アリウス迷宮探索帰宅部 作:どうか許してください
キヴォトス、という外界より隔絶された都市がある。
無数の学園と、それによって統治される自治区で構成された極めて大きな都市だ。
学園を運営するのは未だ若い生徒達であり、大人達は企業に勤めて経済を回す。
主な住人である生徒はヘイローを持つ強靭な生命体で、大人達は武力では及ばずとも狡知と交渉で立ち回る機械人や獣人。
いくら独自の発展を遂げたキヴォトスとはいえ、人間社会という観点では……極めて不自然、と言わざるをえない文明社会。
まずその銃器の流通量は一体何事か。
そういう、キヴォトスの外から見れば極めて異質な形態の都市。
その異質な部分による歪みがゆえか──もしかしたら逆に、歪みのせいで異質な形態になったのかもしれないが──この土地では至る所に脅威が眠っている。
砂漠の大蛇、廃墟を彷徨う戦車、名もなき神々の王女、黄昏、神々の星座。
これは、それらの脅威に晒されながらも紡ぎ出す、あまねく希望の物語。
生徒たちを導く先生を主役に据えた、どこまでも青く澄んだ世界の、輝く軌跡。
──では、なく。
昔。ずっと昔。
同じ神の教えを信じながらも、解釈の違いがゆえに追放された者達がいて。
多くを憎み、諦念に呑まれ、それでも生を繋いでしまった者達がいて。
これは、そんな彼女達が行き着いた先に産まれた末の子供を主役に据えたもの。
ただ、みっともなく恐怖に震えながら、それでもと必死に足掻くだけの。
世界の片隅にあった、終わりゆく愛の物語。
■
猫が死んでいた。餓死のようだった。
少女はその骸を前にして、ただ、そうなったのだなぁと声を漏らした。
すべては虚しい。どのように生きたとしても、すべて空虚である。
そう、教えを受けていた。
だから、この猫も空虚に死んだのだと納得できる。
生は遠く、死は近しく。この世は薄氷のうえにかろうじて成り立つ脆い雪片。だからあらゆる命は無意味に産まれてくるし、そしてはじまりと同じように無意味に死んでいく。
それがこの世の真実だ。
……そう教えられたから、きっとそうなのだと、少女はぼんやり思っていた。
「おまえは、寒かったの?そっちは、さみしいのかな」
未だ未発達の情緒ゆえ、かもしれない。
理解は曖昧で、幼い。
だから、そっと猫の頭を撫でた。ふさふさとしていて、でもちくちくと手のひらを拒絶する。
「おまえはきっと、臆病だったんだろうね。だからこんなに荒れた毛をしているし、いっつも走り回ってたせいで手足もボロボロだ。骨も、ちょっと歪んでる」
でも、抱き上げた。服が汚れることも気にせずに、こんな路地裏よりもマシなところに埋めてやろうと。
「……頑張ったんだね。そうしても、満たされることなんてないのに」
ばかだなぁ、と溢して。そのくせ羨むような目線を胸元におろして、のそのそと歩き出す。
少女自身もボロボロな有様で、明日には猫と同じように路地裏で冷たくなっているかもしれない。
その未来予想が生々しいものであると知りながら、暗がりに背を向けた。
「次がないといいね。この世界はこんなにも虚しいんだから」
声は柔らかく、日差しのように降り注ぐ。
傘があってもするりと回り込んでくるような、不定形の優しさだった。
「……ゆっくりお休み、ボロボロなおまえ」
そうして去っていく少女を、幼き日の彼女は見送った。
声はかけなかった。かけられなかった。
もちろん、追いかけることも、手を伸ばすこともしなかった。
自分の行いを悪いことだとは、思わない。
だって、誰も彼も今日を生きるのに精一杯だ。許容範囲外だ。いっぱいいっぱいだ。
……でも、幾日かあと。
路地裏で冷たくなっていた彼女を見た時は、腹の奥底に重たいものが溜まってしまった。
苦々しくて、消化できなくて。
膝をつき、震える喉を抑えて、偽りの空を仰ぐ。
ただ、どうしてか、無性に叫びたくなった。
■
──なんて、いつかの夢を見た。
追憶、追想。過去の残影。
少女が少女になる前の、ほんの幼児だったころだ。
銃は持てず、一人で立てず、だから一歩外に出ればたちまち命を落としてしまうような。
地底──アリウスの外では非常に珍しい人死は、ここではさして珍しいことではない。むしろ日常茶飯事といってもいい。
だけど、あの日は違った。
何かを叫んだ、気がする。喉が張り裂けんばかりに、産まれてはじめて出すような大声で。
わあわあと、瓦礫と土に吸い込まれるだけの何かを吐いたのだと、少女は思った。
それは何だったのだろう。なんで、外に出たのだろう。考える。けど、思い出せない。
では思い出すほどの価値もないものだったのだろうか?
