NTR回です! NTR回です!
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36話
研究所からの通信が届いたのは夕方だった。
アメリカ側の技術者達が解析した暗号通信は、ひどく細い糸のようなものだった。途切れ途切れで、雑音も多く、完全な会話として復元するにはまだ時間が掛かる。それでも、そこに混じっていた声は間違いなく新のもので、研究所が健在であること、高専を襲撃した事、その結果夏油傑の渡米を突き止めたことが確認された。
なるほど、夏油傑がこちらの世界に来ることさえできれば、全部ぶち壊して奪いに来れるというのは事実らしい。高専は完全制圧されたようだ。怖い。
ともあれ、これで帰還の目処はたった。
高専に連絡さえすれば、すぐにでも会えるだろう。
「良かったね」
夏油傑はそう言った。
言葉は自然に出た。そう言うべき場面だったし、実際に良いことだった。五条悟は家族と離れ離れになり、研究所の人間達は彼を探し続けていた。優人も新も、互いに会える可能性が出てきた。なら喜ぶべきだ。喜ばなければならない。
なのに、胸の奥が冷えた。
五条は通信記録を何度も確認しながら、車椅子の上で少しだけ笑っていた。目の下には疲労の影がある。ここ数日、研究も交渉も立て続けで、エリオットに強制的に休まされなければ倒れていたかもしれない。それでも、その笑みは柔らかかった。
「新も頑張ってるみたいだね。あの子、すぐ無理するから心配だったんだ」
「君がそれを言うのかい」
「僕は無理してないよ。必要なことを優先してるだけ」
「それを無理と言うんだ」
いつものやり取りだった。軽く笑って、少し呆れて、車椅子の背を押す。そんな時間が、いつの間にか夏油の中で当たり前になっていた。
だからこそ、怖かった。
この男は帰る。
家族のところへ。子供達のところへ。研究所のところへ。そして、夏油傑のところへ。
そこに自分はいない。
その事実を思い出した瞬間、夏油は息をするのが少し難しくなった。何を馬鹿なことを考えているのだろうと思った。自分は呪詛師だ。十年前に悟を置いていった男だ。人を殺し、戻る場所を捨て、親友と呼んだ相手に背を向けた男だ。そんな自分が、いまさら誰かに隣を望む資格などあるはずがない。
まして、相手は自分の悟ではない。
そのはずだった。
「傑?」
五条が振り返った。蒼い目がこちらを見る。自分の知る悟と同じ目で、けれど同じではない目だった。そこには強者の余裕よりも、疲労と諦めと、それでも誰かを愛してしまう重さがある。夏油はその目を見るたびに、どうしようもなく胸が乱された。
「何でもないよ」
夏油は笑った。上手く笑えたはずだった。
だが五条はじっと見ていた。
「何でもない顔じゃない」
「君に言われたくはないな。君こそ顔色が悪い」
「それはいつものことだから」
「いつものことにしてはいけないと言われていただろう」
「エリオットは心配性なんだよ」
「エリオットは正しい」
そう言いながら、夏油は車椅子を押して廊下を進んだ。研究棟の窓の外には、夕方の光が沈みかけていた。アメリカの空は広く、夕焼けの色も日本とは少し違って見える。ここは自分の国ではない。自分が隠れていた世界でもない。今までの罪から遠いようで、むしろ何もかもが白日の下へ引きずり出される場所だった。
ここへ来てから、夏油は何度も責められた。
子供達の未来を奪っていると。優人も美々子も菜々子も利久も、夏油のためなら未来を要らないと言ってしまう子供になっていると。自分を追い詰めた総監部と同じことをしてはいけないと。
その通りだった。
その通りだから痛かった。
それでも五条はそばにいた。車椅子に座って、顔色を悪くしながら、研究の話をし、優人の頭を撫で、夏油が迷うたびに当然のようにこちらを見る。そのたびに夏油は、自分の中で何かが壊れていく音を聞いていた。
「帰れるかもしれないね」
五条が言った。
夏油の足が止まった。
「……そうだね」
