ネニング会戦の焦点であるネヴラス市から、百キロあまりも南東。オルクセン軍に占領されて久しいアルトリア市の中央部に、「小鹿亭」というレストランがある。
オルクセン陸軍野戦憲兵隊に属するオーク、エミール・グラウ中佐は、そこで小さな勝利を挙げていた。面会した知己、彼にとっては一種の仕事仲間というべき白エルフ、リューディエル・モリウェン警部を、捕縛せずに済んだという。
白エルフには珍しく黒髪のモリウェン警部、その美貌に暗い影が落ちている。占領軍の野戦憲兵と協力関係を築き、占領前と変わらぬ治安を保ってきた敏腕警官は、失意のどん底にあった。
彼女の鳶色の瞳は、机の上に置かれたリストへ釘付けになっている。そこにはアルトカレ平原にあるいくつかの村と、その村長たちの名前が載っている。
オークの野戦憲兵将校は、その意味を告げた。
「ゲリラは―――カランウェン支隊は、もう終わりだよ。長くは持たない。協力している村のリストがこれだ」
モリウェン警部は視線をあげた。何度も酒食をともにしてきたオーク、グラウ中佐の口から覗く牙が、これほど恐ろしいと思ったことはなかった。その大きな口が動き、モリウェン警部の裏の顔を暴き出した。
「君、マルリアン大将の作り上げた地下抵抗組織に参加しているだろう? そのお仲間たちの経路を使って、知らせて貰えると助かる——これ以上、ゲリラへの協力を続ければ、村そのものが無くなってしまうと。おっと」
オークの太い指が、リストの最も上にある村の名を指さした。
「この村には不要だよ。伝えようにも、もう存在しないからね」
「……」
モリウェンは顔色を無くし、唇まで青ざめた。彼女が構築した連絡網、そのために起こった壮絶な悲劇を想像したのだ。
しばしの沈黙を破ったオークの声には、哀れみが込められていた。
「もう、君たちは戦後を見るべきだよ。納得はできないだろうし、同情もするが」
グラウ中佐は、足元に置いていた革鞄から、もう一通の書類挟みを取り出した。
「これは、君のことを書いた報告書だ。写しはまだない」
「……」
「私としては、職務のやりやすい相手を失うのは避けたいところだ。こいつは今日の料理の御礼に進呈しよう。そこの暖炉で、燃やしてしまうといい」
「……」
モリウェン警部はがっくりと肩を落とし、グラウが差し出した書類を受け取った。
「……戦後ね。確かに、私の戦争は終わったみたいね」
グラウ中佐は頷き、ワインで口を湿らせた。彼と彼女の関係は、虚実を織り交ぜた仕事上のつきあいであったが、それでも友情は自然と生じるものである。彼女との良好な関係はこれで終わってしまうとしても、異種族の友人が命永らえたことを、グラウ中佐は心の深い部分で喜んだ。
だが、彼にはまだ仕事が残っている。
「それで、だ。もう一つ聞きたい。君の組織は、卸売商にもつながっているね。最近、エルフィンド軍の倉庫から、古い銃弾だの、火薬だのが、いくらか廃棄扱いで消えた。その行方を知っているんじゃないか?」
モリウェンは声の震えを抑えながら答えた。
「カランウェン支隊に……」
「モリウェン、私は君を守りたいのだ」
「……」
「なるほど、ゲリラには補給が必要だろう。だが、それならアルトカレ平原の方に流れるはずだ。そちらの検問では、我々が目を付けた貨車は見つかってない。君たちは、どこか別の場所へ送ったのだ。武器だけではない」
グラウ中佐の顔に僅かな焦慮が覗いた。
「……数日前、ある白エルフがファルマリア港で逮捕された。沖仲仕だ。オークだけでは手が足りないので、白エルフも雇い始めた矢先のことだ。オルクセン本国から運ばれてきた補給品を、いくらかちょろまかしたかどでね。だが小銭稼ぎにしては、妙なものを盗った。その木箱が君たちの流通網に乗ったことが分かっている」
オークは身を乗り出した。
「銃でも、弾でもない。だが使いようによっては、はるかに恐ろしい。いったい、あんなものを何に使う気だ。あれを何処へ送った?」
モリウェンの心中で、さまざまなものが天秤の左右に載った。自分や仲間の命、戦後の生活といった、具体性を帯び始めたものたちの重みに比べれば、国家の運命、種族の矜持といったものは、ずいぶん軽くなってしまったと分かった。
「……行き先までは知らないわ」
「では、知っていることは?」
「送り先の符牒だけ……網元。それから海鷲、と」
◇
エルフィンド王国秘密警察長官ブレンウェルの姿は、相も変わらず、王国首都ティリアンの執務室にあった。
首相以下、主だった政府高官は女王の親征に同行して、首都を離れている。ブレンウェルの制度上の上司である内務大臣も例外ではない。
当然に同行を求められたブレンウェルは「外患危急の折、内憂を予防し、王都の安寧に万全を期さんがため」と称し、言下に拒否した。彼女に断られれば、無理強いはできぬというのが、秘密警察創設以来の長官と、十数年で交代する内務大臣の力関係であった。
内閣の全大臣が各省の主だった高級官僚をともなって首都を去った結果、残った官吏の中で、ブレンウェルは席次の頂点にある。かくて彼女は、政府中枢なき王都における事実上の統治者として振舞っている。
「鳥なき里の蝙蝠——」
と、揶揄する声は無論ある。だが、それを大声で口にするほど思慮に欠ける者はいない。そのような者は、これ以前の数十年のうちに、生まれの白銀樹への帰還を余儀なくされていたからである。