……分からない。少女には、それを理解するための残滓すら残っていなかった。
でも、あぁ。
なんだか、心にぽっかりと穴があいたような気持ちになってしまって。
どうにも。
「……ぁ」
なんて、そう。
ずきずきと痛む頭を抑えながら、呻きを漏らす。
痛くて痛くて今にも割れてしまいそうだった。額を裂いて花が咲いてしまうのではないかと思ってしまうぐらいに痛かった。
どうせ咲くならひまわりがいいな、なんて、益体もない思考が滲み出る。
「まっ、くら?」
暗い。そして冷たい。
石畳を手のひらで押し返して、その感触に眉をひそめる。
ざらざら。かちかち。冷たい石。ただの石。アリウスらしい、ぬくもりのなさ。
まるで意思のようだ、と思った。
続けて、しょうもないな、と呆れる。
くだらない。こんなことを幼馴染達が聞けば一体なんて言うだろうか。
黒い長髪の少女は、きっと不器用に微笑みながら頭を撫でてくれるだろう。
短髪の彼女は、たぶん呆れ返って額を小突いてくる。
緑髪のあの子は、締まりの無い愛想笑いを浮かべる程度か。
そして、彼女の姉は。きっと、優しく笑ってくれる。
「……じゃあ、ぼくはまだ大丈夫か」
息を込める。立ち上がった。
ぱらぱらと髪の毛から塵が落ちる。よほど勢いよく倒れ込んだのか、髪の毛のみならず身体中に付着しているようだった。
元からぼろぼろの一張羅がさらに汚れてしまった。なんてアンラッキー。
軽くはたいて塵をおとし、顔を上げる。寸前まで考えていた感傷ごと。
そして周囲を見渡して──見渡そうとして、思ったことはひとつ。
「……どこだよ、ここ。何も見えない……」
四方は暗闇。天井はある。窓はなし。月明かりすらない。
ただし、空気の流れはあるから、完全な密閉空間というワケではない。
当然、口にした言葉の通り見覚えなどない。
……どころか、どうやってここに来たのかすら分からない。
現在地は、完全に不明。
最初の一秒で把握できたのは、それだけ。
「……でも、まだ生きてる以上、ここに敵はいない……ってことだね。そもそも目を覚ませた時点で当然だけど」
危険な場所であれば、こうして立ち上がることすら不可能。
よくて両手両足の拘束。普通なら四肢を全折。そこそこ悪ければそもそも目覚めない。
最悪なら、傍らで火にかけられた鍋がことこと泡を吹いているのを眺める亡霊になるぐらいか。
懐をまさぐる。
こつりと、硬い感触が返ってきた。
少女──秤はそれを強く握りしめて、衣擦れの音とともに出す。
たとえ幼い身であろうとも戦う力を授けてくれる、数少ないよすが。形を伴った救い。銃。
未だ幼い秤でも持てるサイズの
折り畳んでいたストック部分を展開しつつ、周囲に意識を向ける。
「…………」
マガジンを装填。セーフティを解除。
サブマシンガンの連射力を受け止められるよう姿勢を保持し、一呼吸。
それで、秤は己の意識を意図して切り替えた。動く奴は全員ぶち抜いてやる、なんてアリウス精神を添えて。
一歩、足元の障害物がないことを確認しながら踏み出す。
衣擦れの音はない。よくよく訓練された足運びだった。
二歩、三歩。いつ敵対者が現れても対応できるように銃口の意識を保持する。
そこからさらに四歩五歩と足を進め、やがて壁際に到達する。
ヘイローの輝きのおかげで、すぐ目の前程度なら目視で確認できたのは、ある意味不幸中の幸いだった。
「……せめてライトぐらいは常備しておくべきだったか……いや、さすがに無理だね。ぼくらにもしもの備えをできるほどの余裕はない。そんなのがあったらさっさと缶詰なり弾薬なりに替えてるか」
普段の財布事情──いや、そもそもアリウスに貨幣経済自体存在しないから、倉庫事情とでもいうべきか。
ともかく常にカツカツの懐を思い、ため息を吐いた。
秤は、貨幣経済が栄えた世界を知らない。経済による恩恵がどんなものかも、知識としてすらあまり知らない。
けれども自分達が貧しい境遇で、明日の食にすら困る日常が生命として健全でないこと程度は理解している。
健全な世界を堪能したいな、とまでは思わないけれど、他の当たり前が何なのか知りたいとは望んでいた。
もし、どこもかしこもアリウス同様に飢えに満ちているようであれば、さすがにいつかの誰かが吐いた言葉の通り──すべては虚しいのだと、認めざるを得ないだろう。
二枚目、壁に到達する。
手触り、温度は変わらず。指先を曲げ、関節でこんこんと小突いても硬い音が跳ね返るばかり。とてもじゃないが、手にした愛銃では歯が立たないことは明らかだ。
三枚目、到達。
以下略。
「……右回りでいけばすぐだったな……」
のろのろ、そろそろと足を進める。
左手は壁、右手は銃。音に気を配ることも忘れず、空気の流れについていく。
暗闇を歩くのにも慣れてきたおかげで足取りは安定していた。
……そうした暗中模索の、最中。
壁に当てていた左手から新鮮な報告がとどいた。
薄っぺらい感触。ぱさり、と擦れる音。ばさっ、と空気を跳ね返す音。
「なに、これ。……紙?」
真っ暗闇なせいでよく見えなかった。
壁に貼り付けられているようだ。
秤はやはり手探りでおおまかな輪郭を把握し、指で引き剥がす。
両手で持てばちょうどいいぐらいの、まぁ普通の紙。
触れても崩れる気配はないし、表面はつるつるとしている。しゃぶりつくした骨のように滑らかだ。
そんな、アリウスの外では普通の紙。
秤が知る用途は焚き火の燃料か、伝言板として利用する程度のもの。
いやしかし、最近ではマダム呼ばれる大人が度々これをばら撒いて、学校とやらの希望入学者を集めてるらしい。ずいぶん贅沢な使い方だなぁと、緑髪のあの子とささやき合ったのは記憶に新しかった。
秤は、この時点でうっすらと嫌な予感がしていた。
暗所。未知の密室。単独行動。個人を押し込めるには広大な部屋。マダムしか使わない紙。
そして血統、アリウスで最も青い血を持つ自分。
ここまでピースが揃ってしまえばよくない想像も捗ってしまうというもの。
正直、泣きたくなっていた。
──まぁ、涙が多少でたところですぐ引っ込む羽目になる。
紙を広げ、頭を近づけ、視線で強引に表面をなめていく。
確かに、そこには文明があった。知恵があった。つまり、文字の連なりがあったのだ。文字とは本来、人と人を繋いで知識を蓄え、よりよい明日を迎える為の発明品である。
もっとも、その発明品は秤を救いなどしなかったのだが。アリウスにおいて、知恵にはその程度の価値しかなかった。
「……文字、教えてもらってて良かった」
ゆっくりと、一文字ずつ読み取る。
やけに整った形のそれは、秤の知りうる限りもっとも無機質で、熱のない赤色だった。秤はプリンターという機械の存在を知らなかったのだ。
「えっと……ぜん、ぜん……ぜんてい?……最初に踏まえる事実、だっけ……」
費やした時間、呼吸300回分。おっかなびっくり読み進めた結果、驚くべきことにすべての文字を理解できた。
もしこの場に秤の姉がいればパチパチと拍手をしてくれたに違いない。
まぁ、内容はまったく、これっぽっちもめでたくなかったのだが。
──前提。
ひとつ。
ここはアリウスの奥底。洞穴の中。『迷宮』の奥地である。
ふたつ。
『拠点』として与えた部屋のみが安全地帯である。
みっつ。
『秤アラタ』を除く五人は、みな
ルール。
ひとつ。
『拠点』から『迷宮』へ同時に立ち入ることができるのは、常に一人だけである。
ふたつ。
『迷宮』内に存在する物資は自由に扱ってよい。
みっつ。
『出口』を求めよ。
署名。
アリウス分校生徒会長、ベアトリーチェ。
「……なにさ、これ」
困惑した。
わけが分からなかった。文字を読めても、意図が見えない。
寸分の乱れもない筆跡に載せられた情報はあんまりにもばかげていて、たちの悪いイタズラとしか思えない。
もしこれがイタズラなのだとしたらとんでもない、筋金入りの愉快犯に違いない。
愉快、愉悦、娯楽。そんな余分を楽しめる誰かが、アリウスにそうそういるとは思えないのだけれど。
『迷宮』とは何か。
『拠点』が今立つここなのだとして、ここ
『出口』が求めよということは、そこに行けば帰れるのか。『迷宮』とやらを踏破できたら。
……なぜ?何が目的で?
