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地下施設の一室で、男は静かに資料へ目を通していた。
窓のない部屋だった。外界と隔絶された空間には紙をめくる音だけが響いている。机の上には数十冊のファイルが積まれており、その全てがここ数週間で集められた情報だった。
高専襲撃。
アメリカ政府。
行方不明者。
そして、異世界から来た研究所。
男は最後の報告書を閉じると、椅子へ深く身体を預けた。
思った以上に面白い。
それが率直な感想だった。
高専襲撃の成果は十分だった。元々は謎の組織について調べるために仕掛けた行動が誘発した研究所の暴走だったが、結果として想像以上の情報が手に入っている。
まず研究所の存在。
そして研究所の指導者達。
車椅子の五条悟。
夏油傑。
優人。
新。
男は資料の束から一枚の写真を取り出した。
車椅子に座る白髪の男。
最初に見た時は冗談かと思った。
五条悟。
六眼持ち。
それでいて最強ではない。
術師としてはむしろ不完全。
まともに歩くことすらできない。
だが。
男は机に並ぶ報告書を見た。
東京結界。
呪力発電。
人工生命。
六眼システム。
非術師運用技術。
どれも既存の呪術界を根本から覆しかねない。
術師としての価値は低い。
研究者としての価値は計り知れない。
「面白いな」
男は小さく笑った。
力ではない。
知識だ。
暴力ではなく技術。
それで世界を変えようとしている。
そんな人間は珍しい。
だからこそ興味が湧いた。
次に男は別の資料を開いた。
優人。
人工生命体。
保護対象。
五歳。
男は読み進める。
アメリカから派遣された調査員を尋問して得た資料だ。
そして途中で手を止めた。
「……ほう」
六眼。
無下限呪術。
呪霊操術。
そして、大人顔負けの研究者であり調査員でもある。
夏油を見つけて保護を取り付け、アメリカに行ってエリオットと接触し、結果的にアメリカ政府の保護を得た実績あり。
男は再び最初から読み直した。
冗談ではないらしい。
五条悟ではなく、あくまでも優人主体での交渉。
その事実を確認すると、ゆっくりと笑みを深めた。
最初に報告を受けた時点では器として利用することも考えていた。
六眼(最高の分析装置)、無下限(最強の盾)、呪霊操術(最高の手札)。
まさしく最高の器。
だが、頭脳もこの上なく最高だというなら、話は違ってくる。
五条悟もそうだ。
その頭脳は、くり抜いて捨てるにはあまりに惜しい。
必要十分、優人の事を知るまでは最上とまで思っていた器候補もそばにいる。
まず研究させる。
まず学ばせる。
まず成果を吐き出させる。
その全てを理解してからでも、器にするのは遅くない。
男は資料を閉じた。
「連れて来るか」
呟いた言葉に、近くで待機していた部下が反応する。
「五条悟をですか」
「いや」
男は笑った。
「全員だ」
その方が効率がいい。
研究者は環境ごと奪うべきだ。
それに。
夏油傑がいる。
その一点だけでも十分価値がある。
男は立ち上がった。
「アメリカへ向かう」
部下達は何も言わなかった。
この男が面白いと言った時点で止まることはない。
既に盤面は動き始めているのだから。
同じ頃。
研究所では別の意味で騒ぎになっていた。
「顔色良くなったわね」
エミリーが断言した。
五条は資料から顔を上げる。
「そう?」
「そうよ」
即答だった。
「先週まで死体みたいだったもの」
「ひどいなぁ」
「事実よ」
周囲の研究者達も頷いている。
エリオットまで頷いている。
満場一致だった。
五条は納得いかない顔をしたが、誰も味方してくれなかった。
端的に言ってツヤツヤしている。
「寝るようになったからじゃない?」
「違うわね」
エミリーは断言した。
「恋人ができたからよ」
五条がにっこりと笑った。
夏油が盛大に咳き込む。
その反応を見て、研究室中が生暖かい目になった。
「それで」
エミリーは平然と続ける。
「土下座の練習はした?」
「土下座?」
「ええ」
エミリーは当然のように頷いた。
「帰ったら必要でしょう?」
室内の研究者達も真顔で頷く。
「必要ですね」
「必要だな」
「必要だと思います」
誰も反対しない。
夏油は頭を抱えた。
「やっぱり必要かい?」
「逆になんで必要ないと思うの?」
エミリーは問いかけた。
「配偶者がいるんでしょう?」
「いるね」
「その状態で別の人と付き合ったんでしょう?」
「そうなるね」
「土下座ね」
結論だった。
五条は笑っている。
夏油は笑えない。
「傑なら怒らないよ」
研究室の全員が同じ顔をした。
どう考えても怒る。
それ以外の未来が見えない。
「だからね」
エミリーが言った。
「謝罪の品はちゃんと選びなさい」
「経験談?」
誰かが茶化すように聞いた。
「もちろん」
研究室が静まり返った。
エリオットがゆっくり振り返る。
「今なんて?」
「経験談よ」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
研究者達が固まる。
エミリーだけが平然としていた。
「人生長いと色々あるの」
「解決したんですか」
「したわ」
「どうやって」
エミリーは胸を張った。
「相手の奥さんと仲良くなった」
研究室が沈黙した。
五条だけが爆笑している。
夏油は本気で引いていた。
「参考にならない……」
「そうかしら? この上なく参考になると思うけれども」
エミリーは首を傾げた。
「敵を減らすのは大事よ」
その理屈だけは妙に説得力があった。
ちょうどその時。
優人が顔を出した。
「じゃあ謝罪の品探そう」
「優人?」
「正妻への貢物」
五条がまた吹き出した。
「やめなさい」
「大丈夫」
菜々子が笑う。
「女心は私達が教えてあげる」
「向こう男なんだけど」
「関係ないわよ」
美々子まで頷く。
利久も腕を組みながら真顔だった。
「必要ですね」
「必要だね」
なぜか全会一致だった。
そんな騒ぎの中心で、五条だけが妙に楽しそうに笑っていた。
誰も気付いていない。
遠い海の向こうで。
自分達を狙う男が動き始めていることを。
そして。
その男がもうすぐ手の届く場所まで来ることを。
マシュマロ
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