星歴七百五十六年。
東西を険しい山脈に挟まれた急峻な隘路、ロザリンド渓谷。
それを上空から眺める大鷲がいたなら、その運命の一日だけ、渓谷は流れる赤い川のように見えていたに違いない。
北から攻め込んだオルクセン軍約五万と、南から迎え撃つドワーフ・白エルフの連合軍約四万の戦いは、正午ごろに始まった。夕刻まで続き、狭隘な地を両軍兵士の死骸が埋め尽くし、地をぬかるませるほどの膨大な血が流された。日没が近づくころ、大会戦に決着の時が迫ろうとしていた。
この戦い——ロザリンド会戦は、白エルフの将軍マルリアンの知略によって、野蛮なオーク軍が一蹴されたかのように語られる。当のオルクセン側の歴史においても、辛うじて一矢報いたオーク達の悲壮な戦いぶり、ことに時のオルクセン王アルブレヒト二世の突撃と劇的な最期に焦点があたるのみで、会戦自体は一方的な敗北だったと記されている。
オルクセン軍参謀本部の公刊戦史は、云う。
……胸壁の影に伏せたる白エルフが銃隊、轟然と斉射する。銃声萬雷の如く、
アルブレヒト大王の之を見るや、敢然と起ち、本営の諸将に告げて曰く。「この敗軍の結果は、敗軍それ自身よりも恐るべし。予、生きて我が国の滅亡を見るに忍びず。
大王は近衛巨兵連隊を親率し、その先頭に立つて
折しも白エルフ軍、勝機に乗じて胸壁より出で、突撃して来たる。大王が直率せし近衛、之に突貫す。直ちに両軍相乱れ、短兵急に相接して、銃砲を用いるの余地もなく、弾丸を
……将兵、勇躍して進み、今や胸壁は
之に到り、大王は瀕死の
一世の英雄アルブレヒト大王の戦没、其の様は斯くの如しと聞こゆ。天は
敵将マルリアンは、今しも胸壁の内奥に於いて銃兵を指揮してゐたが、一将校の馳せ来たりて、
天才的な用兵家として知られたオークの大王と、迎え撃つ白エルフの名将マルリアンの対決は、永遠の光輝を放つ名勝負として、星欧戦史に刻まれた。
◇
伝説の会戦、その最終局面において、エルフィンド軍の副将マルリアンの姿は、渓谷の起伏に築いた陣地の中にあった。十歳かそこらの少女にしか見えない小さな身体を震わせ、陣地の胸壁を拳で叩き、かつ叫んでいる。
「誰が追撃など命じたか! 堡塁に戻れ、戻れッ」
マルリアンは堡塁内から懸命に魔術通信を飛ばすが、混信のために殆ど届かない。彼女に聞こえたのは無秩序な叫び声だ。
<仇を、あいつの仇を>
<一匹も逃すな!>
<殺す。殺してやる!>
マルリアンは目が眩むような思いがした。熾烈な白兵戦で仲間を殺された――中には喰われた――エルフ兵たちが、敵の潰走を好機とみて、復讐心の命じるままに独走してしまったのだ。それを見た者たちが我も我もと堡塁から出撃し、なし崩しに追撃戦が起こっている。まったく、彼女の計算の外だった。
「いかん、いかんぞ。このままでは」
マルリアンの傍らで、同様に魔術通信を試みていたイヴァメネル大佐が進言した。
「命令が届きません。いっそ、総追撃に移っては。敵は完全に崩れております」
マルリアンは青い顔で答えた。
「駄目だ、まだ駄目だ。奴は以前にも、そこから逆転した」
恐るべきオークの首魁、アルブレヒト二世王のことである。当代随一の用兵家として知られるオーク王は、必敗と思われた会戦を逆転し、最後には大勝利を収めてみせたことがある。その時、敵王が大苦戦をいかにして凌いだか、マルリアンは知っている。
「きっと出てくる! 自ら近衛を率いて最前線へ。そうなれば出撃した連中は」