秤──秤アラタは悩んだ。本当に、ただそれだけの話なのだろうか、と。
マダム、ベアトリーチェ。内戦を終わらせるもの。
秤アラタはその名を知っている。
突然、外より飛来した大人であり、アリウスを、アリウス分校として統治しようとしている女であると。
事実、争いは減った。以前よりは。
その目的が何なのかは、まだわからないけれど。
少なくとも、前よりはいくらかマシになりそうだと、幼馴染たちと会話した記憶がある。
そんな話に聞くベアトリーチェが秤アラタをここに閉じ込めた主犯であるのは明白だった。
生徒会長というからにはやる事が盛りだくさんだろうに、なぜこんな事をしたのか。
迷宮の踏破をどうやって利益に変えるというのか?
点と点はまったく繋がらず、秤は深く考え込んだまま──。
「……う、ぁ」
「!、誰!?」
──銃口を跳ね上げる。
唐突に響いた声のもとに。
「……あなたは、ぼくの敵?答えて、さもなくば撃つ」
返答は、返ってこず。
けれどそのかわりに、ぽつり、ぽつり。一つ、また一つと光が灯る。
明確になった相手の位置に、銃口の向きを調整する。
それは紛うことなきヘイローの光。秤アラタにとって、姉や幼馴染以外のヘイローは警戒対象だった。
少女の身体に流れる青い血を求める人間は、決して少なくないのだから。
敵だろうか。警戒する。
所持しているマガジンは2つ。装填済みの弾倉を合わせて3つ分。
相手の武装次第では心許ない、というか全く足りない。
引き金に掛けた指が、小さく震えた。
秤は、あまり戦闘が得手ではなかった。黒い長髪の彼女に勝てたことは一度もなかった。よーいどんの正面戦闘では緑髪のあの子とどっこいどっこい。あるいは普通に負ける。
最もマシな近距離戦で、スナイパーライフルを得手とする相手にそれなのだから、秤は己が弱者でしかないのだと自覚していた。
年の差、経験の差、環境の差、そんなの言い訳にはならない。弱いほうが、悪いのだ。
……だからせめて、相手が不審な動きをしたらすぐ撃ち抜けるように神経を尖らせて──。
「ぁ、ぁ、あ?」
「こ、こ……」
「だれ、だれ?あたし?」
「あんた……わたし、わたし?」
「ぜん、てい。ぜんてい。ぜ、ぜ……ぜん……」
──けれど、続けて重ねられた声達を受けて、数拍、呼吸が死んだ。
どの声も。人語にならないうめき声も、意味の崩れた言葉もどきの音も。
どれも、どれも、秤アラタのものと同じだったからだ。
前提。みっつ。
『秤アラタ』を除く五人は、みな複製体である。
なんて、意味のわからなかった文字列が急速に存在感を強める。
通路の角からひょっこりと顔を覗かせていただけのそれが、生々しい輪郭をあらわにしはじめたようで。
その感情をなんとか言い表そうにも、秤の語彙ではてんで足りない。
だから首筋に滲んだ冷たい汗が、もっとも答えに近いものに違いなかった。
「あなた達は、だれ?」
灯ったヘイロー、全部で五つ。秤アラタも合わせて合計六つ。
声は返らず、動きもなく。
仕方なしに恐る恐る歩み寄ってみれば……薄々察していた通りの顔が、か細い光源のもとに晒されていた。
己と瓜二つ、どころか瓜六つ。
まったくおんなじ顔の少女の五対の目が、ざらついた命の感触を伝えてきて。
あぁと。震えた吐息が、かぼそく漏れた。
「あなた……あな、ぁ、ぁ……?」
「……言葉、喋れないの?」
「言葉……喋れない……の?」
「……そう。分からないけど、分かった。分かったことにする……」
天を仰ぐ。
最悪な気分だった。アリウスのいつもの空、偽りの曇り空すら見えない。逃避できない。現実は、いつだって無慈悲に鎮座するもの。
乗り越えられず、迂回もできず、ただ俺を見ろと巨大な体を横たえる。
結論。
胡散臭い紙面は現実を語るだけだった。
イコール。
秤アラタは、得体のしれない『迷宮』とやらに閉じ込められてしまったのだ。
この、故も知れぬ少女達と共に。
■
「ぼくは秤、秤アラタ。あなた達は?」
「ぼくは……ぼく、おれ、おれ?」
「駄目か。……っていうか、おれって一人称は分かるんだ。知識だけはある……ってこと?」
「わたし、わたしは、わたし?」
「きみはわたしなんだね。個人差もある……うーん、複製って書かれてたけど完全にそのままって訳じゃないんだね」
「ウチはウチ!」
「あは、元気だね。……名前がないと、呼ぶ時に困るな。ちょっと考えないと」
呼吸を500回したあとのこと。
秤アラタはどうにか平時の精神を取り戻し、瓜六つの少女達に向き合っていた。
この状況に困惑はある。想定外の事態に陥ることは数あれど、ここまでの変化球はさすがに初めてのことだった。
緑髪の彼女──槌永ヒヨリがどこぞから食料をくすねてきたときよりも酷い。
こんがらがった玩具、知恵の輪を解こうと頭を悩ませた時よりも、さらに深く脳内リソースを奪われている。
けれど、だからといって思索を止めるわけにも行かず。
ひとたび足を止めてしまえばたちまち悪い方向に転がってしまうのだと、秤アラタは経験として理解していた。
「じゃ、おれって言ってる子はニイって呼ぶね。秤ニイ、はい決定」
「おぉ……おれ、おれ……ニイ?ニイ、ニイだ」
「わたしはサン、あたしはヨン、ウチはゴウ……そこのぼんやりしてる子はリクね」
「……サン?サン……ヨン、ゴウ……雑?」
「異論は受け付けないよ。名前がないほうが悪い」
「おぉ……」
しおしおに萎びた──ように見えるニイから目をそらし、あらためてあたりを見渡す。
暗闇に目が慣れたおかげで、さらに言えば唯一の出口から覗くか細い明かりが差し込むおかげで、うっすらと部屋の中身が見えてくる。
部屋に広さはそこそこあって、大股で十歩歩ける程度の直線距離がある。
物は、ほぼない。
壁際にさっき剥がしたばかりの紙面が落っこちていて、その近くにボロボロの小さな布らしきものがある程度。幸い、赤黒い染みはないようだし、饐えた匂いもなく、中身もない。十分だ。
ただ、弾薬はない。包帯もない。寒さをしのごうにもマトモな布はない。あのボロ布はぬくもりを与えてくれない。ゆえに前言撤回、不十分だ。
つまり、どう足掻いてもここに籠りきりというのは不可能。
姉や幼馴染達を待つというのも考えたが、紙面──ベアトリーチェの布告を踏まえれば、そう上手くはいかないだろうという予感があった。
だから、自力でこの状況を何とかする必要がある。
そう、秤アラタは嫌々ながらも、じっと呑み込んで理解したことにするしかないと分かっていた。
こういう時、思考を止めたものから死んでしまうとも。
──それはきっと、裏路地の彼女よりもなお惨めな死に様になる。
「……いや、あのひとを引き合いに出すのは違うでしょ」
