アメリカは遠かった。
ただし、飛行機そのものが珍しいわけではない。五条悟は任務やら出張やらで海外渡航の経験くらい普通にあるし、研究所の悟もスポンサーのいる国へ何度か向かったことがある。けれど研究所の人間にとって、悟の移動とは常に大仕事だった。車椅子、補助具、護衛、予備の薬剤、折り畳み式の機材、移動中の呪力循環を監視する装置。飛行機に乗るだけで小規模な医療搬送に近い準備が必要だったのだ。だから、目の前の五条悟が小さな手荷物ひとつで機内に座り、雑に機内食へ文句を言い、当然のように窓側席を確保している光景は、研究所側からすると妙に落ち着かなかった。
「機内食、甘い物少なくない?」
「気分は悪くないか」
「だーいじょうぶ。僕丈夫だから」
エリオットに気遣われる。
今回はエリオットとの2人旅だ。少数精鋭である。
研究所は研究所で防備を固めねばならないし、五条は絶対に大丈夫と太鼓判を押した。五条を信じる形でエリオットだけが来た。
「残念ながら、私は引っ越ししていたようでね。現地で私の痕跡を探す事になると思う」
「了解了解」
軽く言って窓の外を見る。少し緊張していた。何せ、間違いなく夏油傑と会う事になる。でも揶揄うのは絶対にする。できれば戦いにならなければいいと思う。
エリオットは隣で資料を読み込み、アメリカ到着後に連絡を取る非術師の技術者や企業関係者のリストを整理していた。術師側の伝手は高専から辿る。非術師側の技術者はエリオットが辿る。それが今回の基本方針だった。
現地へ着く頃には、エリオットはそれなりに疲れていた。時差、移動、警戒、そして捜索への焦り。ホテルへ移動して荷物を置いた後も休む暇はない。高専経由で紹介されたアメリカ側の術師達との面会が入っていたからだ。指定された場所は郊外のレストランで、相手は三人。白人の男性術師、黒人の女性術師、そしてアジア系の老術師だった。彼らは最初こそ警戒していたが、五条悟を見た瞬間に全員が固まった。
「六眼」
老術師が呟く。
「五条悟か」
「そうだけど」
五条が軽く答えると、空気がさらに変わる。国外であっても六眼の名は知られているらしい。五条悟はどこの世界でも目立つ。違いがあるとすれば、研究所の悟は研究者として名を知られていたが、この世界の五条悟は術師として名を知られていることだ。
通訳を挟みながら話は進んだ。夏油傑。子供。国外移動。呪霊を使った可能性。高専から送られた断片情報に、アメリカ側の目撃情報が重ねられていく。確証はない。だが、特級呪霊らしきものを従えた東洋人の男と、小さな子供を見たという話がいくつかあった。場所は西海岸。研究施設が多く、非術師の技術者も集まりやすい地域だった。
「ここか。技術者がよく集まる場所だ」
エリオットが地図を覗き込み、目を細める。
「傑来てそう?」
「ああ、可能性はある。所長はこの辺の集まりにも出たことがあるはず」
エリオットは即答した。
「五条所長なら、まず設備を見る。金を見る。人を見る。自分達だけで足りないなら、現地で借りる。そういう人だ」
「ふーん。近くまで行って呪力見てみようか。帷とか探そう」
面会が終わり、ホテルへ戻る車の中で、エリオットがふと昔話を始めた。
「そういえば、アメリカでは羂索とドンパチやる羽目になったな。こっちではないといいんだが」
「羂索って誰?」
五条が問う。
「敵対していた総監部の研究者だ。正確には、総監部に協力していたのか、総監部を操っていたのかは知らんが、深く関わっているようだった」
「研究者?」
「そうだ。体を乗っ取る術式を持っていてな。脳みそをくり抜いて自分の脳みそをそこにぶち込むんだ。副所長、五条傑を狙っていた。呪霊操術は天元も操れる。利用価値は高い」
五条の表情がほんの少し変わった。
「うげぇ」
軽い声だった。
だが軽いだけではなかった。
「指輪を嵌めてからは、新や優人にターゲットが移ってね。当然、所長の研究も狙っていた。厄介な奴だよ。所長が飛ばされた事故も元はといえばそいつの襲撃が原因だ」
「ふーん」
五条はそれだけ言った。
興味がなさそうに聞こえる。
だが。エリオットも車椅子との悟の付き合いなら長い。
五条が何かしら考えを持ったことは推察できた。
夏油傑の体を狙った。五条悟の研究を狙った。体を奪う術式を持っている。たったそれだけの情報で、五条の中のどこかにその名は刻まれたのだろう。
「この世界にもいると思う?」
五条が聞く。
「いる可能性はあるな。だがまあ、今は不確定な情報より所長と優人だ」
「そっか。まあ呪詛師なんて大勢いるしね」
その夜、ホテルの一室で情報の整理が行われた。高専からの術師ルートで得た目撃情報と、エリオットが辿った非術師側の研究者ネットワークを重ねると、奇妙な空白が浮かび上がった。特定の地域で、ある時期から急に小規模な研究設備が借りられている。契約名義は偽装されているが、資金の流れが不自然だった。そしてその近くで、奇妙な親子のような二人組を見たという証言がある。
東洋人の長髪の男。
小さな子供。
時折、奇妙な化け物が周囲にいたという曖昧な証言。
「傑だ」
五条が言う。
エリオットは厳しい表情で画面を見つめる。
「夏油傑と優人の目撃情報。所長はどこだ? 無事だといいんだが」
今までとは違う。初めて具体的な場所が見えた。初めて足跡が繋がった。初めて、優人が生きているかもしれないと思えた。だが五条の目撃証言がない。
一通り調べて通信を繋ぐと、研究所の五条傑が画面に出た。もうすっかり良くなったようだ。ただ、緊張している。
『どうだった?』
五条は笑った。
「調査は順調に進んでるよー。進展あったら連絡する」
五条傑は頷く。
「まだ確定じゃない。でも、優人らしき子供と、夏油傑らしき人の目撃情報があったんだ。傑の五条悟もきっと見つかる」
『そうか』
夏油は目を伏せた。心配なのだろう。
「生きているといいね」
『ああ』
「絶対見つけて連れ帰るから安心して」
『信じてるよ』
画面越しに傑が微笑む。傑の強がった笑顔を見て五条は黙っていた。知らない子供。知らない夏油。知らない五条悟。それでも、この研究所の人間達が必死に探してきた家族の足跡がようやく見えた。そのことだけは理解できた。
そして同時に、車内で聞いた名前が頭の片隅に残っていた。
羂索。
体を奪う術式。
夏油傑の体を狙った男。
五条悟の研究を狙った男。
五条は何も言わなかった。
ただ、その名前だけは忘れないことにした。
マシュマロ
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