陣地の有利を失い、平地に身を露わにして、オーク兵と接近戦をやることになる。すぐにも白兵戦に陥ってしまうに違いない。そうなれば体格と筋力ではるかに優るオーク兵と戦って、白エルフに勝ち目はない。それがマルリアンの計算だった。だから堅固な陣地に籠り、射撃で敵を迎え撃つ戦法で、何とか敵の猛撃を跳ね返してきた。だが、最後の勝利に達しようという段階で、彼女は軍の制御をほとんど失ってしまった。
イヴァメネル大佐が言った。
「私が参ります。駆け回って、将兵を引き戻しに」
恐るべき勇気の発露といっていい。オーク兵と差し向かいになることを覚悟の上で、マルリアンのために陣地を出ると言っていた。
マルリアンは空を見た。日が没するには、まだ僅かな時間を残している。その間を凌がねばならない。
日没まで守り切れれば白エルフの勝利。それまでに防御陣地を抜かれれば、野蛮なオークの勝利。大会戦の成否は、これからの数十分にある。ここでマルリアンが負ければ、オークどもはドワーフの国を平らげ、余勢を駆ってエルフィンドにも雪崩れ込んでくるだろう。それを防ぎ得る戦力は無い。
平和なエルフの国は亡び、白エルフはあげて野蛮なオークどもの餌か、妾か、あるいはその両方になり果てる。種族の運命がいま、マルリアンの采配一つに懸かっている。
「いや」
マルリアンは決断した。
「守りを固めるのが優先だ。焦って飛び出した連中のことは、運を天に任せるほかない。後方から兵をかき集めて、空いた堡塁に入れるんだ。奴はきっと来る。急げ!」
その時、エドウェン・リンデル歩兵中尉の姿は、マルリアン少将が籠る陣地の、やや後方にあった。
前方へ、前線へ。渓谷の起伏を部下とともに駆けるリンデル中尉の脳裏に、大出力の魔術通信が鳴り響く。
<全歩兵隊、陣地へ入れ! 第三層陣地の先端へ!>
魔術通信は更に届く。司令する。
<それより先へ突出するな! あくまで陣地で防御するのだ。軍令に背く者は斬る!>
歩兵中隊長たるリンデルは、ともに駆ける部下たちに向けて命じる。
「皆、聞こえたな! 急げ、前方の陣地へ!」
若き中尉の内心は、果てもなく高揚している。彼女の立場では戦況の全般など分からないが、前進しているからには勝ちつつあるに違いない。勝利を。勝利を。野蛮なオークどもを倒すのだ。渓谷の硬い地面を蹴るたびに、勝利の栄光に近づいているのだと、彼女は疑いもしなかった。
勢いのまま坂を駆けあがり、息が切れる寸前で、リンデルたちは斜面に設けられた防御陣地に滑り込んだ。北面に築かれた花崗岩の石積みから顔を覗かせ、前方を窺う。
「なん……ってことだ」
見えたのは、迫りくる真っ黒な塊だった。無数の銃剣を突き出して、裁縫に使う針山のようでもある。数は、存外少ない。せいぜい百か、二百か。黒軍服を着たオーク兵の一団だ。
だが、その小さな暗黒が進むたび、血の旋風が舞う。喚声をあげて立ち向かう数百、数千の白エルフ兵たちが、黒い一団に接した途端に撃砕される。陣地を飛び出した白エルフたちは忽ち戦意を喪失し、悲鳴をあげて逃げようとする。だが、その背を銃剣に貫かれ、倒れたところをオークの巨木のような足に踏みにじられて、地面に広がる血だまりとなった。
「化け物ども……!」
歯を食いしばり、心内の怒りを煽り立てる。さもなければ恐怖が湧いて、総身を凍らせてしまうだろうから。懸命に己を保ちつつ、リンデル中尉は命じた。
「中隊、打ち方用意! オークどもを倒すぞ」
「り、了解!」
リンデルに従う白エルフ兵たちも、敵の異常な強さを目にして怖気づきつつあったが、まだ命令に従うだけの落ち着きは残していた。自分たちは防御陣地の中にいるという安心感が、気持ちの支えになっている。