「あ……あの、ひと?あのひと……?」
「ううん、気にしないで」
それに、一切打つ手がない訳でもない。
「ルール、そのに。『迷宮』内に存在する物資は自由に扱ってよい。……こう書くってことは、探せば何かしら見つかるってことでしょ」
「探せば、ある……ぶっし?なに?」
「そう、物資。水とか、食べ物とか、包帯とか……ヨンも少しずつ話せるようになってきたね?」
「話せる、話せる!」
「……赤ちゃんみたいなものかと思ってたけど、そうじゃない。覚えるのが早すぎる……違う、逆?思い出している……?ぼくの複製ってことは、知識も同じものを持ってるはず……いや、それだと最初話せなかったのが分からないな……」
「赤ちゃん?」
「あぁごめん、気にしないでいいよ」
「気にしない!」
「ふふ……ヨンは元気いっぱいだね」
しかし、と少し考え込む。ニイ以外はいまいち活力に欠けていた。
サンは明らかに気怠げで、ヨンは口だけ達者、かろうじて立っている程度。ゴウも口は元気だが、上体を起こすのが限界。リクに至っては寝っ転がったまま、時たま言葉を発するぐらい。
名前の数字をつけた順番は、元気そうに見える順番でもあった。あるいは、一見した生存力の順位でもあった。
「悪い子達じゃないみたいだし……できれば全員生き残って欲しい、けど。……さて、ぼく自身の面倒ですらかなり厳しいのにプラス五人か。…………マズイ、とすら言えない」
「マズイ……?味?食べ物……?」
「……おお、連想してる。えらいね、サンも早く元気になりそうだ」
「だるい」
「そっかぁ……サンは正直者でもあるんだね」
紫の頭を撫でて、ささくれだった心を慰める。
自分と同じ顔、同じ声。けれどその内面はまるで別物。
まるで姉に対する秤アラタのようで、ちょっとした同族意識もあった。
……が、だからといって深入りしすぎるのも良くないと、自分を戒める。
お互い、傷をつけるだけになる。あるいは、もうすでに。
だから心の中に超えてはならない一線を引いた。
それが、少女の生命線でもあった。
「……何にしても、いったんここから出て見るしかない、か」
顔を、横に向ける。
薄く、揺らめく明かりの反射が見える出口。
前時代的な石造りの縁から見える廊下が、次の行き先だった。
まったくの未知、というの大いなる不安をもたらすものだが、踏み出さない訳にはいかない。
秤アラタは家に帰りたかった。
寒さを忘れたかった。姉に会いたかった。そして、こういう事があったのだと、笑い話として消化したかった。
そのための第一歩が、そこ。
まったく、気は重かったけれど。
「……それじゃ、ニイ。ちょっとついてきて。サン達はそこで待機」
「ついてきて……ついていく?おれ、ついていく」
「よし、えらいこだね」
「おれえらい!」
ボロ布を纏った少女の手を引き、そろりそろりと歩き出す。
五人の中でも比較的体調がよく、何かあっても走れるであろうもの。
『迷宮』内で何かを見つけた際の荷物持ちにしたい、という意図と、もうひとつ。
秤アラタには、確かめたいことがあった。
「……よし」
ニイを背後に置いて、踏み出す。小振りな愛銃を両手で構えて飛び出す。
左、動体なし。振り返る。右手側も同様だった。
廊下だ。床は石のタイル。壁も同質。広さは両手を広げて3人分。狭く、はない。広くもない。
光源は壁に掛けられた松明を見て──いったい誰が用意したものだろう?少なくとも、燃焼物である以上ごく最近用意された物のはずだが──なんて思考に挟まりかけたノイズを意図して振り払う。
「……誰もいない、けど。……こんなに広い場所、どこにあったんだろ」
明かりは、松明によるもののみ。外光は皆無。
『迷宮』とは、もしや地下にあるのだろうか。まるで話に聞くカタコンベだ。──アリウス自体も地下にあるが、そこは不思議と光はある。だから、アリウスは一応地上だと定義して。
ともかく、別物なのだろうとすぐ思い直した。
もし本当にカタコンベであるなら、布告にもそうと書かれている筈だ。アリウスの住人にわざわざぼかして伝える必要はないのだから。
「廊下から、いろんな小部屋に繋がってるみたいだね。ここから見えるところだけでも何個か道が分岐してる。なるほど、これは確かに迷宮だ」
『拠点』とは違い扉に塞がれた部屋たちを見つめて、面倒くさいと思わずこぼした。
クリアリングの手間が増える。これだけ部屋があると、それだけ警戒しないといけない対象も増える。
黒い長髪の彼女、錠前サオリであればスマートにこなせるのだろうが、秤アラタはまだ未熟だった。
だから焦らず正確に、と自分に言い聞かせて、乱れそうになる呼吸を努めて維持する。
焦りは禁物。命取り。怠ればヘイローが砕けるかもしれないのだと、自分に言い聞かせて。
そして、反転。
後ろに立つニイを手招きする。
「……ルール、そのいち。『拠点』から『迷宮』へ同時に立ち入ることができるのは、常に一人だけである……か。さて、どうだろう」
ニイが歩き出す。ふらついてはいない。さっきまでと比べれば、随分しっかりした足取りで。
が、『拠点』と廊下の境目で止まる。見えない何かに阻まれるかのように。いや、実際あるのだ。そこに。目に見えない障害が。
「やっぱり、か」
「……か、かべ。壁?壁だ、おれ。壁に当たってる」
「そうだね、壁だね。そこからは一人ずつしか出られないみたい」
「一人ずつ……」
驚きはなかった。
布告に嘘はないのだと、既に信用はしていたから。
だからここから先は自分ひとりで行くしかないのだとも、心の準備を終えていた。
ただ、ひとつ思うのは。
この、言葉すらおぼつかない少女達は、これから先どうなるのだろうかという、末路に対する問いと感傷。
おそらく一日二日で出られるようなものではない、という予感があった。悪い予感はよく当たるものだと秤アラタは知っていた。外れてほしいと願えば願うほど、確実に当たってしまう。
だから、自分が『迷宮』から脱出するまでの間に少女達は飢えて苦しみ、その果てにヘイローが砕けるのだと、予測ではなく予知の領域で理解していた。
この世界は惨く、厳しく、冷たいのだから。
「……行く?」
「そう、だね……」
別に、さっき会ったばかりの仲だ。
それも自分の複製。極論、これは自傷の範疇であって、誰かに咎められる行いでもない。
「ひとり?」
「うん」
……なのに、胸がじくりと痛む。
アリウスでは、他人にかまけてばかりいる者はすぐに詰む。
一部例外の、優れた能力を持つものであればともかく、秤アラタは未だに弱く、幼い。
そんな夢ばかり見た選択なんて、とれない。
己を戒める。己を縛り付ける。目を逸らせと、言い聞かせる。
