標的への接近
<こちらメカジキ舟。海鷲が来た。聞こえるか>
闇夜の中に魔術通信が響く。術力を持たぬ者には波の音しか聞こえない、夜の海である。
その真っ黒な波のゆらめきから、ぽつりと上半身を突き出し、ドゥイリン少佐は海風に身を晒している。少佐は繰り返す。
<こちらメカジキ舟。海鷲が来た。聞こえるか>
「少佐殿」ドゥイリンの足元からバランダル曹長が言った。「申し訳ありません、出力が大き過ぎます。代わって下さい」
ドゥイリンは無言で梯子を下り、波の下に戻った。古手の下士官が丁重にものを言うとき、将校は必ず尖り耳を傾けて聞くべきで、その道理に陸海の差はないのだった。
ドゥイリンと身を擦り合わせるように入れ替わり、バランダルが梯子を登って星の下に出た。
「海風がこんなに美味いとはね」
そう小声で嘯くと、バランダルは目を閉じた。精神を集中し、岸辺の方に矢を放つイメージを作る。
<海鷲が来た。網元、聞こえるか>
今度はすぐに返信の魔術波がきた。バランダルの放ったそれに比べれば、素人くさい、散漫で聞きづらい通信だが、確かにこう言っていた。
<こちら網元。待っていた>
得たりとばかり、バランダルは会話を続ける。
<こちらメカジキ舟。海鷲は魚を狙っている。早くおかに上がって一杯やりたい。浜の準備はいいか>
<いつでもよし。網子は揃っている>
<では、20分後に網を引け。それまで灯りをつけるな。魚が驚く。終わり>
<分かった。大漁を願う。終わり>
バランダルは魔術感覚を閉じ、目を開けた。自分の足の下に向けて小声で告げる。
「お聞きの通りです」
「了解」ドゥイリンの声がした。「梯子に掴まれ」
バランダルは、既にそうしていたが、しっかと握り直した。
途端、身体がふわりと浮かぶように感じ、視線が1メートルほど上がった。
山岳猟兵たちを乗せた潜水艇が、海面上にその姿をあらわした。
◇
エルフィンド海軍の試作潜水艇メルギラス型、その二番艇は、出航から丸二日をかけて、ベレリアント半島東の沿海部を進み続けた。
自国の沿岸といえども、危険極まりない海である。開戦劈頭のベルファラス湾海戦でエルフィンド海軍の主力がほぼ壊滅し、僅かに残ったリョースタらの残存戦闘艦もその後の海戦で撃沈されてしまった。
ベレリアント半島周辺は、あげてオルクセン海軍の狩り場だ。フィヨルドに残存するエルフィンド海軍の小艦艇を捜索、殲滅しようとするオルクセン海軍荒海艦隊が、しきりと沿岸部に侵入しては、軍港を砲撃してまわっている。また、エルフィンドの海上交易路を封鎖するべく、「グスタフ王の海賊」と称させる帆走の仮装巡洋艦が多数徘徊して、キャメロットーエルフィンド航路の商船を見つけては、臨検・拿捕を行っている。
全体として、ベレリアント半島沿海の制海権をオルクセン側が完全に握っていることは、否定できない事実だった。
それでも白エルフたちに付け入る隙がないではない。いかに時代が進み、軍艦が手漕ぎや帆走から蒸気推進に変わろうと、制海権とは本質的に流動的なものなのだ。「海上封鎖」といい、「航路遮断」といっても、所詮は海上のことである。地上のように石垣や関所を作って物理的に封鎖を行うことはできない。巨砲を備え、城のように大きな大型装甲艦といえども、海の広大さに比べれば小さな点に過ぎない。いかに強力であっても、その射程は艦から見える限りの範囲に過ぎず、またいかなる大艦隊といえども同時に複数箇所に存在することはできない。
すなわち制海権とは、相手の艦船や軍港を物理的に破壊してしまうのでない限り、「優勢な敵艦隊と遭遇すれば沈められるし、いつ遭遇するか分からない」という恐怖心を抱かせ、航海を諦めさせることから生じる効果のことをいう。畢竟、恐れ知らずには通じない。
現に、白エルフびいきの酔狂なキャメロット人が命知らずの快速帆走船を仕立て、たった一隻でオルクセン海軍の封鎖を突破しては、エルフィンドに石炭や小銃を密輸している。無論、所詮は一隻だけのことで、その輸入量は戦争遂行の必要量から程遠い。
だがそれでも、圧倒的優勢なオルクセン海軍を出し抜いて、そのような奇功を水上に挙げ得るという事実は、戦争継続を諦めぬエルフィンド王国民たち、ことに残存エルフィンド海軍将兵にとって、小さからぬ希望だった。
その点で、潜水艇は特に期待できる艦種だった。
この新奇な船は、小さからぬ利点と、大きすぎる欠点とを持っている。利点とは、他の船ならば隠れる場所など存在しない海にあって、唯一、海面下に隠れられるということだ。目視以外に索敵手段がないこの時代の海軍に、海面下のものを見つける手段はない。魔術探知波を用いる魔種族の海軍であっても同様である。海面が魔術探知波を反射してしまうからだ。
