——ばかにしている。
と、夜の街路をふらつくように歩くヴィルヘルム・オストナー少佐は、思っている。そう思わざるをえない。
若いオークの牡である。生まれは鳴かず飛ばずの田舎農家だった。しかも次子であったから継ぐ畑は持たなかったが、そのかわり、できのよい頭脳を持っていた少年は、学費のかからぬ士官学校に入った。この時代、我こそ優れりと自負しつつ、地歩とするべき背景を持たない青少年が進むべき道は、まず軍隊であった。
士官候補生オストナーは、そこで、自分が類まれな才覚だと思っていたのは、田舎紳士が大事にしている古道具に等しく、都会の店先では、誰も見向きせぬ凡質に過ぎないと知った。知力体力とも優等の者だけが入れる陸軍士官学校において、オストナーは実に平凡な存在だった。
が、それだけであれば、彼は己の限界を弁え、その上で努力向上しようというひたむきな精神を生かし得たかもしれない。
決定的であったのは、彼の同期、それも同じ組に、エーリッヒ・グレーベン候補生が存在したことである。
グレーベンは体力こそ平均よりやや上という程度で、社交性では下下の下の下という具合だったが、剃刀のように切れる頭脳をもっていた。教科書などは斜め読みしただけで本質を掴み、試験前に一読すればほぼ暗唱できるほどだった。一種の異常者だった。
試験前に眠い目をこすって猛勉強して、そこそこの成績を取るのがやっとのオストナーは、唖然とせざるをえなかった。
グレーベンは、机上の優等生であったにとどまらない。その明晰な頭脳は、また、闇夜を切り裂く雷光のような直感の閃きをも備えていた。野戦を模擬する演習で、指揮官役をさせれば無論のこと、参謀役をさせたとしても、たちまち実権を掌握して、常に勝った。
「グレーベンに役をやらせるな。教官の想定を超えてくるから、教育効果が削がれる」
と、教官たちが匙を投げたという噂が、候補生たちに聞こえてくるほどだった。
オストナーの不幸は、そのような天才と、いくらか似た境遇を持っていたことにある。
——おれと同じ、貧乏農家のせがれで。オークで。同期で。そのくせに。
努力で覆せぬ絶対的な差、生得の才能の違いをみせつけられたオストナーは、入学前の自信を失って、成績は徐々に振るわなくなった。性格まで萎縮して「俺は、所詮」と、何かにつけて思い込みたがるようになった。
それでも、士官学校を出て、いくらかの部隊勤務を経るうちに、オストナーは努力をやめなかった。ただ、彼が真面目に働くほど「杓子定規のオストナー」「不器用なやつ」という陰口が聞こえた。その理由がどうしても分からぬ辺りに彼の限界が存在したのだが、それに気づくことはできなかった。
最優等から二期だけ遅れて軍大学に入れたのは、やはりオストナーの頭脳に昏からぬところがあったためだ。
彼が参謀大尉として軍大学を出て、参謀本部に初出仕したとき、たまたま廊下でグレーベンと再会した。その時、エーリッヒ・グレーベンはすでに中佐の地位にあった。軍大学を主席で卒業したとしても、あり得ない出世だった。
グレーベンは、にやりと笑い、
「よう、お前も頑張れよ」
と、オストナーに言った。
オストナーは、追従の笑みをうかべて辞儀をした。そのような自分の従順さがたまらなく嫌だった。
グレーベンがシュヴェーリン上級大将の令嬢を娶り、ゼーベック参謀総長にまで目をかけられていると知ったのは、間も無くのことだった。
——ばかにしている。
そう確信した。この世が不公平なのは知っていた。だが、軍隊までそうだったとは。
この戦争が始まってからは、なおそう思わされている。
グレーベン少将は総軍司令部作戦部長。実質は全軍の頭脳として、この戦争を切り回しているといっていい。そして大勝を博している。
一方の彼、オストナーは未だ少佐の身で、第一軍司令部作戦課、その一課員として汗をかいている。第一軍司令部は、それ自体、総軍の下請けのような存在であったから、オストナーは同じ作戦畑の参謀として、しばしば総軍司令部の作戦部に赴き、指導や了解を得ねばならない。グレーベンのサインをもらうために、あれこれの資料を用意し、順番を待ち、弁を尽くした。
そんな時、グレーベンはたいてい葉巻を咥えて、オストナーの書類を斜め読みしては、その欠陥を矢のように突いてきた。オストナーが言葉を失ってたじろぐと、
「ふん、まあいい。大した問題じゃないさ」
といって、やっとサインをくれるのである。
——ネヴラスの警備計画もそうだ。俺をふりまわすために、あいつは。
ぶつぶつと呟きながら、オストナーは裏路地を歩き、妾宅の木戸を押した。外から二階に直通する階段をあがって、合鍵を使う。
「おい」
そう戸内に呼びかけると、彼がゾフィと呼ぶ白エルフの戸惑った声がした。
「あなたなの?」