だから、背を向けた。
せめて顔を見たくなくて、傷つきたくなくて。自己保身のための、情けなくも切実な逃避だった。
「おれ達、は……」
それをニイと呼ばれた少女は理解しているのか。
……していたのだろう。
続くはずだった、覚えたての言葉は形にならない。
知識として理解し、文法を解しているのに、未熟児としてすらうみだせない。
けれど、声音は雄弁だった。
「……いって、らっしゃい。きをつけて、ね」
今にも泣き出しそうな、湿った声が。
芯の通った、か細い声が。
両立してしまった声が喉を通り、ほどけて──。
「ばいばい、お姉ちゃん」
「……っ!」
──それに背を向け、駆け出す。
秤アラタの弱さは言葉ではなく、その後ろ背に滲んでいる。
頭の奥底で、路地裏にいたボロボロの猫が、にゃあと鳴いた。毛並みはやはり、ひどく荒れていた。
■
ドアを開ける。肩から部屋を覗く。
ドア横の壁際、奥。銃口を素早くすべらせる。
「……クリア」
敵影なし。暗闇に慣れきった視界のおかげで必死に目を凝らす必要もない。
淡々と、未だ見えない敵を警戒しつつ、部屋の中身を漁りだす。
部屋の広さは6畳程度。古びた机と椅子、中身のない本棚と、ホコリまみれのベッドの木組みが転がっているのみだった。
(ここも食べ物はなし、か……)
足元に転がっていた木片を蹴飛ばして、舌を打つ。どちらの音も、部屋の外には漏れない程度の小さな音だった。
空腹感はまだそれほどでもない。けれどこれからしばらく『迷宮』暮らしなのだと思えば、危機感もふつふつと湧いてくるもの。
動けるうちにしっかり確保しておかねばすぐに詰んでしまうと分かっていたから、秤アラタはほとんど休みも取らずに動き続けていた。
『拠点』に背を向けて既に呼吸3000回分の時間が経っている。時計も太陽もない地下空間であるゆえに具体的な時間は分からなかったが、少なくともゆうに1時間以上は経過していた。
「次だ」
音もなく廊下に出て、隣の部屋のドア前へ。
そしてドアを開ける。肩から部屋を覗く。
ドア横の壁際、奥。銃口を素早くすべらせる。
クリア。何もない。敵はおらず、食べ物も水もない。
……ただ、かろうじてマトモな形を保っている布があったからそれだけは回収しておく。
今が朝なのか夜なのかも分からなかったが、徐々に肌寒くなってきているような気がしていた。休息時の体温を維持するために、少しでも備えを増やしておきたかった。
「次」
ドアを開ける。クリア。何もない。
ドアを開ける。クリア。何もない。
ドアを開ける。クリア。古びた柄つきの手投げ弾があった。きちんと作動するかは分からないが、一応回収する。
ただ、食料と水がない。
そればかりが不安だった。
じりじりと心の余裕が削られていく。焦りがつのる。
その両方、せめて片方だけでも潤沢にあれば──なんて、考えかけて、振り払うようにかぶりを振った。
(……忘れろ。ぼくにだって余裕がないのに、これ以上は抱えきれない)
なのに、そのくせ。
今も、湿った声が耳の奥でこだましていた。
ニイと呼んだ少女の見もしなかった眼差しさえ、背中のどこかに刺さっているような気もした。
脳内の奥底にこびりついた泥を払う。
けれど心の中の天秤は、思った以上に傾いてくれなかった。
■
食料、水、弾薬、医療品。そのいずれもが見つからないまま、探索済みの部屋が増えていく。
結局、多少の役には立つだろうと拾った物もさほど多くない。
人一人を包めるくらい大きなボロ布と、古びた柄つき手投げ弾、補修すれば使えそうなポーチ、芯がそこそこ残ってるロウソク。
あれば使えるが、無くてもなんとかなる程度の物。
漏れ出るため息は、どうしても堪えきれなかった。
『拠点』から出て右に直進して、道中の小部屋をすべてさらった結果だ。
あとは突き当たりのT字路のどちらかに進んで、とにかく漁るしかない。まるで野盗だ、と思った。きっと、それほどの違いはない。
もちろん、元来た道を戻る選択肢は頭になかった。
戻ってしまえば『拠点』の前を通りがかることになるし、必然、置き去りにした少女達の視界にうつってしまう。秤アラタはそれが嫌だった。怖かったのだ。彼女達に向けられる視線が。
だからもう、前に進むしかない。そして同じように探索を終えればまた、きっとあるはずの分かれ道で進む先を選ぶ。
その工程を繰り返すうちに戻り方が分からなくなって、取り返しがつかなくなって。
それが苦い後悔として溜まり、そのうち風化していくのだと、信じていた。
……信じたかった。
(……右も左も、さっきとは少し違う。大きなドアもたくさんあるし、道のへこみに溜まり場……ちょっとした休憩所とか、詰所みたいな所まである)
少しだけ悩んだ。が、すぐに足を進め始めた。
暗がりから見通せる範囲内ではあまり違いが見受けられなかったからだ。だから判断基準なんて持てるはずもなく、勘で選ぶしかない。
そして左へ。
銃口を少しだけ下に向けて、保持する労力をなるべく少なくしながらの行軍だ。
廊下のへこみ、一部分だけ広くなったスペースを漁る。
大きなドアのさき、ベッドの枠が規則正しく並べられた、まるで野戦病院のような大部屋を探す。
けれどもやはり大したものはなく、状況は好転しなかった。
(ベアトリーチェの布告を見るに、ぼくのヘイローを砕きたい訳ではないはず。……ってことは、最低限生き残れる環境のはずなんだけど……)
それに、秤アラタはロイヤルブラッドだ。もはや、秤アラタと、姉しかいない尊き血統。
己に流れる青い血に、利用価値がいくらでもあることは彼女自身強く自覚していた。
争いの旗印に。統治の象徴に。いまや誰も知らぬ秘儀の祭具に。そう、使い道はたくさんある。
だから突破口はあるはずだと、休息を求める足に喝を入れる。せめて水だけでも入手せねばたちまち動けなくなってしまうと、現実味を帯びはじめた未来予想を無理やり視界にいれて。
どうにかして、どうにかしないと、ああなるのだ。
薄暗い路地裏にいた、痩せっぽちの猫のように。
──それから、僅かな時間を経たころだった。
鼓膜が震えるのを知覚した。
鉄が軋む音。石を叩く音。規則正しく交互に訪れる波長。
ぴくりと銃口が跳ねる。
「この、音は……!」
重く、硬く、甲高い。
まるで鉄が歩く、足音のような──いや、"ような"ではなく、足音そのものだった。
後方、少女が来た道、T字路で右に向かったいまの道。そこからきぃきぃ、コツコツ、ガシャガシャと喧しい音が鳴っていた。
──愛銃を握る手に力がこもった。引き金に指をかける。セーフティは解除済み。いつでも撃てる。相手の場所さえ分かれば。
はぁ。と、湿り気を帯びた吐息が漏れた。