他方、いまだ克服の目途がたたぬ欠点は、数え上げればきりがない。まず、空気の備蓄の限界から、潜水できる時間は一時間にも満たない。それ以外の時間は普通の船同様に見つかってしまう。また、蒸気機関の搭載が極めて難しいということもある。石炭を燃やすのに必須の吸排気が、潜水中にはできないということである。いくらかの解決策が考えられているが、いまだ実用には至っていない。ゆえに当代の潜水艇は、船内の左右につきだした手回しクランクを人力で回して進む。当然、極めて鈍足。全力を出しても2ノットか3ノットで、軍艦の巡航速度の半分にも満たない。その程度の速度でも、乗員の疲労は急速だから、航続距離も極めて短い。せいぜい、ごく近距離にある敵軍港を襲撃するくらいしかできないが、それなら高速水雷艇でいいではないか——というわけで、潜水艇は画期的な割には使い道がないのだった。
ただし、人間族ならぬ白エルフが乗り込んだ場合には、話が違ってくる。
まず、白エルフの魔術適性が生きる。海面航行中、ときおり魔術探知波を発して遠方の敵艦らしいものを見つけ、その針路を標定する。敵が近づいてきそうだと判断すれば潜水して隠れ進む――という形で、限られた潜水時間を適時に使うことができるのだ。
また、その優美な容姿とは相違して、エルフは体力もある。腕といい脚といい、人間の女性のような容姿だが、その筋力も持久力も、屈強な人間の男に数倍するのだ。例えばエルフの農民は、見た目には小娘のようであっても、人参や芋を山と詰めて百キロ以上はある大袋を複数持ち上げ、日がな運んで働くことができる。そのようなエルフ族が漕ぎ手となれば、潜水艇の速力は人間が乗り込むときの二倍、三倍に達し、水上艦の巡航にやや劣る程度にまで向上する。航続距離も、さすがに帆走や蒸気船には及ばないが、水と食料が尽きぬ限りは進める、ということになる。
艇長たるドゥイリン少佐に率いられた二番艇は、ツノを突き出したメカジキのような船型で波を切り裂きつつ進んだ。その狭い艇内では、シャツ一枚になった白エルフ兵たちが並び、汗みどろになってクランクをまわした。左右の漕手の息があわねばならぬから、小声で調子をとりながらである。三十分ごとに交代する。といって、休みをとろうにも、横になるほど広い床はなく、座るべき椅子もないから、隅の方で膝を抱えてうずくまり、身を寄せ合っているだけのことだ。出航から数時間で、艇内は悪臭で耐え難いほどになった。それでも浮上航行しているうちはましであった。
やがて魔術探知波が敵らしい反射波を捕え、変針しても避けきれぬとなると、ドゥイリンは潜航を命じた。当初は船橋を残して船体のみ潜り、敵のマストが見えかけると艇全体を海面下に隠した。海面上に小さな潜望鏡を突き出して、動静を窺う。近づいてきたものは、多くの場合、オルクセンの軍艦であった。そのような時、白エルフ達は、真っ暗な艇内で窒息の恐怖に耐えながら、敵が去るまでじっと待たなければならない。敵が近くをぐるぐると巡って哨戒しているらしい時は、薄くなる空気の中で小刻みに呼吸をしつつ、漕ぎに漕いで敵から逃れた。
やっと束の間の安全を得て浮上し、艇内に新鮮な空気を入れたときは、乗員全員が肩を叩き合って喜んだ。ともに死線を越えた彼女らに、水兵と陸兵の垣根はとうに失せており、みなが百年知己のようになっている。
刻苦と恐怖の航海が二日続き、さすがの精兵たちも朦朧としはじめた頃、ようやくネヴラス沖に着いた。ドゥイリンが船橋から頭を出し、エルフの紅眼を凝らして沿岸の地形を確認すると、確かにほぼ予定の地点であると分かった。主力装甲艦スヴァルタで副長を務めていただけのことはあり、ドゥイリンの航法術は一流である。
潜水艇が浮上すると、山岳猟兵たちは次々に船橋の梯子をのぼって外に出て、潜水艇の狭い甲板に降りた。兵たちはシャツ一枚のままで、銃も軍服も、防水の油布袋に入れている。唯一、軍服を着こんだままで航海に耐えたリンデル大佐とバランダル曹長も、ボタンを外し始める。
陸地の方を向きながら、ドゥイリンは、
「浜までは四キロほどです」
と教えた。敵に発見されるのを恐れ、紅眼の魔術は既に止めているから、陸を見るそぶりは形だけだ。リンデルへの礼節に過ぎない。
「ありがとう、少佐」リンデルは小声で応じた。「何もかも貴官のおかげだ。おかげで辿り着けた」
「ええ。敵軍、数十万のただ中へ、ね」
ドゥイリンは、リンデルたちの覚悟に水を差すような言いぶりをした。
「必ず迎えに来ますよ」
「期待している。だが、無理はしないでくれ。ここに連れてきてくれただけでも奇跡だ」