ああ、そうだ。他に誰がいるってんだ。
突然の来訪に戸惑い、服だの化粧だのと口走る女ゾフィを抱きすくめ、唇を吸ってやる。女は安堵したような顔で、自ら彼の袖を引き、まっすぐに寝室へと誘った。
なんだ、やっぱり。俺が来て嬉しいんだと、待ち遠しくてたまらなかったということだ。
たちまち悦に入り、女ともつれるようにして寝室に入る。どれほど金をやっても殺風景なままの妾宅で、唯一、調度に気を使っている部屋だ。
ふたり寝のための大きな寝台は天蓋つきで、レースの刺繍を施したカーテンで四周を囲うようになっている。まるで旧貴族か高位高官の寝台だ。
絨毯は厚手の年代物。品の良い飾り机に、エルフ用の小椅子。
それら全てに陰影を与える油灯は、石油やガスではなく、蒸留松根油を使ったものだ。オルクセンでは滅多に見ない旧式だが、エルフィンドでは現役である。そのやや古式な外観や特有の臭気が、かえって昔からの大尽の家を思わせて、オストナーの幻想を満足させてくれるのだった。
寝台に女を横たえ、さあ早速と彼が思ったところで、女は言った。
「心配したよ。戦いが始まるっていうじゃないか」
その言葉はオストナーの耳に、半ばほどしか入らない。オークの太い指は女の部屋着を這い、早速ボタンや結び紐を外そうとしている。
「なに、心配することはねえ」
「でも、怖いじゃないか。あんたの身に何かあっちゃ。もうごめんだよ。アルトリアみたいなことは」
オルクセン軍の砲兵が大威力を発揮した攻囲戦で、家と氏族の仲間を失い、職と家を求めて流民になったのがゾフィだと、オストナーは知っている。
女は心細いのだ。なにせ頼る者といえば、街頭に立って暮らしていた女を庇護し、家と給金を与えて、世話してやった俺だけだもの。すっかり惚れて当然だ。だから俺のことが誰より大事で、その身に危険が及ぶかもとなれば、身も世もなく心配なのだ。
「心配ないさ。敵はこんなとこまでは来られない」
「そうよね、この街の警備は、あたしのヴィリーがしっかり考えてくれてるんだものね」
それがヴィルヘルム・オストナーの、そして彼の女の自慢だった。寝物語に何度も語り教えたものだ。彼のやっている仕事がいかに大変で、重要なものかと。
だが、そうは思わない奴もいる。
「……ああ」
「どうしたの」
「ふん、何でもない」
「教えてよ。ヴィリーの計画が、しっかり守ってくれるんでしょう。あたしのことも、駅舎にいる王様も」
胸元をはだけた白エルフは、尖耳をピンと立てて、オークの胸元に頬を擦り寄せてきた。
「おお、そうよ。そうだったさ。野戦憲兵だけじゃ心許ないと思って、一個連隊をあてて、がっちり固めるとこだったのに」
「だったのに?」
「……分からず屋の、俺らを馬鹿にするのが生き甲斐みたいな若造がな、ぜんぶ取り上げやがった。ふん、残らず前線に回すんだとよ」
ゾフィは顔色を変え、あからさまに怯えをみせた。オストナーの大きな胸板に、両手で縋り付いてくる。
「それじゃ、いま街中にいる兵隊は」
「朝までにはぐっと減るな。せいぜい、大通りの検問だけで。俺が仕切ってれば、路地もぜんぶ封鎖するところだが。阿呆の将軍には、そんな細かいことは思いもつかないだろうぜ。王様の周りに闇エルフの妾どもを置いておきゃ、それで十分と思ってやがる」
ゾフィはごくりと唾を飲んだ。わなわなと震え出している。
オストナーは女の金髪を優しく撫でた。
「なに、大丈夫さ。怖がらなくたっていい。さっきも言ったろう。敵は、こんなとこまで来られやしない。お前が戦に巻き込まれることはないさ。オルクセン軍は強いんだ」
しばらく頭を撫で続けていると、ゾフィはやっと口を開いた。
「ヴィリー、あたしのヴィリー。いつでも、あたしを安心させてくれるのね」
オストナーはにやりと笑った。二本の牙が大きく顔を出した。
「当たり前だ。なあ、ゾフィ。実は、いま起こってる戦いで、この戦争はあらかた決着するはずなんだ。終わりが近いってことさ。つまり……」
オストナーは上体を起こした。
「前に言ったこと、考えてくれたか」
ゾフィは答えない。が、オストナーに倣って身体を起こした。
女の顔に決意の色を認めて、オストナーの胸は高鳴った。
「ああ、お前を連れて行く。一緒になろう。この戦争が終わったら」
「……いいわ」
ゾフィは小さく頷いた。
オストナーは歓喜を爆発させた。
「おお、おお。ほんとか。ゾフィ、決めてくれたか」
「ええ。決めたわ。ううん、きっと、ずっと前から決めていたの。他に道はないって」
「は、はは。安心しろよ。オルクセンで、今よりずっといい暮らしをさせてやる。なあ、色々に苦労しただろうが、そう考えりゃ、戦争も悪い事ばかりじゃなかっただろう」
白エルフの右手が枕の下に伸びたかと思うと、取り出したナイフを彼の胸に突き刺した。
(後編へ続く)