(奴ら、突進してくる。胸壁は銃弾を弾くが、オークどもが突入してきたら)
視線の先で、また血煙が立った。あの黒い悪魔たちが胸壁を越えて襲来すれば、今度は自分があれになってしまうのだ。そう想像するだけで、指先が小刻みに震えだす。
(でも、あいつらがシルヴァン川を越えてきたら。その時は、国の全部が、ああやって)
許さない。
それだけは許してはならない。
その一念で、震え始めた拳を握る。爪が手の平に食い込むまで力を込めて、震えを抑え込む。
「敵が、オークが近づいてきます。射撃の許可を!」
叫んだのは中隊長付の下士官。アングディア・バランダル二等軍曹だ。
「い、いや。まだだ、軍曹」
「しかし」
「駄目だ。味方にあたる」
それは確実な予想だった。悲鳴をあげ、恐怖に満ちた形相で、逃げてくる白エルフ兵たち。彼女らが、リンデル中隊とオークたちの間、射線上に数百もいる。「助けて、助けて」と、声と魔術通信で叫んでいる。
白エルフの必死の逃げ足よりも、オークの方が速いはず。だが、敵の一団は逃げる白エルフを殺し尽くそうとはせずに、すぐ後ろから追ってくるように見えた。
「まさか、奴ら」
わざとなのか。白エルフ兵を生きた盾のようにして、それで陣地に突っ込もうというのか。糞、なんと狡猾な。
「中隊長!」
「だ、だが」
再び胸壁の合間から見下ろせば、次々に味方を殺されながら逃げる白エルフ兵たちの恐怖が、魔術波に乗って押し寄せた。
<助けて、助けて>
<オークが、オークが>
<死にたくない。嫌だ>
そう叫んだ兵が、また殺されたのが見えた。
「オークめ、あの悪魔ども」
「距離が詰まっています。オークども……あっ!」
頼みの軍曹は、何かを見つけたらしかった。その指が示す先に、リンデルも視線を向けた。黒い敵の群れの中央に、赤いものが見えた。ゆらゆらと。あれは。
バランダル軍曹が恐怖に満ちた声をあげた。かつて聞いたことのない。
「赤いマント……! 王だ。オークの王だ」
それが敵王のしるしだとは、既に白エルフにさえ有名だ。
リンデルも恐るべき現実を言葉に出した。
「オーク王、アルブレヒト!」
目を凝らせば、赤いマントを羽織った敵将校は、他のオークより大柄で、装束も立派なように見えた。小銃を持たず、サーベルを振り翳して指揮をとっているらしい。
「あれが魔王。じゃあ、あれは敵の近衛なのか」
リンデルの腹の底から言い知れぬ恐れが湧き上がる。野蛮なオークどもをまとめあげ、悪鬼の軍勢に仕立てて、星欧を席巻した魔王。三倍の人族軍を撃破したという、恐るべき敵の王。
それが自分たちに迫っているという事実が、避けられぬ死の確信となり、背骨を駆け上って凍らせた。心臓まで止まるかと思うほどの恐怖だった。
血を纏ったような魔王に率いられ、恐るべきオークの最精鋭は、みるみる姿を大きくする。もう、どうしようもない。逃げるとしても遅すぎる。みんな犯され、殺されて、挙げ句に食われてしまうのだ。
が、その時、戦場を圧するほど大出力の魔術通信が響いた。
<全歩兵、全砲門!>
甲高い少女の声音で。
<赤いマントを狙え! あれが敵の王ぞ!>
魔術波の発信源に目線が引き寄せられる。リンデルの籠る堡塁から、数百メートルほど西にある中央陣地。敵の正面だ。
その胸壁を踏み、果敢に屹立する小さな肢体がある。敵の雄叫びと渓谷の風に身を晒す、金髪の少女。あたかも小さな獅子だった。
魔術通信で、そして肉声で、ダリエンド・マルリアンは吼えた。
「撃て!」
その命令に即応したのは、マルリアンの膝下、中央陣地だけだった。それでも無数の銃弾、砲弾が飛ぶ。逃げてくる白エルフ兵がばたばたと倒れ、あるいは砲弾に消し飛ばされる。
