——ばかにしている。
と、ソフィア・ロザリエンは思っている。夜毎のことである。
三百歳をいくらか越えたあたりの白エルフにとって、彼女を囲ったオークは、幼稚な若者にしか見えない。それが、いかにも頼もしい牡、得難い伴侶を気取っているのだ。結婚の風習をもたない白エルフの価値観からすると滑稽にしか見えない。
それでもソフィアは、愚かなオークにあわせてやる。異種族の牡に飼われた情婦として、牡の来訪を待ち焦がれ、彼がいなければ暮らしていくこともできない女であるかのように演じた。エルフと添うようにできているはずもないオークの身体によってほしいままにされても、喜びだけを感じているかのように振舞った。
生きるためである。
ソフィアの生まれの母樹はアルトリア市にあった。その市街地にオルクセン軍の砲撃が降り注いだ。砲撃初日で氏族の姉妹たちが飛び散った肉片と化し、その魂が帰るべき母なる白銀樹も、砲撃二日目の夜に失われた。闇の中で松明のように炎上する母樹を目にし、それまで生き残っていた姉妹が次々に失輝死して、ソフィアは天涯孤独の身となった。
白エルフの信仰によれば、生まれの樹を失えば、死後の魂は天界へ戻って安らうこともできず、したがって再びこの世に生まれ変わることもできず、濁世の闇の中で苦しみさまよい続けることになる。
母と姉妹を一度に失い、自身も失輝死寸前までいったソフィアが自ら死を選ばなかったのは、生を望んだからというよりも、死への恐れを遠ざけたい一念によるものだった。
辛うじて起き上がれるようになった時、アルトリア市は守将マルリアンともども、オルクセン軍に降伏していた。
オークたちから配給される食事で露命を繋いだソフィアは、焼け焦げた母樹を日々目にすることに耐えられず、故郷を離れた。現実問題として、氏族の寄る辺を失った彼女には職がなく、より大きな町へ移動するのは理に適ってはいた。辿り着いた先が、物流の結節地たるネヴラス市であった。
問題は、そのようにして流民となった白エルフが、彼女の他にも大勢いたということだ。
元来は姉妹とともに小売業を営んでいたソフィアは、別の街で商売を再開しようとしたが、仲間もおらず、人脈もなく、競争相手だけは多いとあって、なかなかうまくは運ばなかった。色々な日雇い仕事に手を出したが、頑健な方ではない彼女に向いた仕事はあまりなかった。
ソフィアが街頭に立つようになったのは、ありきたりな展開だった。女性しかいないエルフ社会でも春をひさぐ商売はあったが、以前には金持ちの数奇者だけが顧客であったから、それに従事する者の数もごく限られており、類まれな美貌と技芸の持ち主だけだった。だがオルクセン軍があらゆる街に駐屯するようになった結果、身一つで始められる生業はたちまち一般化したのだった。
自傷にも似た思い切りと、聞きかじりの知識だけで始めた商売は、ソフィアに食と宿を与えてくれた。寝台でも白エルフを征服したいオークやコボルト、ドワーフの兵はいくらでもいたから、客には困らなかったのだ。だが、
——ばかにしている。
と、思えてならなかった。屋外で牛馬のように一日中働くよりも、兵士を相手に一夜を売る方が金になった。他の商売で金を稼げば誇らしい気持ちになるものだが、この生業では金を貰うほど心の一部が削ぎ取られるように感じられてならなかった。
向いていなかったということなのだろう。
そんな日々のうちに、低地オルク語で呼びやすいように、ゾフィと名乗るようになった。あるいは、自身の何事かを守ろうとしたのかもしれない。
そんな時、彼女に惚れた客のオークがいた。将校で、金払いがよく、彼女を独占したがった。ソフィアは媚態の限りを尽くし、店一軒と毎週の給金と引き換えに囲われ者になった。
ようやく本来の生業を再開できたソフィアは、その開業資金の出所でもあるヴィルヘルム・オストナーという情夫の機嫌を損ねぬよう、牡が寝物語にする自慢やら愚痴やらを、さも興味ありげに聞いた。適切に相槌をうてるよう、話の内容を記憶した。