指先が強張る。肩から先、ひじの裏から小指まで、筋がピンと張っていた。
呼吸は浅く、姿勢は深く。獲物を前にした猫のように、いつでも飛び出せるよう、重心を前に移動させる。
「──……」
……相手の場所。どこだ?目線が躍る。暗い。ガシャガシャと音が鳴っている。歩いている。見えない。錆びた匂い。鉄の味。音しか聞こえない。音が大きい。発生源は近い。
目の前だ。
「ぁ」
発砲。
その姿を視認するより先に火花が散った。
がんがんがん、瞬きの間に計3つ。追加で6。
煌めく赤のうしろにぼんやり浮かんで見えたのは、黒錆の鉄。大きな胸板と鉄面の輪郭。
火花で赤く照らされた装甲は、どう見たって彼女の知る人のそれではなかった。
「っ、鉄で出来た、人……!?」
秤アラタがそれを見たのは、初めてだった。
鉄の身体と電子の脳を持つヒトガタ。オートマタ。
製造されてからの年月を伺わせる、朽ちた躯体。
銃弾に圧されて跳ね上がる上体は未だ砕けず。きりきりと嘶く関節が上向いた首を補正し、秤アラタを正面から捕捉する。
『ccc──codeD13. eeeeennmy encou──nnnnt... eeeeeee──』
火花の失せた暗闇の中、狂ったように響く甲高い音。
機械人の鳴らす電子音──電子音という概念すら秤アラタは知らなかったが──が鼓膜に突き刺さった。
言葉の意味は理解できない。
けれどそれが敵意を示していることは感覚的に理解できた。
幽かに発光する鉄面の継ぎ目の奥は、きっと殺意に満たされているのだろうと。
それに、そうでなければ、こうして首を掴もうとなんてしない筈だから。
ボロボロのフレームからなる手指の輪郭を認めて、奥歯をぎゅっと噛み締めた。軸足を後ろに。上体は衝撃を受け止める形のまま。引き金を絞る。
小さな指が害意を形にし、鉛球を打ち出し続けた。
発射レートは毎分およそ800発。秒間約14発。
胴体を打ち据える。
『Damage Contr...ool faillll...』
それだけだ。熾烈な格闘戦なんてない。
がしゃりと、音が響く。ほんのり見える影が急に背を低くした。
そして数拍。それが力尽きて膝をついたのだと、少し遅れて理解して、あぁと、ようやく息をついた。
荒い、呼吸が繰り返される。
接敵からほんの数秒たっただけ。
けれど体感ではその数十倍に匹敵するほど、とにかく濃い数秒だった。
出会い頭の超至近距離での戦闘なぞ秤アラタは初めてで、だから、ぺたりと尻もちをつくのも仕方のないことだった。
「な……何だったんだ、こいつ……」
ヘイローのないヒトガタ。未知の存在。
幸いにも既知の敵、ヘイロー持ちの兵士よりは遥かに脆く、そのおかげで消耗したのは弾薬のみ。
それを幸いというべきか、そもそもこんな近距離で接敵したことを不幸と呼ぶべきか。
もう一度、大きく息を吸って、吐き出す。
「……よしっ、次に行こう。何にしてもまずは水だ。水さえあればしばらく何とかなる、はず……」
言っていて、少し気落ちした。
今の時点でもそれなりに探索しているというのに、使えるものは殆どない。物資の密度がその程度ということは、必然、これから先も苦労することになるのだろうと。
ただ、無性に家族が恋しくなった。
「……ん、こいつ何か背負ってる……?」
ふと、倒れた鉄の身体の輪郭が歪んでいることに気付く。
火花で開いた瞳孔が再度暗闇に慣れて収縮したおかげだった。
一度鉄の頭を蹴りつけて本当に動かないことを確認して、手探りでまさぐる。
手のひらに伝わるのは布の感触。ボロボロだ。擦り切れている。秤アラタの衣服よりもなお粗い。
幅は30センチ足らず。高さもほぼ同等。膨らみは、最大容量の半分程度。
布越しに伝わる中身は硬く、機械のような複雑さは感じられなかった。
爆発するものではない。もしそうであれば既に弾けている。
「……むむ、バックパックかな。留具は……ここ、いや違う、ここ、かな……?」
すりすり。さわさわ。ボタンらしきものを探り当て、勘で外す。
すると、布を中身から引っ張っていた力がふっと消えた感覚が指先から伝わってくる。
そしてころりと、中身がまろびでた。
それは鉄製で、石畳にぶつかればかきーんと高い音を鳴らすものだった。そしてわずかに、ちゃぷりと水気のある音を鳴らすものだった。
「水……!あとこれは、缶詰……?食料?ああ、でも良かった。水さえあればとりあえず生き延びれる……!」
持ち上げて、揺らす。ちゃぷちゃぷと鳴った。
容量は500ミリリットル程度か。それが5本。適切に飲めば5日は持つ。
それは、まさに恵みだった。信じてもいない神に感謝すらした。両手を組んで天井を仰ぐ。
おお天にめします我らの主よ、憐れなわたくしめに今日を生きる糧を恵んでいただき感謝いたします。わたくしはあなたの下僕としてあなたに尽くし、これからもあなたを愛しましょう。
……なんて、空っぽな言葉を捧げようと思った。
思っただけだ。
神がいるとするなら、それはきっと性悪だ。こんな試練を与えたものがマトモなはずがない。
主は乗り越えられない試練は与えないと聞き及んだことはあったが、そんなものはこれっぽっちも信じていなかった。薄っすらと憎んでもいた。
他の幸福や不幸、全体の基準を知らぬ無知ゆえに、それは淡い思いでしかないが、苦しいこと苦しいと理解できる程度の知性はあった。
ともかく、救いはあったのだと、息をつく。
バックパックに再度入れて、これまた手探りで鉄の身体から剥ぎ取って、背負う。
そして、立ち上がって、再び暗闇のなかに身を投じる。
じっと、猫の鳴き声から耳を塞ぎながら。
ドアを開いて、中を見て、閉じて。
開けて、閉じて、開けて、閉じて、開けて、閉じる。
それをひたすらと繰り返す少女の顔は、どうにも調子の出ない様子だった。
のばす手は鈍く、足取りは重く。
憂鬱な胸の裡を垂れ流して、ため息をつく。
背中に背負ったバックパックが重たくて仕方がない。
たった数キロの重みが、何倍、何十倍にもなったよう。
けれどそれを分け合うともがらはなく、ひとりぼっちだ。
随分慣れた筈だった暗闇の中であっても、だからこそ、浮き彫りになってしまった。
(さみしがってるのか、ぼくは)
そう、心の中で呟いてみれば、惨めなほどにすとんと腑に落ちる。
否定の余地すらない、ただ、むき出しの感傷があった。
それに、たぶん。
少し前に他者と触れ合ってしまったから、その名残が目立ってしまっている。
そこまで自己を分析して、止まった。
「……いやいや、無いでしょ。それは」
前に進む足が、ぴたりと。
まるで足首に枷をはめられた囚人のごとく。
──これだけあれば、生き残れるのでは?
