜蛾の問いに、伊地知は答えに迷ったようだった。黙秘を選んでも良かったはずだ。けれど、彼は完全には口を閉ざさなかった。多分、根が伊地知なのだろう。命令されていなくても、必要だと思えば説明してしまう。その真面目さが、五条には少し面白かった。
「私達は、五条悟さんと五条優人君を探しに来ました」
「僕?」
「はい。ですが、あなたではありません」
「だろうね。普通に聞くのじゃだめだったの?」
「出来れば総監部に情報を与えたくなかったんです。
「情報ね」
もう一人の五条がいること、そこはもう疑っていない。彼らの反応は、五条本人を見ているようで、五条本人を見ていなかった。脹相の過剰な気遣いも、昨夜の襲撃者達の妙な遠慮も、全て別の五条悟を前提にしている。未来人にしては年齢が合わない。伊地知は高専の伊地知とほぼ同年齢に見える。真希も真依もメカ丸も、確認を取れば本物がいる。なら未来ではない。別の時間ではなく、別の枝。五条にとって、それはもうほとんど答えに近かった。
「並行世界? もしかしてそこで僕、体弱かったわけ?」
五条が言うと、伊地知は目を見開いた。
「やはり、分かるのですね」
「まあね。君達、隠すの下手だし」
「申し訳ありません」
「謝るんだ」
五条は笑った。夜蛾はますます眉間の皺を深くする。
「その別世界の五条悟は、どこにいる」
「分かりません。事故だったんです。研究所が襲撃されて、その混乱の中、五条さんと優人君が転移事故を起こしてしまって」
「研究所ねぇ。僕は博士だったってこと?」
「歴史に残る偉大な博士です」
「想像できないな」
伊地知の言葉は荒唐無稽ではあった。だが、実際に同じ顔が二人いて、兵器で大暴れしていた以上、嘘というのはあり得なかった。それでも襲撃は乱暴だと思うが、無力な五条悟を探してくれといっても、総監部は秘密裏に確保するだろうな、という疑いは確かにあった。
「五条 優人、あと、昨日暴れてたらしい六眼の新って子は、僕の子供?」
「そうです」
「夏油傑を探してたのは?」
その名前を出した瞬間、伊地知の表情が変わった。隠しきれない動揺。緊張。五条も隠しきってはいたが緊張していた。六眼の子供は、自分の子供を名乗っていた。そして、夏油傑にそっくりだと夜蛾学長に聞いていたのである。五条も夏油も男だが、傑はともかくすぐるなら女でもありえる名前だし、平行世界だ。向こうの夏油が女だというのもあり得る。
「こっちの傑を探してた感じだったけど」
「……私達の世界の傑さんは、研究所にいます。今は研究所から出られませんが……夏油傑を探していたのは、五条悟が夏油傑を頼った可能性を考えてです」
夜蛾が息を呑む。五条は動かなかった。
「研究所から出られないのは何で? そっちの傑って女の子?」
「それは……」
伊地知はそこで言葉を切った。言っていいのか迷っている。だが五条は待った。伊地知はやがて、小さく息を吐いて続けた。
「五条さんと傑さんは、双方男ですが、呪術的に婚姻を結んでいます。そして命と呪力を共有する呪具で繋がっています。一ヶ月に一度、五条さんから呪力供給を受けなければ、傑さんは死にます。今、その期限が迫っています。厳密には新くんと優人くんは五条さんが開発した半呪霊です。終夜くんの製造中のため、傑さんは研究所から出られないんです」