占領軍を相手にさまざまな物やら酒やらを扱っている白エルフの卸売商から接触を受けたのは、そのような頃だった。相手の符牒名は『網元』といった。
復讐の機会を得たソフィアは、初めて自分の境遇に意味を見いだした。自分だけが、なぜ死ななかったのか。姉妹の後を追わなかったのか、その理由を知った。
小物売りの立場を活かし、露天商や振り売りに小銭と品物とを遣り、私的な諜報網を組織することさえした。一方で、ますます熱心に情夫に尽くすようになった。甲斐甲斐しく世話をし、熱心に話を聞いては共感と同情と激励とを惜しまなかった。寝床では工夫を尽くして高め合い、真実愛しているかのように振舞った。
そして——最後になるであろう夜、燃える松根油と牡オークの体臭の中で、彼女の中のゾフィは、最後の役割を果たした。聞きだすべき警備態勢は既に聞き出した。隣室に待機している二名の暗殺者は、きっとやり遂げることだろう。後は牡に事を終えさせ、急いで寝かせねばならない。
「ヴィリー、あたしのヴィリー。いつでも、あたしを安心させてくれるのね」
オークはにやりと笑った。大きく顔を出した二本の牙は、抗い得ぬ暴力の形だった。彼女が屈服し、受け入れることに慣れた、エルフには到底かなわぬオークの強さ。そのような営みは今夜で最後になるはずである。そう思うと、体毛のないオークの胸から白エルフの手に伝わる心音が、いつもより大きなものに思えた。
オークは言った。
「当たり前だ。なあ、ゾフィ。実は、いま起こってる戦いで、この戦争はあらかた決着するはずなんだ。終わりが近いってことさ。つまり……」
情夫は上体を起こした。彼女も合わせねばならない。
「前に言ったこと、考えてくれたか」
ゾフィは答えない。当然である。ゾフィには、戦争の後というものはない。戦争さえ終われば、オークどもはエルフの国から去る。ゾフィなる仮初の女は消える。生きるためにした全ての記憶を封印したソフィアが、価値ある存在が誰もいなくなった国で、ただひとりで生きていく。そうすると決めている。他にしようがないからだ。
オークは牙まで輝くような希望の表情で言った。
「ああ、お前を連れて行く。一緒になろう。この戦争が終わったら」
このオークは、ゾフィを手放すつもりがないのだ。忘れてはならないと言っている。彼女がどれだけ愚かで、恥知らずで、嘘つきで、汚い存在であるか、忘れることは許さないと言っている。
「……いいわ」
ソフィアは小さく頷いた。
「おお、おお。ほんとか。ゾフィ、決めてくれたか」
彼女を見つめる大きな瞳。そこには純粋な好意と喜びだけがある。
「ええ。決めたわ」
白エルフの中に、湧き上がるものが二つあった。一つは温かく、一つは冷たかった。
ゾフィは、困難は多くとも幸福なはずの、結婚という未知の可能性に手を伸ばそうとした。燃え尽きた母樹も、その前に倒れ伏した妹たちや、泣きながら集めた姉たちの肉片を捨てて、良いところへ消え去ろうとした。
ソフィアは、エルフィンドという国と、白エルフという種族と、そして彼女自身が、履き潰した靴のように捨てられて、過去という名の塵箱の闇の中に投げ込まれつつあるのだと自覚した。
どちらを取るのか選べと、オークはそう言っているのだ。白エルフは迷わない。
「ううん、きっと、ずっと前から決めていたの。他に道はないって」
いまだ天界に帰ることなく苦しみ彷徨っている姉妹の魂が、ただひとり生き残ったソフィアを見ているに違いない。
「は、はは。安心しろよ。オルクセンで、今よりずっといい暮らしをさせてやる」
神に選ばれた種族の誇りを捨て、野蛮なオークに身体を売り、それでも死なずに生きてきたのは、母樹と姉妹の復讐を果たすため。自分だけが幸せに生きるためではない。そうであってはならない。
「なあ、色々に苦労しただろうが、そう考えりゃ———」
呼吸を整えつつあるソフィアに、オークは言った。
「戦争も悪い事ばかりじゃなかっただろう」
白エルフの右手が枕の下に伸びたかと思うと、取り出したナイフをオークの胸に突き刺した。
(後編に続く)