「嬉しい?」
問いは軽かった。けれど夏油には答えられなかった。
五条は少しだけ目を細めた。
「傑は嘘が下手だね」
「君の知っている傑もそうなのかい」
「うん。嘘はつくけど、僕には下手」
その言い方があまりにも自然で、夏油は苦笑した。嫉妬だった。滑稽なほど分かりやすい嫉妬だった。自分ではない夏油傑へ向けた嫉妬。五条悟の隣にいることを許された男への嫉妬。自分が投げ捨てたものを、最後まで離さなかった男への嫉妬。
最低だと思った。
君の配偶者が生きていると分かってから焦るなんて、あまりにも卑怯だ。失うかもしれないと思ってから欲しくなるなんて、どこまでも浅ましい。自分は本当に救いようがない。
「君は帰るべきだ」
夏油は言った。言わなければならなかった。
「新くんも待っている。研究所の皆も待っている。君の傑も、きっと待っている」
「うん」
「だから」
だから何だ。
帰れ、と言うべきだった。
言えるはずだった。
けれど喉が詰まった。
帰らないでくれ。
その言葉が胸の奥で暴れていた。言ってはいけない。言える立場ではない。自分は悟を置いていった。自分は夏油傑でありながら、五条悟を選ばなかった。そんな自分が、今さら五条悟に選ばれたいなどと願うのは醜い。
それでも。
五条の手が膝の上で少し動いた。車椅子からは立ち上がれない男の、小さな動きだった。夏油はその手を見てしまった。細くて、白くて、研究で荒れていて、それでも何かを作り続ける手。夏油を救おうとして、優人を作り、世界を変えようとした手。
気付いた時には、その手首を掴んでいた。
「傑?」
五条が驚いた顔をした。
夏油も自分に驚いていた。離せと思った。今すぐ離して、何でもないと笑えばいい。けれど指は動かなかった。むしろ力が入った。
「帰るな」
掠れた声だった。
五条は黙った。
「帰るな」
もう一度言う。情けない声だった。呪詛師の王を気取った男の声ではない。何も持っていない子供のような声だった。
「私は君を置いていった」
止まらなかった。
「悟を置いていった。親友だと言いながら、勝手に絶望して、勝手に離れて、勝手に呪詛師になって、全部終わった顔をしていた。そんな私が、君に帰るななんて言う資格はない」
「傑」
「分かっているんだ。君は私の悟じゃない。そもそも悟は私のものじゃない。君には君の人生があって、君の傑がいて、君の子供達がいる。私はそこへ入り込むべきではない。君を見ていると、どうしようもなく混ざる。私が置いていった悟と、今ここにいる君が、同じ顔で、同じ声で、でも違う人間で、私はその違いすら都合よく見ないふりをしている」
最低だ。
言いながら、自分で自分を軽蔑した。
「君の伴侶が生きていると分かった途端に焦っている。もう会えなくなると思った途端に、惜しくなった。私は本当に卑怯だ。君を好きだと言うことすら、君が帰るかもしれないと分かってからなんだ」
五条は静かに聞いていた。
怒らなかった。
それがまた苦しかった。
「私は君が好きだ」
言ってしまった。
「でも、君だけを見ているのか分からない。私は悟を混ぜている。君を見ながら、私が置いていった悟のことも見ている。だから君に好きだと言うのは、きっと酷いことだ。それでも、帰ってほしくないと思ってしまう」
夏油は笑った。
どうしようもなく惨めな笑みだった。
「軽蔑してくれ」
その方が楽だった。
しかし五条は、ゆっくりと夏油を見上げた。
「うん。混同してるね」
あっさり言われて、夏油は息を詰めた。
「してると思うよ。君は僕を見てるけど、君の悟のことも見てる。たぶん僕の中に、その人を探してる」
「……そうだろうね」
「でも、それだけじゃない」
五条の声は静かだった。
「君は僕の車椅子を押す。僕が疲れていたら水を出す。優人が泣きそうなら間に入る。僕の研究が危ない方向へ行くと怒る。君は君の悟にしてあげられなかったことを、僕にしているのかもしれないけど、それでも今ここにいる僕を見てる」
夏油は何も言えなかった。