地下室の空気が変わった。夜蛾が絶句し、五条は数秒だけ黙った。情報は突飛だった。命と呪力を共有する呪具。別世界の五条悟。別世界の夏油傑。半呪霊の子供。どれも冗談みたいだ。だが、目の前の伊地知は冗談を言っていない。そして昨夜、高専を襲撃した彼らの必死さは本物だった。
「だから傑を探しつつも、僕を欲しがってる」
「はい」
「僕の呪力で、その夏油を助けたい」
「可能性があるなら、そうするしかありません」
「なるほどね」
五条は顎に手を当てた。面白い。とても面白い。だが面白いだけでは済まない。夏油傑という名前が入ると、どうしても感情が勝手に動く。自分の知る夏油ではない。自分を置いていった夏油ではない。けれど別世界の夏油傑が、自分ではない五条悟と命を繋ぎ、その五条悟を失って死にかけている。そんな話を聞かされて、何も思わずにいられるほど五条は冷たくなかった。
「ところで、どうして僕と傑は結婚なんてすることになったわけ? 男同士でしょ?」
「私が勝手に部外者に言っていいものか⋯⋯」
「無茶苦茶当事者だよ。本人じゃん」
「あの。傑さんは善意だったので、あまり怒らないであげてください」
「聞いてから決める」
「ええと、どこから話せばいいものか……」
伊地知は出来るだけ誰も悪くない感じで話そうとした。どう考えても無理だった。
「正道〜! 大変だ! 伊地知から、また連絡が来た! すげーぞ!」
そこでパンダがやってくる。
「なんだ、パンダ」
「電子書籍! 五条悟伝だって!」
「は?」
伊地知は、ほっと息を吐いた。これで悪いのは書籍である。
既にそれはコピーされてばら撒かれていた。
「何これ」
「向こうの世界の偉人漫画みたいだ。呪力工学の父だって」
「明太子!」
「おい、真依の名前が載ってるぞ。政略結婚てどういうことだよ」
「なんでこんなの出版許したの? 呪術規定は?」
「とっくの昔に改定されてますよ。それと、夏油さんが人気すぎて、男同士なのもあって五条さんが夏油さんに結婚を強要してるという噂が立って、五条さんを守るために正しい情報を出そうということになったのです。事実を知れば、五条さんを責めることにはなりませんから」
何せ100%夏油が悪い。
「内容は事実な訳?」
「事実です」
ストーリーは、五条悟が生まれ、幼い時に半身不随の大怪我をした所から始まった。研究を頑張り、呪具や兵器製作を頑張る子供。
呪具の指輪を使い、構築術式の幼女と接続する事で、研究を進展させる話が出る。
積み上げられる条件。研究は奪われるし首輪もつけられる。
幼女には幼女なりに好きな子がおり、車椅子の親子といってもギリギリ通る年齢の年上との婚約を嫌がった。幼女の姉は必死にそれを邪魔しようとしていた。
重苦しい空気の中、婚約の儀式が進められる。
そこで! 夏油が!! 指輪を奪って自らの指にセット!!!!!
呪霊操術の方が強くて絶対に役立つよ!
直毘人はブチ切れた。
貴様、うちの真依と結婚するより男と結婚した方がマシというか!!