「何を考えてるのさ、ぼくは」
……なんて、ありえない。ありえてはならない。
そこにあるのは単なる迷いだ。気の迷い。血迷い。
水を得た。生存の可能性が芽生えた。だからようやく思考のリソースに余裕が生まれて、無視していた欲が浮上する余地が生まれた。
一本だけだった思考回路が2本、3本と増えて、目指せる目標と過程を再計算できるようになって。
だから、置き去りにした子供たちすら再度視界に入った。
けれどそれは実現可能であることを意味しない。
「でも、不可能でもない……違う、だめだそれは」
不可能じゃない。
それだけだ。ただそれだけの事実。
たったそれだけが、致命的な齟齬を生んでいる。
「ありえない」
考えるべきではない。求めるべきではない。
負荷、不可。秤アラタは前に進まなければならない。
余分を捨て、感傷を捨て、合理的に。
そうでなくては、真っ暗闇にのまれてしまうから。
「……っ!」
思いっきりかぶりを振って走り出す。
暗闇に怯えきった野良猫のように、口元を引きつらせながら。
ドアを開けて、開けて、開けて、開けて、開けて──。
その先に望む答えがないことなんて、他の誰でもない彼女自身が一番わかっていた。
■
……やがて、たいした成果もないまま分かれ道に突き当たった。
とはいえ、機械人形から略奪したものはあるから、まったくの素寒貧というわけではない。
けれど人とは欲深い生き物だ。一度手にしたご褒美を、もっともっとと望んでしまう。
いくら幼くとも、人であるというテクスチャを貼り付けられたアラタもそうだ。
より大きな安定を。より確実な安心を、と多くを求める。
それ自体はきっと、悪いことではない。
今の少女は少女でしかなく、だからそうやって前向きになれるのであれば、必要なものだと言える。
しかし、それは欲の深さが適切であれば、という前提があった。
「……足りない、なぁ」
もっと、水があれば。もっと、食べ物があれば。
アラタはきっと、悩みを振り切れた。
人はパンのみで生きるわけではない。
希望が必要なのだ。
もしかしたら、という妄想。こうなるかも、という願望。
それがあって、人はようやく暗闇に足を踏み出せる。
──でも、秤アラタが生まれ持った気質。幼馴染達も根っこの部分で有してしまった、アリウスでは持つべきではない性質。
利己に振り切れるべきなのに、それを心の奥底で拒んでしまうような、愚かさ。
それが正しさと衝突し、削り合い、枷の形を得てしまえる。
「ぼくは、帰らないと。お姉ちゃんも、サっちゃんも、ひぃちゃんも、みっちゃんも、きっとぼくを探してる。帰って、安心させないと」
だから、帰らないと。
熱に魘される病人のように呟く。
けれど、あの、自分の写し身の少女達の声を思い出してしまって。
湿った輪郭が触れた耳をなぞって、呻く。
水があれば5日持つ。ひとりならば、それほどに。
そこに少女五人を加えたなら、誰かひとりが──秤アラタが我慢できれば、1日の延命になる。
たったの、1日。
でも、生存の芽が生まれてしまう。ゼロがイチになった。
……そのせいで。たった、それだけで。
「……全ては虚しい、けど」
彼女に降り掛かった不幸の中でもっとも大きかったのは、きっとそれ。
秤アラタは。
自分よりも弱いものを見捨てられるほど、正しくあれなかった。
「やめてよ……あんな声で、ぼくを呼ばないでくれたら良かったのに……」
頭の奥底で、やっぱり猫が鳴いていた。
にゃあにゃあと、ボロボロの喉を震わせて。
■
ニイ、と呼ばれた少女は、暗がりの中でじっとうずくまっていた。
部屋の外からさしこむロウソクの反射光だけをよすがに、他5人の少女達と身を寄せ合う。
惨めだった。
産湯のかわりにホコリまみれの空気に浸かり、産声のかわりに乾いた吐息ばかりを漏らす。
生誕を祝福する言葉はなく、ただ、空虚な沈黙だけがあった。
少女達のオリジナルですら、愛を与えることはなく。
教えを授かる必要もなく、空虚という概念を学んでしまった。
(……当然だ。おれたちは、きっとおかしいから)
知っている。知識は挿し込まれていた。
所詮複製でしかない己達は、オリジナルの認知の外にある。
常識にない存在は排斥されて然るべきであり、むしろ銃弾を叩き込まれなかっただけ幸運だったのだと。
惨めだった。
産まれるべきではなかった己の身が。
去っていく背に、送り出す言葉しか投げかけられなかった自分の喉が。
……ほんとうは。
ばいばいじゃなくて、いかないでと言いたかった。
さみしかった。見捨てられるのは、さみしかった。たぶん、そうだ。
それをどうにか誤魔化したくて、妹たちにそっと寄り添う。そこには確かにぬくもりがあった。生きているものの温度だった。
一時の慰めには、なったかもしれない。
「……足、音。ニイ、気をつけて」
「ああ、おれも聞こえる。サンは、ヨン達を引っ張って、部屋の隅へ」
「分かっ、た」
はっと顔を上げる。
こつ、こつ、こつ。足音が鳴っていた。
産まれてすぐ放り込まれたこの場所は、ニイ達ミメシスの亜種にとっても未知の場所だった。
オリジナルから引き継いだ警戒心、臆病さといってもいいそれが、彼女たちから楽観を奪う。
こつ、こつ、こつ。こつ。
じっと息を潜めて、いかほどか。
部屋の前で音が止まる。
それからややあって、ゆっくり部屋の中へ。
暗がりの中でもぼんやり浮かぶ、ヘイローと共に。
──ほんの一瞬、呼吸が止まる。
それは、もう去ったはずの光だったから。
「お姉、ちゃん……?」
「……戻ったよ」