「僕は足が動かない。すぐ体調を崩す。研究を始めたら寝ないし、ご飯も忘れる。諦めるのが早いところもある。君の悟みたいに一人で世界をねじ伏せたりはできない。傑がいないと生きるのが下手だ」
「悟」
「それでいて、僕は欲張りなんだ」
五条は笑った。
「僕は僕の傑が好きだよ。今でも一番好きだし、帰ったら絶対怒られると思う。ものすごく怒られる。たぶん、指輪ごと締め上げられる」
夏油は思わず目を伏せた。
「当然だ」
「うん。でもね」
五条は、掴まれた手を少しだけ動かした。逃げるのではなく、夏油の指に触れるように。
「君も欲しい」
夏油は息を止めた。
「君の全部が欲しい。僕を見ているところも、君の悟を探しているところも、君が卑怯だと思っているところも、十年分の後悔も、嫉妬も、最低だって自分を責めているところも、君の家族も、君の未来も、君の過去も、君の罪すら。全部、僕のものだ」
「悟。君は」
「もう、傑は僕のものだよ。違う?」
その言い方は、あまりにもずるかった。そんなの、全て差し出すしかない。
「綺麗なところだけ欲しいわけじゃない。君がぐちゃぐちゃで、混ざっていて、最低だって思っていて、それでも僕の手を離せない。そのあり方全部を愛してる。君の全部が欲しい」
夏油は目を見開いた。
車椅子の上の五条悟は弱い。立てない。夏油が手を伸ばせば簡単に覆いかぶさることができる。逃げられない。そんな身体なのに、追い詰めているのも、包んでいるのも悟だった。
「だから、傑」
五条が言う。
「良い人ぶるのはやめよう」
「……私は良い人ではないよ」
「知ってる」
「知っているのか」
「知ってるよ。だから、欲しいなら欲しいって言って」
夏油の喉が震えた。
「帰らないでほしい」
「そうじゃないよね。もっと正直になって」
「君が欲しい」
「うん」
「悟も、君も、何もかも混ざっていて、それでも私は君を手放したくない」
「うん」
「全部欲しい」
言った瞬間、顔を引き寄せられ、キスをされていた。
夢中で貪った。もう言葉は要らなかった。
夏油は唇を離すと、車椅子の前に膝をつき、縋るように五条の胸に頭を押し付けて抱きついた。五条の身体は細く、驚くほど軽く、支えなければ壊れてしまいそうだった。だがその腕は迷わず夏油の背に回った。心臓は高鳴り、今までに感じた全ての恋はお遊びだったと思うほど、夏油の想いは昂っていた。
「最低だな、私は」
「そう?」
「そうだよ」
「じゃあ僕も最低だね」
五条は夏油の耳元で笑った。
「君が欲しいって言われて嬉しいから」
夏油は顔を上げた。
近かった。
もう一度、今度は啄むようにキスを交わした。
「怒られないかな」
夏油は言った。
「むしろ怒って欲しいかな。傑が嫉妬してくれるのはご褒美でしかないよ」
「君はそれでいいかもだけど、私が殺されちゃうよ」
「それは頑張って止める」
「止められるのかい」
「たぶん無理」
夏油は少しだけ笑った。
五条も笑った。
「本当はね。不安なんだ。僕の傑は、元気な僕を見て、そっちの方が好きになっちゃうかもしれない。私がいなくても、悟は強い子だから生きていけるね、なんて言い出すかもしれない。傑はモテるから、僕の傑といて安心できた事はないんだ。君は危なっかしすぎて、僕がいないとって思えるけどね」
「すまない。否定したいけれど、似たような事を悟に言ってしまったかもしれない……」
「君の事2人目のお嫁さんにするけど、ちゃんと僕に全部渡そうね。逃げちゃダメだよ」
「わかった」
夏油はいつの間にか出ていた涙を拭いた。
翌日。
日本で調査をしていたスパイが行方不明になったと連絡が来た。
不穏な知らせに、静かに警備体制を整えていった。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを見ている。
アメリカが動いているのがバレたのだ。
マシュマロ
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