『あっ!?』
勢いでやらかした夏油はワタワタとする。
五条は笑った。
『いいよ、傑と結婚する』
そうして指輪をはめた。
助けたいという、その気持ちが嬉しいと穏やかに五条は笑う。
聖人か。
五条は、兵器を研究していた。
しかし、夏油が呪霊の被害に心を痛め、呪霊のない世界を望んでいると、「たまには夫としての義務もこなさないとね」と、呪霊を電力へ変換する技術を開発した。スパダリか。
ある日、夏油は落ち込む。男同士では子供を作れないと。
五条は強い呪力を持つ術師ではあるから、呪霊を強化させてしまった。
六眼が死ねば、天元の儀式に合わせ、新たな六眼が生まれるという話も聞いた。
誰も彼も悟をなんだと思ってるんだ。悔しい悔しい悔しい。
そこで五条は新を開発した。
呪霊なので強力だけど呪霊の弱体化は起こらない。
六眼を保持している。
不完全ながら夏油の術式も五条の術式も持つ、2人の子供だ。
夏油は喜んだ。それはもう喜んだ。
『天元、ざまあああああああああああああああ!!!!!』
速攻で天元に喧嘩を売りに行って五条を困らせた。
『面倒な計算は非術師にやらせよう。彼らも働くべきだ』
夏油は非術師に厳しかった。
夏油は呪術規定をぶっ壊した。
アメリカで悟の研究をばら撒き特許を取り、研究を公にしてアメリカ資本で五条の研究所を建てた。
夏油は配信者として有名になった。
好き勝手やって華々しく活躍する夏油の裏には、その願いを全て叶える魔法使い(研究者)の夫がいる。
夏油はあらゆる願いを五条に言う。
五条はそれを柔らかく微笑み、研究で叶えていく。
禪院家とも和解をし、幼女達は今、職員として働いている。
そして今、東京呪力結界で東京からは特級呪霊以外は駆逐された。
研究が進めば、呪霊は主要都市からは無くなるでしょう。
カースフューチャーラボでは、現在、3人目の子供が企画されています。
巻末インタビューには、五条、夏油、真依へのインタビューも載っていた。
夏油は一生懸命で優しいのがいい所。自分の為に頑張ってくれた事を評価したい。今だって僕にはできない面でフォローしてくれる。何より、そばにいて退屈しない。そういう五条。器大きすぎか。
悟は希望と未来をくれる。男女とか関係ない。私なんかが配偶者で申し訳ないとは思うけど、不満なんてあり得ない。五条の隣にいられて幸せ。そういう夏油。
正直、優しいし、研究でなんでも願いを叶えてくれるし、結婚して世界をくださいって願ってたら多分貰えたと思うし、勿体無い事をしてしまった。子供の時は価値がわからなかった。ちょっと後悔。五条さんと傑さんみたいに尊重し合える相手と出会えたらと思ってる。そういう真依。
並行世界との差異が全部載っていた。
「悟、体弱いと偉人になるのか」
「真依、後悔してるじゃねーか。にしても好きな奴って誰だ」
「僕が漫画になるレベルの偉人かぁ。想像できない。婚約事件、向こうではみんな知ってるの?」
「高校試験に出ますし、既に歴史ですね」
「出るんだ……」
「正直、呪詛師にされてないのは向こうの悟が頑張ったんだろうな。死者は出してないが相当のことをやっているぞ」
「そうだろうね。真正面から天元様に喧嘩売ってるし」
「私でもどうにかできなかったのか?」
家入が問う。流石に部位欠損は無理だが、脊椎損傷くらいなら、反転術式ならばいける気もする。
「総監部から、服従の縛りを結ばないなら治療はさせないと」
「は?」
「それを私は許してんのか」
「硝子さんは総監部には逆らえませんから」
「あー……私も、悟に守られてんだな。思い上がってた。ありがとう、悟」
「いや。でもそうなると、車椅子の僕は傑のところにいなきゃ生存絶望的なのか」
伊地知は、鎮痛な面持ちで頷いた。
一方その頃、研究所では、もう一人の伊地知が静かに周囲を観察していた。高専の伊地知忠行である。昨夜の混乱の中、研究所側の伊地知と入れ替わる形で連れて来られた彼は、最初こそ拘束される覚悟をしていた。だが、研究所の誰も彼を疑わなかった。むしろ当然のように資料整理を頼まれ、医療班への連絡を頼まれ、夏油の容態確認の補助まで任された。これ幸いと、色々調べて、電子書籍の原稿を見つけて送ったのである。