返ってきた声は、確かに自分と同じもので。
だからニイはひどく混乱した。
帰ってこないと思っていた。
確かに、背を向けられたはずだった。
「これ、水。たぶん、この人数でも1日は安泰」
だけれど、そのひとは確かにそこにいた。
苦々しい顔を浮かべているのが容易に想像できる硬い声音。
その選択が正しくないことは、きっと本人が誰よりも理解していた。
選択には責任が伴う。そして、それによる義務も。
未だ幼く、言葉にできるほど明確でなくても、分かっていた。
けれど秤アラタは、それでも、と動いてしまった。
言葉よりも雄弁に在り方を語り、今に至って。
この場にいる誰よりもはやく、大人に近づいてしまった。
あぁ、と呻く。
ニイはまだ何も知らないし、これから先の事なんて想像できない。
……できない、けれど。ひとつ、予感はあった。
「……お姉ちゃん、まだ、間に合うよ」
「そうだね」
「おれたちは、まだ、あなたに縋っていない」
「分かってる」
「傷になる、お互いに」
「それも、分かってる」
「……分かってないよ、お姉ちゃんは」
それを理解しているのは長姉と、ニイ、そしてサンぐらい。他の姉妹たちが背後で戸惑っている気配を感じる。
サンは口を挟まず、ただ、埃に沈む吐息を垂れ流していた。
あなたには背負いきれない、なんて、言葉にしようとして。
けれど、それがどれほど残酷なのかは分かっていたから、じっと口を噤んだ。
ニイは賢くなかった。ナイフの正しい振るい方なんて、最低限の知識しか与えられていない。傷口を切り開く方法も、膿を吐き出させる手法も知らないから、無駄な流血を強いてしまう。
けれど、だからこそ見えてくるものもある。
「お姉ちゃんは、おれたちと一緒に、死ぬつもりなの?」
「…………」
……言って、一拍。
秤アラタは黙って部屋の中の、姉妹たちの真ん中に歩みを進めて、ようやく荷物を下ろして、薄く微笑んだ。
暗闇の奥、誰にも見えない帷の中で、誰に見せるでもなく。
あるいは、微笑むことそのものが目的だったのか。
そうして傷を矮小にして、安心したかったのかもしれない。そんなもの、何の意味もないというのに。
「……違うよ、それは。ぼくはただ、君たちと外に出たいだけ。誰かを置いていくのは、さみしいから」
置いていくぼくもさみしくて、置いていかれるきみらもさみしい筈だから。
だからせめて、ぬくもりを分かち合おう。
そう、傷を舐める舌を出す。
秤アラタは弱かった。だから、こうなる。
「ぼくが出口を探す。誰も傷つかないように、一番前を歩くから。……だから泣かないで、ニイ」
「泣いてないよ、おれは」
「あは、そうかな。……そうかもね。そうだったら、ぼくも嬉しいよ」
頬に触れる。乾いていた。涙の軌跡なんてどこにもない。
……けれども、あぁ。
その割には、誤魔化しきれない薄い熱が、確かにあったかもしれない。
■
そして、それを観測していた黒幕は、想定通りだと薄く笑った。
それは赤い肌をしていた。
それは気品のある淑女の形をしていた。
それは、浅ましい欲を抱えたケダモノだった。
■
ぼっ、と弾けるような音を立てて光が灯る。
壁のロウソクに火がついた。『拠点』が正しく機能するために。
暗闇が裂けて、ようやく六人の子供が互いの顔を見る。
同じ顔、同じ背丈に同じ髪。しかし瞳だけはそれぞれ僅かに違うもの。
そのせいで情を移す余地がことさらに大きくなって、自分ひとりが生き残るという意思を根っこから刈り取ってしまう。
他者と目を合わせるとは、そういうこと。
言葉を交わすよりなお強い交わりは、より強く人と人を繋げてしまう。
だからこれから先、彼女は自分のためではなく、少女達のために逃げられない。
明日が見えずとも。暗闇の中を、手探りで歩くしかない。
その暗闇にあって確かなものは、そこにあるぬくもりだけだ。
手と手が触れ合って、熱を分ける。さみしいも、あたたかいも分かち合う。
「明日は何が欲しい?何がしたい?……考えてみて」
「……布が欲しい。大きな布が。みんなで被ったら、きっと暖かいから」
「そっか、今持ってるのは小さいもんね……頑張って持ってくるから待っててね。……でも、今日はないからみんなでくっついてようか」
「……うん」
「ほら、サンも、ヨンも……みんなおいで。いや、まだ動けないのかな?じゃあそっちに行こっか」
「ウチ、歩け、ない。ごめん、ね」
「……気にしないで、ゴウ」
……今は、それだけでいい。
それだけが、いい。
「お姉ちゃん」
「なぁに」
「おれたちと、ずっと一緒にいて」
「……うん」
「ずっと一緒」
猫は、もう鳴かなかった。
誰もいない路地裏で、誰でもない誰かが来るのを、ひとり静かに待っている。
《TIPS》
■Vz61
短機関銃。装填数30発。別名スコーピオン。秤アラタが姉から貰ったお古。
お古とはいえメンテナンスは行き届いており、動作に不足はない。
この短機関銃は非常に小さく、子供でもある程度扱える。真正面からの銃撃戦より、護身用に向く。
それは、ただ生きてほしいと願っただれかの、祈りそのものだった。
生きるためにだれかを撃ち、争い、奪う。
ゆえに、呪いでもある。
硝煙まみれの唇で、一体何の祈りを囀ろうというのか。
こういうのを読みたかったので書き捨て。
これ、続きそうに見えるでしょう? ですがもちろん続きません……。
うぅ、誰か書いてください……お願いします……ブルアカサバイバル部が欲しくて欲しくて仕方がないんです……お願いします……お願いします……どうか、続きを、誰か……!