研究所の医療区画は静まり返っていた。
新の案内で部屋へ入った五条は、一瞬だけ足を止めた。
ベッドの上に男がいた。
痩せていた。
顔色も悪い。
それでも見間違えようがない。
夏油傑だった。
夏油もまた、部屋へ入ってきた五条を見て言葉を失った。
健康な身体。
自分と同じ年齢。
そして何より。
普通に立っている。
脹相から報告は受けていた。
教師をしていることも。
最強であることも。
それでも実際に目にすると衝撃は大きかった。
しばらく沈黙が続く。
最初に口を開いたのは夏油だった。
「別人でも」
掠れた声だった。
「最後に君の顔が見られて嬉しい」
新が顔をしかめる。
「父さん」
「浮気するつもりはないよ」
夏油は苦笑した。
「悟に迷惑もかけたくない」
「そんなこと言わないで」
新はベッドの傍へ寄る。
「終夜のためにも」
声が震えていた。
「僕のためにも生きて欲しい」
夏油は何も言わない。
「きっと悟お父さんも生きてる」
新は続けた。
「だから諦めないで」
部屋が静かになる。
そこで五条がぽつりと言った。
「呪力あげるだけでしょ? そんな深刻にならなくても」
全員が振り向く。
夏油は頭を抱えた。
「君、話を聞いていたかい」
「聞いてた」
「キスしないといけないんだぞ」
「そうなんだ。それは聞いてなかった。人工呼吸って事?」
「そう。しかもディープキスだ。君だってこっちでの結婚相手くらいいるだろう」
五条は真顔になった。
少し考える。
そして。
「それなんだけど」
夏油を見る。
「マジで結婚して子供作ったの?」
新が心配そうに見つめてくる。
「お前が?」
五条は続けた。
「僕を好き?」
夏油は顔を覆った。
「信じられないかもしれないけど」
少しだけ笑う。
「気持ち悪くてごめん」
そして。
「悟が好きなんだ」
部屋が静まり返る。
五条も珍しく黙った。
夏油は視線を逸らした。
「だから嫌なんだよ」
小さな声だった。
「別人とはいえ君だ」
「……」
「こんな形で巻き込みたくない」
新は拳を握る。そして前へ出た。
「お父さんを失いたくない」
真っ直ぐ夏油を見る。
「傑お父さんが願って」
声が震える。
「悟お父さんが叶えた未来を一緒に見たい」
夏油の目が揺れる。
「呪霊がいない世界で」
新は続けた。
「笑う傑を見たいって」
「……」
「悟お父さんの夢を叶えさせて」
長い沈黙が落ちた。
五条が咳払いをする。
「仕方ないからしてあげる」
全員が振り向く。
「仕方ないからね」
五条は強調した。
「人質取られてるし」
「五条さんもこう言ってる」
新は懇願した。夏油は顔をしかめた。
「それでも君に酷いことは出来ない」
「子供のためでも?」
五条が首を傾げる。
(ほら頑張れ新)
傑を助けたい。キスだってしたい。それでもキスさせてくださいと言えないのはここに至ってもまだ踏み込んで引かれるのが怖いからだ。
「僕は全然平気だけど?」
さらに続ける。
「人命救助だし」
「お父さん……」
新は泣きそうだった。
夏油は天井を見上げる。
逃げ場がない。
子供達は必死だ。
五条は協力的だ。
自分だけが意地を張っている。
そして本当は。
生きたい。
終夜に会いたい。
優人を抱きしめたい。
新の未来を見たい。
悟に会いたい。
まだ諦めたくない。
夏油はゆっくり目を閉じた。
そして。
「お願いだ」
五条を見る。
「悟」
声が震える。
「私とキスしてくれないか」
新も頭を下げた。
「五条さん」
「お願いします」
五条は一瞬だけ満足そうに笑った。
本当に一瞬だけ。
そして何事もないような顔を作る。
「仕方ないなぁ」
無論心はバラ色である。いそいそと夏油へ近付く。
「人命救助だし」
そう言って。
震える唇に、軽く口付けた。
――はずだった。
「……」
「……」
「……」
誰も喋らない。
舌を絡ませ、呪力を送り、五条は夏油の唇を存分に味わう。
好きと言われて、キスをお願いされて、男として燃えないはずはなかった。
一分。
二分。
三分。
新が首を傾げる。
「長くない?」
さらに数十秒。
「長いよね?」
メカ丸も頷く。
「長いですね」
「長いな」
脹相も頷く。
五分後。
ついに新が立ち上がった。
「もう良くないかな!?」
全力で二人へ近付く。
「五条さん!」
引っ張る。
動かない。
「離して!」
引っ張る。
動かない。
「くっそ力強いな!?」
六眼持ちなのに。
何故か動かない。
新は本気で焦った。
「経過観察するから!」
さらに引っ張る。
「だから離して!!」
その叫びが研究所中へ響き渡った。
夏油の唇は美味しゅうございました。ごちそうさま。
研究所が大騒ぎになった。
理由は単純だった。
夏油傑が死ななかった。
いや、まだ生きると決まったわけではない。
だが確実に状態が改善していた。
呪力循環が安定している。
生命反応も上昇している。