最低限の調査は済んだ。後は隙を窺って逃げ出すだけだ。
それにしても。
そこはおどろおどろしい呪詛師の拠点ではなかった。清潔で機械的な研究所だった。術師非術師の別なく白衣を着て歩き、非術師が呪霊をモニタリングし、術師が計測を行い、呪霊に関するデータが当たり前のようにモニターへ流れている。異様ではある。危険でもある。だが、人を殺すための場所ではない。少なくとも、伊地知にはそう見えなかった。
そして何より、夏油傑がいた。学生時代はあまり接触がなかった先輩である。
ベッドの上で眠る夏油は、伊地知の知る特級呪詛師とはまるで違っていた。痩せ、顔色は悪く、呼吸は浅い。周囲の研究員達は本気で彼を心配している。新と呼ばれる夏油そっくりの少年は、何度も夏油の脈と数値を確認し、黒瀬は苛立ったように薬剤データを睨み、メカ丸は無言で機材を調整していた。誰も芝居をしていない。これは本当に、家族を失いかけている人々の空気だった。そして、見てしまった。身分証明が五条傑だった。結婚しているという実感が込み上げる。
五条さんが男と結婚。
写真を見ると、車椅子の上で、家族と職員に囲まれ穏やかに笑っていた。
自分の知る五条悟とはだいぶ違う。でも、本質はきっと変わらない。五条さんはきっと彼らに手を差し伸べるだろう。
「伊地知さん」
新に呼ばれて、伊地知は反射的に背筋を伸ばした。
「はい!」
「高専への連絡はまだ? これだけ人質がいたら、悟お父さん、ううん、五条悟も言うことを聞かざるを得ないと思うんだけど
「すぐ繋ぎます! 交渉相手は学長で?」
既に操作方法はマスターしていた。
伊達に補助監督として活躍してない。
「そうだね。父が総監部に囚われてる可能性は潰せたし、後は正直に行こう」
新の声は落ち着いていた。ただ、余裕はなかった。
「父を助けたい。協力してくれるなら、人質は全員返します。研究情報も出します。脅迫していることは分かっています。悪いことをしているのも分かっています。でも、もう時間がないんです。そうお願いする」
「わかりました」
彼らは必死だ。望みを叶える為ならなんでもする。
逆に言えば望みさえ叶えてやればいいのだ。変な意地を張りそうなメンバーが全員人質なのは幸いだった。状況は既に伝えているので、交渉はスムーズにいくはずだった。
「わかった。五条を送ろう。ただし、人質は丁重に扱え」
『わかっています。2時間後に迎えを送ります。……ごめんなさい、お父さん』
画面の向こうで、研究所のメンバーは、ほっと肩の力を抜いたようだった。
「困ったなあ」
五条の言葉に、夜蛾が嫌な顔をした。
捕虜にされる事の困ったなぁではない。可愛い息子が可愛すぎての困ったなぁにしか聞こえなかった。
画面越しに新を見て、五条はでれっとしていた。
夏油そっくりの六眼の少年は、2人の子供だと一発でわかった。
「おそらく、危害を加えられることはないだろう」
「でも人質は人質だしねぇ」
「お前、顔が楽しそうだぞ」
「そんなことないよ。困ってる困ってる」
五条は口ではそう言ったが、声には隠しきれないほどに弾んでいた。別世界の夏油傑。六眼の親友との息子。呪力工学。平行世界の自分が差配しているらしき研究所。違う人生を送った自分。危害を加えられる可能性もほとんどない。行かない理由を探す方が難しかった。夏油そっくりの息子の新が、お父さんと呼んだ時、正直五条は浮き立った。
「貸しだからね」
五条は笑う。
「帰ってきたら総監部にはたっぷり請求するよ」
夜蛾は深い溜息を吐いた。止めても無駄だと分かっている顔だった。
「お父さんかー。学長。なんかおもちゃとか持ってくべきかな?」
「やめろ。それに相手はもう大きい」
「出発前になんか作ってよ。ぬいぐるみならいいでしょ」
電子書籍を読んで、五条は並行世界の自分の感情を正確に把握していた。
傑よりおもしれー男なんていない。
傑が指輪を嵌めた時、自分はどんなにときめいただろうと思う。
傑のありようが、どうしようもなく五条を惹きつける。
傑と傑との間に出来た息子。
興味がないわけがなかった。
マシュマロ
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