それから起こったことは、エドウェン・リンデル中尉の記憶において、ひどく断片的になっている。
たった独りで堡塁を飛び出した後、どのように走ったか。真っ直ぐに駆け抜けた気もするし、転びかけた気もする。何度思い出そうとしても、はっきりしない。
確かな記憶は二つの声だけである。
第一の声の群れは、彼女が飛び出した直後。すぐ後ろから大出力の魔術通信が響いた。
<中隊長に続け! 突撃! 前へ!>
バランダル軍曹だった。万事に器用だが、特に魔術波の扱いに長けた下士官だ。その怒号のような通信波が、無数の反響を生じさせた。
近くから、遠くから。数知れぬ白エルフたちが立ち上がり、皆、全力の通信波で呼応した。
<行くぞ! あたしたちも!>
<あいつに続け!>
<突っ込め、突っ込め!>
意味を為さぬ叫び、ただの突撃の喚声を乗せた波も無数にあった。たちまち混信し、何も聞き取れなくなった。
それでもよかった。
白エルフは、オークに白兵では勝てない。
そうと分かった上で、死に向かって駆けながら、独りではないと知ることは、悪くない気分だった。
気がついた時、リンデルは中央陣地の胸壁を飛び越え、その中に着地した。その足が滑りかけた。ぬめりとしたものを踏んだのだ。
そこには地獄があった。
「グォオォ……オルオォンッ!」
野獣のように吼え、竜巻のように猛威を振るう、血の色をした鬼どもがいた。堡塁に突入したオークの近衛兵たち。巨兵連隊との異称に相応しく、天を衝くような巨躯が、白エルフ兵を殺戮している。
中央堡塁に籠っていた白エルフ兵たちは、必死に防戦したらしい。
胸壁を乗り越えてすぐのところに、両軍の死体がある。一頭のオーク兵が、その腹に三本、四本もの銃剣を突き刺されて息絶えて、それを囲むように銃剣と同数の白エルフが死んでいる。頭を潰され、上体をほとんど両断された姿で。胸壁を乗り越えたばかりで不安定な姿勢のオークに向けて、命を捨てて突っ込んだに違いない。
胸壁沿いの死闘を突破したオーク兵は、そう広くはない陣地の内奥に向かったらしい。死闘の叫びが、剣戟の音が聞こえてくる。邪悪なオークどもは知っているのだ。そこに、全エルフィンド軍の頭脳というべき将軍がいると。
そちらへ向かおうとした矢先、リンデルの前に一頭のオークが立ちはだかった。
「グォオォ……オルオォンッ!」
その悪鬼の咆哮だけで心臓が消し飛びそうになる。リンデルは負けじと叫びつつ、横方向に跳ぶ。彼女の脳天向けて振り下ろされた小銃の銃床が地面を叩く。
そのまま前に飛び込むように転がりつつ、サーベルでオークの足首を払う。巨木のように太い脚は断てないが、腱を切り裂くことはできた。
追いすがろうとして転倒したオークの脳天にむけ、振り下ろす斬撃。が、命を断つには至らない。敵の頭部を守る黒い革兜、その先端の突起(スパイク)のせいで剣が滑った。
刃は敵の肩に切り込む。
急いで引き抜こうとするが、分厚い肩の筋肉が刃を挟み、焦れば焦るほど抜けない。
「グアア!」
オークはまだ健在だった。悲鳴か、怒声か。悪鬼は吼えつつ腕を伸ばし、リンデルの首を掴んだ。たちまち息が詰まり、激痛が襲う。オークの片手の握力だけで、首の骨がへし折られようとしている。
「――! ——ッ!」
体をよじって抜けようとするが、敵の手は万力のように動かない。
「――! ——ッ!」
強まる圧力が彼女の命を奪うよりも、一瞬だけ早く。
オークの喉から銃剣の先端が突き出し、噴き出した血がリンデルの顔を濡らした。途端、締め上げる剛力が消え、リンデルは解放された。
「中隊長!」
銃剣の主はバランダル軍曹だった。軍曹はオークから銃剣を引き抜くと、リンデルを介抱しようとした。リンデルは乱暴に振り払うと、軍曹の分厚い肩を掴んで立ち上がった。
「大丈夫だ。それより敵を。敵の王を倒すぞ。奥の方に」
いる、と指さした方向から、また二頭のオーク兵が向かってきた。小銃を棍棒のように振り回し、叫びをあげている。
「グォオォ……オルオォンッ!」
まさしく地獄の悪魔だった。
だが、殺せる。力を合わせれば、殺せる。
その確信がリンデルの新たな勇気だった。敵の血を顔から滴らせつつ、リンデルは軍曹に、そして追いついてきた兵士たちに命じた。
「散開しろ! 囲め! 囲んで突けば、殺せる!」
軍曹の肩から手を離し、己のサーベルを振り上げて、リンデルは命じた。
「前へ!」
命じた彼女を押しのけて、今度はバランダル軍曹が先に駆けた。リンデルは自分の命令に従い、横に走って角度をつけ、敵の側面から斬り込んだ。
それから、どう戦い、いかにして切り抜けたのか。リンデルの記憶は怪しい。ごく短時間の戦いだったはずだが、永遠のように長くも感じられた。
ふと気づいた時、辿り着いた陣地の内奥で、リンデルは最強の敵を見つけた。
悪鬼どもの首魁。オークの王、アルブレヒト二世。血をまとったように赤いマントを振り乱しつつ、長大なサーベルを旋回させている。
対峙するのは、背の低い、少女のような白エルフ。一命に換えても守ろうと、リンデルが追い求めたマルリアン将軍だった。