指輪の反応も正常。
何より本人の顔色が明らかに良かった。
研究員達は走り回った。
メカ丸は測定機器を持ち込み。
エリオットはデータを集計し。
真依は騒ぎ。
真希は抱きつかれそうになって逃げた。
「助かった!」
「まだ確定じゃない!」
「でも助かった!」
「まだだ!」
「でも助かった!」
研究所中がそんな感じだった。
新は廊下に座り込んでいた。
力が抜けている。
ずっと張り詰めていたものが、一気に切れたのだろう。
「大丈夫か」
脹相が聞く。
「うん」
大丈夫ではなかった。目が真っ赤だった。
だが脹相は何も言わなかった。
代わりに頭を撫でた。
新は少しだけ泣いた。
その様子を見ていた五条は、妙な気持ちになった。
家族だった。
本当に。
この研究所の人間達は、本気で夏油を家族だと思っている。
利用価値でもない、恩人だからでもない。
純粋に家族だった。
だから皆あんな顔をしている。
「変な感じ」
思わず呟く。
「何がだ」
脹相が聞いた。
「いや」
五条は頭を掻く。
「本当に傑なんだなって」
脹相は少しだけ考えた。
そして頷く。
「そうだ」
「そうなんだろうけどさ」
五条は苦笑した。
「まだ実感が湧かない」
その時だった。
「悟」
声がした。
振り向く。
夏油だった。
まだ完全ではない。
だが先程よりずっと顔色がいい。
歩いている。
自分の足で。
その瞬間。
研究所の全員が動いた。
「父さん!」
「無理するな!」
「椅子!」
「毛布!」
「水!」
「ポタージュ!」
「ポタージュはもういいだろ!」
五条が思わず突っ込んだ。
研究所が静まる。
全員が五条を見る。
何故か不思議そうな顔だった。
「えっ」
五条が戸惑う。
「まだ必要だろう」
脹相が真顔で言った。
「必要なの?」
「必要だ」
断言された。
夏油は苦笑する。
「ありがとう」
完全に慣れていた。
そこが一番怖かった。
椅子へ座らされた夏油は、しばらく黙って五条を見ていた。
五条も見返す。
妙な沈黙だった。
似ている。
知っている。
なのに違う。
高専の誰とも違う感覚だった。
先に口を開いたのは五条だった。
「でさ」
「うん」
「本当に結婚したの?」
研究所が静まる。
夏油は目を閉じた。
嫌な予感がした。
「本当に?」
「したよ」
「お前が?」
「私が。君と」
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
「しかも子供いるんだよね」
「いる」
「何人?」
「三人」
「エリオットがカースチルドレンには愛が必要だって」
「そうだ。お腹を痛めて産んだわけではないが、あの子達は私と悟の愛の結晶だ」
「愛の結晶」
五条は頭を抱えた。
「いや無理無理無理」
「何がだ」
「お前だぞ?」
「失礼だな」
「だってお前だぞ?」
夏油は反論できなかった。
研究所の面々も微妙な顔になる。
研究所の面々は男と結婚なんて納得できないのだろうと思っているが違う。
この世界では夏油は五条を捨てた。自分なんかを選んでくれるはずはないと五条は何度も確認してしまうのだ。
「しかも相手僕だろ」
「そうだね」
「マジで?」
「マジだ」
五条は天井を見上げた。
理解が追いつかない。
なんど聞いても無理だった。
こんな幸せあるはずない。
「いや」
五条は真面目な顔になる。
「傑」
「何だい」
「本当に幸せだった?」
研究所が静かになる。
夏油は少しだけ驚いた顔をした。
そして。
笑った。自然な笑顔だった。
「幸せだったよ」
即答だった。
「呪霊は相変わらず嫌いだし」
「うん」
「仕事は大変だし」
「うん」
「子供達は騒がしいし」
「うん」
「悟は無茶ばかりするし」
「うん」
「それでも」
夏油は研究所を見回した。
新がいる。
脹相がいる。
真依がいる。
黒瀬がいる。
皆がいる。
「幸せだった」
その言葉に嘘はなかった。
五条はしばらく黙っていた。
そして。
「そっか」
小さく笑った。
その時だった。
新が勢いよく立ち上がる。
「よし!」
全員が振り向く。
新の目は完全に生き返っていた。
「次は悟お父さんを探します!」
研究所の空気が変わる。
そうだ。
まだ終わっていない。
夏油は助かった。
だが本来探していた相手はまだ見つかっていない。
五条悟。
優人。
彼らはまだどこかにいる。
「そうだね」
夏油も頷く。
「今度は私が探そう」
「父さんは寝てて。それに研究所から出られないでしょ」
新が即答した。
「えっ」
「寝てて」
「新」
「寝てて」
夏油は敗北した。
その様子を見て、五条は思わず吹き出した。
なるほど、確かに。
これは少し羨ましいかもしれない。
そんなことを、ほんの少しだけ思った。
マシュマロ
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