ブレンウェルは毎朝、夜が明ける前に内務省へ出勤する。夜のうちに執務室の机に用意させているクロワッサンとチーズ、冷めたコーヒーの朝食をただひとりで喫すると、同じく前夜のうちに提出された報告書類に目を通す。
長官が朝の習慣を終えた頃を見計らい、扉を叩く白い手がある。
「入れ」
執務室に姿を見せたのは、秘密警察次官リュシアナ・ダルヴェイスである。白エルフらしい金髪を短く切り揃え、縁の薄い眼鏡をかけている。流れるような動作で扉をしめ、長官に向き直ると、ダルヴェイス次官は端的に報告した。
「報告いたします。『海鷲』が『網元』と接触しました」
その二つの符牒を二つながら知る者は、秘密警察においてもごく少数しかいない。
「いつの話だ」
「本日の午前三時頃です」
執務室内の時計は七時過ぎを示している。敵の占領下にあり、いまや敵軍の一大拠点といっていいネヴラス市からの報告としては、異常なほどの速度であった。もしもオルクセン軍の情報部門が知れば愕然としたであろう。
「『海鷲』に荷物は届いたか」
「全て届きました」
「ふむ——よろしい」
ブレンウェルは頷いた。その動作が、長官の満足を示すものだと、ダルヴェイス次官は知っている。
「ですが、問題も発生しております」
「というと?」
「荷物を手配した網の一部が破られました。『小鹿』です」
「……マルリアンの手のものか。所詮は素人仕事だ」
「荷物の中身が知られたかは定かではありませんが、流通経路を辿られる恐れがあります」
深刻な報告を受けたブレンウェルは、ふっと表情を和らげた。
「懸念は無用だよ、リューシ」
長官が愛称で呼ぶ唯一の人物である次官は、細い眉尻をわずかに上げた。
「かなりの危険を冒しています。諜報網が芋づる式に摘発されかねません。最悪の場合、『白薔薇』まで到達される恐れが」
ブレンウェルは常になく穏やかな口調で言った。
「いいではないか。露見したとしても、もはや間に合わん。海鷲は、今日にも白薔薇と接触するだろう。事は一両日中に終わるはずだ」
そう言うと、ブレンウェルは小さな採光窓から覗く青い空に視線をやった。その彼方で、彼女が立案した暗殺計画は最終局面を迎えつつあるのだ。
「長官、海鷲は……どうやって実行する気なのですか」
「知らん」
ブレンウェルはあっけらかんと言った。
「私の計画は部隊と物資をネヴラスに送り込むところまでだ。そこからは海鷲に。あの女に任せている。あとは祈るしかあるまい」
祈る——とは、この長官から滅多に出ることのない語彙である。次官は動揺を隠そうと、常にないことを言った。
「聖星と白銀樹の御加護を?」
「ああ、原因は何でもいいが、あらゆる偶然が味方するようにな。海鷲に」
長官が、あの赤毛の死刑囚のことをなぜこうも買っているのかと、リュシアナ・ダルヴェイスは不思議に思った。だが、ともかくも、祈るしかないのは間違いがない事実だった。
緻密にして無謀な暗殺計画は立案者の手を離れ、数百キロ彼方にいる実行者へ委ねられた。
◇
ネヴラス市には、オルクセン軍による警戒態勢が敷かれている。
その主力はオルクセン軍野戦憲兵隊である。占領地の治安対策のために設けられている部隊で、武技よりも交渉や行政の能力に長けた能吏型の将兵が多い。
といっても、オークやコボルトの憲兵が直接に白エルフを取り締まることは、ほぼない。ネヴラス市にもともと存在した白エルフの治安・行政機構を掌握し、間接的に治安維持にあたって、市民から直接に恨みを買うのを避けるためだ。
ネニング会戦が始まったこの時期には、警備強化のため、さすがにオークやコボルトの憲兵が自ら検問や巡察を行っているが、それはネヴラス駅を中心とする市中心部に限られた。圧倒的に優勢な戦況からいって、戦線がネヴラス市にまで迫るとは、誰も思っていないのだ。
中心部から離れた下町を盛んに巡察している警官は、やはりネヴラス市警の白エルフたちである。となれば、同胞にして顔見知りの白エルフ市民の行動を制限するにも限度というものがあった。
さすがに日頃ほどの軒数はないが、下町の市場には露店が並んでいる。その多くはお茶だの、ガレットだのを売っている。市内から三十キロあまり遠方で戦闘が始まっているからといって、飲まず食わずではいられない。露店の主な客は、昼食、夕食を買い食いで済ませるのが常の、肉体労働者たちである。汗と土で汚れたシャツをまとい、紙煙草を横咥えした白エルフたちが、あちこちの出店を物色している。
その中に紛れ、ひさしの長い鳥打帽と薄手のコートをまとった長身の白エルフが、やや猫背気味に歩いている。適当な露店で獣肉の串焼きを買い、片手に持つが、口に運ぶことはない。何軒も店を巡り、やがて目当てを見つけた。
物憂げな見た目の白エルフがひとりで開けている露店だ。路上の敷布に、櫛だの、巻煙草だの、チリ紙だの、安価な日常の品を並べている。ただ、どこで摘んできたのか、珍しくもない野花を束にして売っているのが珍しい。
長身のエルフは小物売りに尋ねた。
「花を探しているんです」
小物売りは億劫そうに答えた。
「きょうび、珍しいね。何のために?」
「亡き者の弔いに」
「この花では駄目?」
「こんな野花では駄目だ」
「どんな花がお好み?」
「『白い薔薇』を探してる」
小物売りは目を細めた。
「……あるよ。店まで来てくれればね」
客が頷くと、物売りは品物を片付け始めた。
(次話「防備態勢」へ続く)