悲鳴の魔術波が倍化する。その全てを押し返すほど、マルリアンは吼え続ける。
<撃て、撃ち続けろ、兵士たち!>
その非情、その命令は己のものだと誇示するように、マルリアンはサーベルを抜き、天を支えるように掲げた。
<祖国エルフィンドを思え! 兵士たちよ、祖国を思え!>
祖国。我らの後ろにある、平和なエルフの国。
ついにリンデルも命じた。
「中隊、撃てェ! 構うな、撃ちまくれ!」
その斉射が届いたか、倒れるオークは数を増した。逃げていた味方は既に全滅している。そして、
「やったぞ! 見ろ!」
リンデルは叫んだ。赤いマントが揺れ、ばたりと地に伏した。
「やった、敵の魔王を倒したっ! 味方の」
勝ちだ、と。そう叫ぼうとした時である。リンデルのみならず、その時、その場にいた全ての白エルフの期待を、しかし現実は裏切った。
倒れたと見えた赤マントのオークが立ち上がった。まるで傷などないように。否、確かに傷はある。腹を押さえている。しかし、それでもサーベルを振り、何かを叫んでいる。
どっ、と聞こえる敵の吶喊があがり、オークたちは隊形を崩して、一斉に疾走を始めた。無論、エルフの籠る陣地に向かってである。その中央、マルリアンの陣地を目指している。彼女が将だと、オークどもは分かっているに違いない。
「う、撃て! 奴らを止めろ!」
リンデルは重ねて命じた。中央陣地でも、マルリアンが盛んにサーベルを振っている。「撃て、撃て」という少女の声がかすかに届くが、オークの蛮声がそれをかき消す。
白エルフの兵士たちは、筒も焼けよとばかりに撃ちまくっているが、それでも足りない。止まらない。黒い津波は恐るべき勢いで坂を駆け上り、中央陣地の胸壁へと達しようとした。
その先端にいたマルリアンを、別の白エルフの腕が掴み、陣地内へ引き戻したと見えたが、後のことは分からない。
リンデルの部下の兵士、その幾名かが叫んだ。
「将軍がやられた!」
「もう、もう駄目だっ!」
赤マントを先頭に、暗黒の群れが堡塁の中へ踊り込んでいく。真っ黒な怒涛が、白エルフを殺し尽くすに違いない。
マルリアンも倒れる。食われる。すると、残された兵たちも。みんな死んでしまう。
逃げよう、とリンデルは思った。だが、いったい何処へ。この渓谷を失えば、あの恐るべき悪鬼たちは、エルフィンドを焼き尽くすだろう。逃げても追いつかれ、やがて追い詰められて殺される。
退けば死。
進んでも死。
だが迷った時は進めと、リンデルは教えられてきた。そしてあの金髪の少女の咆哮が、耳目に焼き付いて離れない。
「おああぁ!」
リンデルは叫び、胸壁を踏んで立ち上がった。渓谷を吹きすさぶ風に我が身を晒す。そして命じる。
「中隊、総員着剣!」
将校用のサーベルを抜き、兵たちの視線を集める。我を見よ。我を見よ、兵士たち。勇気の意味を思い出せ。
「エルフィンド! エルフィンド! 我らのふるさとのために!」
きっ――と敵を見据えた目が滲む。生と死。その狭間にあって、彼女の命はいま、燃え立つ炎にほかならぬ。
その足が、ぱっと胸壁を蹴った。
「総員、我に続けぇッ!」
後ろを振り返りはしない。たとえ誰もが怖気づいて足を止めて、ただ独りで敵中へ駆け入ることになったとしても。
前のみを見て駆けるリンデルの後ろで、無数の声がした。
「中隊長に続け!」
「味方を救え!」
「我らの中隊も、行くぞ!」
西から。東から。南から。あらゆる陣地から白エルフたちが飛び出し、激戦の中心へ殺到した。
(次話「ロザリンドの王殺し」へ続く)