「忘れないでください。皆さんは貴重な漕ぎ手なんですからな。こき使って差し上げますから、戻ってきてもらいますよ」
「心得た。戻り得る限りは」
夜の潮風が酷く目に染みて、痛みを覚えるほどである。自分は泣いているのではないと言い聞かせつつ、ドゥイリンは最後の言葉を告げた。
「幸運を祈ります。大佐」
「ありがとう。貴官も」
やがて山岳猟兵たちは、次々に海中に降り、二列の縦隊を形成した。装具類を入れた袋を浮きのようにして泳ぎ、みるみる遠ざかって行った。その素早さは、そこらの水兵ではまるで及ばぬくらいであった。昼も夜もない航海を二日も続けた後とは思えない。
(まったく、妙な客もあったものだ)
と、ドゥイリンは呆れるような気分で見送り、間もなく艇を変針させた。潜水艇は帰投の経路につき、まもなく潜航した。ネヴラス港はオルクセン海軍の巣のようになっているからである。
◇
「艇長、あの連中なら、本当にやるかもしれませんな」
ドゥイリンと共にクランクを回しつつ、副長がそう聞いた。帰りは手が足りない分、士官たる彼女ら二名も漕手に加わっているのだ。
「ああ、そうだな。あの大佐、今度もやりおおせるかもしれん。いや、今度こそか」
「と言いますと?」
「いや——」
ドゥイリンは言葉を濁した。しばし皆でクランクを回すうち、かすかな違和感を覚えた。
それはすぐに副長にも伝わった。
「どうされました」
「しっ――」とドゥイリンは言い、すぐに「両舷停止」と命じた。
潜水艇は、慣性に従ってしばし進んだが、まもなく海中で止まり、波に揺れるだけとなった。
副長が鋭く言った。
「艇長、前方から音がします。蒸気船です」
違和感の正体がそれであった。海中を伝い、航走音がしているのだ。
「潜望鏡を」
兵がすぐに準備をした。ドゥイリンは艇の中央に向かい、上から伸びている細い筒を覗き込んだ。両眼が赤く光る。鏡に反射した夜の海上を見るためだ。
しばし伺っていると、ドゥイリンは静かに言った。
「……敵艦視認」
夜の海を影が動き、近づいて来ている。軍艦の船型だ。この海で軍艦となれば、敵以外ではありえない。それも大きい。途方もなく。
「装甲艦だ。でかい……あれは」
雲が動き、月明かりが増した。その海面反射で、敵艦の形が浮かび上がる。
海軍軍人たるもの、敵艦の形は暗記している。遠くでも、その部分的特徴を見るだけで、艦名を言い当てることができる。まして、敵艦襲撃を夢見て猛訓練を重ねてきたドゥイリンが、見誤ることはあり得ない。その知識の教えるところ、答えは一つしかなかった。
「ラーテだ……オルクセン海軍の新しい旗艦だ」
エルフィンド海軍の主力艦だったリョースタ、スヴァルタに対抗するために建造されたものである。排水量は一万トンを超える巨艦だ。誤認はあり得ない。
艇内の全員が息を呑む音がした。
まだ潜望鏡を覗いたままのドゥイリンに、副長が言った。
「艇長」
明白な進言だった。
メルギラス型の本来の目的は、敵艦襲撃。それも大型艦艇を倒すことだ。そのために、ただの一発だけ、外装水雷を持っている。艦首から突き出したツノの先に。それを降ろすという予定だったが、ドゥイリンは肯んじ得なかった。リンデルもまた、それを後押ししてくれた。ゆえに必殺の水雷はいま、切っ先のように敵艦艇に向いている。
あの猟兵大佐との会話を思い出す。
(私は陸軍だから海軍さんの気持ちはよく分からないが、恐らくは、貴官らの誇りに関わることなのでしょう)
(敵を見れば必ず戦うのが海軍の精神です。特に我らの艦は、刺し違えても敵を倒す)
だが、いま、接敵すれば——と考え、黙ったままの艇長に向け、兵たちが小声で言った。口々に。
「やりましょう」
「みんなの仇を」
ドゥイリンの脳裏に、あの炎が蘇った。一夜の休暇と陸にあがって、成すすべもなく見守るしかなかった、あの海戦。身体をたいまつのように燃やしながら絶叫し、海に飛び込む兵たち。それすらできず、沈みゆく艦内に閉じ込められたまま、火と水の地獄で死んでいった仲間たち。その悲鳴。最期の叫び。
既に失われたといっていいエルフィンド海軍、その無念の全てがいま、兵たちの声を借りて、ドゥイリンに教えているようだった。あの夜に死ななかった意味を。
ドゥイリンは今、失われた主力艦の副長であって、かつまた、あの猟兵たちの命の綱でもあった。
その将たる赤毛の大佐の言葉が、彼女の背を最後に押した。
(外装水雷、そのままでいきましょう)
(ですが)
(いいのです。誇りを失うことは、全てを失うことだ)
「……両舷、全速」
「了解!」
恐るべき敵装甲艦の威容は、潜望鏡の視界の中で、ますます大きくなっている。
(次話「パルチザン・ネットワーク」へ続く)