少女の声が叫んだ。
「アルブレヒト!」
オーク王も応じて吼える。
「グォオォ……オルオォンッ!」
鉄が砕けるような音がして、マルリアンのサーベルが、王の斬撃を受けとめた——と見えたが、小さな白エルフは途端に弾き飛ばされた。体格、体重の差がありすぎるのだ。陣地の側壁に打ち付けられて、マルリアンは動かなくなった。
とどめをささんと、オーク王は一歩を踏み出す。
突進したリンデルがオーク王の背中に衝突したのは、その瞬間だった。敵の黒制服の脇腹に、切っ先を捻じ込んでいる。
が、敵の歩みは止まらない。倒れも、揺るぎもしない。己の命を奪おうとする、白エルフの中尉に目をくれることすらしない。
「グ、グゥァ……イァ……!」
己の腹に刃を突き立てたリンデルを引き摺りながら、それでも一歩、一歩と進む。マルリアンまでの距離は、あと三歩もない。
「この、化け物!」
右手にサーベルを押し込みながら、リンデルの左手が腰の将校用短剣を抜いた。
「死ねッ!」
跳びあがりつつ叫び、オーク王の左脇の下に刺突。
「死ねッ! 死ねやッ!」
引き抜いては刺し、引き抜いては刺した。三度目に深く刺さり、短剣が抜けなくなる。
ようやくオーク王は歩みを止めて、がくりと膝をついた。リンデルも引きずられる。死にゆくオーク王と絡み合うように倒れ伏す。マルリアンのわずか一歩手前だった。
地面に打ち付けられたリンデル、その数センチ先に、死にゆくオーク王の顔があった。オークの血まみれの目が大きく見開かれ、その口から鋭い牙が覗いた。
そしてリンデルは、オーク王が発したか細い声を聴いた。
「オ……グルォ……ケエニ……ヒ」
それが、リンデルにとって忘れ得ぬ二つ目の声になった。
そしてオーク王は動かなくなった。リンデルはもがくように立ち上がり、マルリアンに目をやった。
「マ、マルリアン将軍」
ご無事ですか、と問おうとして、リンデルは言葉を失った。
少女姿の将軍は無事だった。自力で半身を起こしている。が——その瞳は、今しも息絶えたばかりのオーク王を見据えたままで、驚愕に見開かれていた。
「……将軍?」
尋ねられて、マルリアンは我に返ったようだった。リンデルに頷き一つを与えて、危なげなく立ち上がる。
途端、マルリアンは大出力の魔術通信を発した。
<オルクセン国王、アルブレヒト二世は死んだぞ!>
その堡塁の中に、そして渓谷中に鳴り響き、いまだ死闘を続ける全ての白エルフに届いた。声は繰り返す。勝利の福音を。
<オーク王は死んだ! 残敵を討滅せよ!>
その魔術波を間近に浴びて、また激闘の終わりから、リンデルは呆けたようになっている。
その時、彼女の脳裏には、マルリアンの言葉は案外と響かない。
ただ、死にゆくオーク王の最後の声が——そう、それが野獣の叫びではなく、知性ある者の末期の言葉のように聞こえたという衝撃が、エドウェン・リンデルを長く捕えて離さなかった。
◇
「そ、それで……」
ドゥイリン少佐は青ざめた顔で尋ねた。彼女の目の前にいる陸軍大佐が、生きる伝説——ロザリンドの王殺しだと分かったからだ。
「リンデル大佐、数々のご無礼をお許しください。あなたがそのような……ロザリンドの英雄だとは存じませんで」
リンデルは苦笑した。
「そんな者ではありません。英雄など」
「ですが」
「英雄など、路地裏の酒場にはいくらでもいる。その程度のものだ。あの戦場に本物の英雄がいたとするなら、それは死んだ兵士たちのことです。生きて帰った者は……濁世で、色々とつまらぬ目に遭うものです」
ドゥイリンは、それを謙遜として受け取ったらしい。神妙な顔で問うてきた。
「それで、どうなったのですか。その後は」
リンデルは、あっさりと言った。
「勉強しました」
「……は?」
「オルク語を。大変でしたよ。あの頃、オルク語の書物などなかったので。コボルトの旅商人に教師を頼んで——ああ、国に帰ってからの話ですよ。無論。ドワルシュタイン併合が終わって、落ち着いてから」
「そういう話では」
「いえ、実に、そういう話なのです。何年か勉強して、やっと理解できました」
「一体何を?」
「あの戦いのことを。彼らのことを。マルリアン将軍が、あの時、何に気付いたのかを」
リンデルは、夕焼けに呑み込まれようとする空を見た。そして再び思い出した。
あの激闘。あの声のことを。
オークの近衛兵たちは、叫んでいた。
<グォオォ……オルオォンッ!>
魂を凍らせるような、邪悪な獣の叫びだと、リンデル中尉には思えた。
リンデル大佐には、その意味を汲み、アールヴ語に換えることができる。それを海風に乗せた。
「オルクセン万歳」
腹に刃を受けながら、オークの首魁は懸命に叫んでいた。
<グゥァ……イァ!>
「我らの故郷のために。そして……」
リンデル中尉の短剣を心臓に受け、マルリアンを打ち損じて果てる時、最後の息は言っていた。
<オ……グルォ……ケエニ……ヒ>
今のリンデルには明瞭に分かる。その意味も。その理由も。彼がそうした気持ちすら。
「『大王万歳』——と。それが最期の言葉でした」
(次話「敗れざる者たち」へ続く)