⦅未完⦆【祝・可愛い賞】ゴミ山の上の極彩&三島由紀夫とコンソメ味の恋をしたら、世界が404エラーになった件 作:夏目陽光
1
昨日、たまたまめくった辞書の「狐」の項目には、彼らは計算高く、人を欺くのが得意だと書かれていた。けれど、目の前で銀髪を揺らしている自称・妖狐を見る限り、その記述の信憑性はかなり怪しい。
下校路、西日が私たちの影を、不格好な影絵のように引き延ばしている。
「なぁ、明日の数学の宿題、やったか? わえ、あんなのさっぱり分からんわ」
彼女が銀髪を指先で弄びながら、退屈そうに言った。
「私は……休み時間に終わらせたけど。君、いつも寝てるからね」
「ふん、ぬしは真面目じゃのう。そもそも、三角形の内角の和が百八十度だと誰が決めたんじゃ? 百九十度くらいあったほうが、世の中もっと大らかになると思わんか?」
「十度増えたところで、教室の風通しが良くなるわけじゃないと思うけど」
「いや、その十度の余裕が、人々の心の棘を丸くするんじゃよ。数学者は、いつも正解を急ぎすぎる」
彼女が空を見上げる。
「予報じゃ晴れじゃが、このぶんだと、空のインクが漏れ出しとるのかもしれん」
やがて古い踏切が見えてきた。
二人がそこを渡りきった瞬間、「カン、カン、カン」と、誰かが空き缶を叩いているような、頼りない警報音が響いた。
遮断機が下りる。
やってきたのは通学電車ではなく、灯り一つない、夜の闇を四角く切り抜いて無理やりレールに乗せたような、不格好な真っ黒い車両だった。
轟音と共に通り過ぎるその列車の窓には、乗客はおろか、反射する景色すら存在しない。ただ「無」が高速で移動している。
通り過ぎた後、踏切の向こう側は、まるでもやがかかったように遠く、静まり返っていた。
「……ぬし、もう戻れんぞ?」
彼女がニヤリと笑う。
普通なら、ここで「元の世界に帰せ」と叫ぶのが物語の定石なのだろう。
けれど、私がその瞬間に考えたのは、世界の終わりについてではなく、さっきの電車の風圧で、せっかく終わらせた数学の宿題のプリントが、カバンの隙間からどこかへ飛んでいってしまったことだった。
「ねえ。戻れないのはいいんだけど、さっきの風、弁護士を通せば損害賠償を請求できるかな」
「はあ? 賠償?」
妖狐が、初めて設定を忘れたような顔をして小首を傾げた。
「ああ。これじゃ、私の放課後の計算が合わない。努力の収支報告書が、救いようのない赤字だ」
辞書の記述は、やはり正しかったのかもしれない。
計算高い狐を前にして、僕はそれ以上に、自分の失った「無駄な努力」の計算に没頭していた。
2
黄金色に波打つ稲穂の海をかき分けて進むと、その先に異様な光景が姿を現した。参道に並び立つ、三つの鳥居だ。
最初の一本は、血のように鮮やかな朱色。二本目は、闇を溶かし込んだような深い青色。最後にもう一度、朱色の鳥居。
三つ目をくぐり抜けた瞬間、虫の音も風の音も、まるで録音のスイッチを誰かが踏んで壊したみたいに一斉に消失した。
目の前に鎮座するのは、厳かな「神社」に、生活感の漂う「民家」を無理やりボンドで繋ぎ合わせたような、設計者の正気を疑いたくなる合体建築だ。
「……さあ、着いたぞ。ここがわえのうちじゃ」
妖狐は慣れた足取りで神社の裏手へ私を導く。そこには、古びた木の引き戸があった。
「ぬし、何を突っ立っておる。……入れよ」
ガラガラ、という乾いた音が、静まり返った世界に不躾に響く。玄関先から漂ってくるのは、お香の匂いと、微かな獣の、あるいは「鉄分」の多い何かの匂い。
私の背中を、小さな手がそっと押した。一歩踏み出したところで、背後の戸がピシャリと閉ざされる。
「くかか……ようこそ。ここからは、誰の邪魔も入らんぞ?」
通されたのは、古い畳の部屋だった。
妖狐は手慣れた様子で、部屋の隅にある不釣り合いに新しい冷蔵庫を開けた。
「……のう、ぬし。喉が渇いたじゃろ? コーラでも飲むか?」
差し出されたのは、キンキンに冷えた赤いラベルのボトル。さっきまで神だの妖狐だのと勿体ぶっていた割に、選ぶ飲み物は実に庶民的だ。
「……い、いい。炭酸、苦手だから」
私は首を振った。
「ふん、つまらん奴じゃのう。……なら、水でええか?」
彼女は不満げに鼻を鳴らすと、台所から二つのコップに水を汲んで戻ってきた。
「これなら文句なかろう。わえも飲むし、毒なんて入っておらんよ。そもそも、水を毒で汚すなんて、配管業者への冒涜じゃと思わんか?」
彼女が先に自分のコップを飲み干す。その淀みのない動作を見て、私はコップを受け取った。
一口、二口。冷たい水が喉を通る。
その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。部屋の四隅が勝手に場所を入れ替え、畳の目が細かな幾何学模様に見え始める。
私は、意識が遠のき、畳に沈み込んでいく感覚を味わいながら、不思議と冷静にこう考えていた。
「彼女はいつ、どのタイミングでこの水に細工をしたんだろう。注ぐ前か、それともコップを渡す際のスレッジハンマーのような早業だろうか。だとしたら、彼女は妖狐というよりは、一流の手品師としてスカウトされるべきなんじゃないか」
毒を盛られたという事実よりも、その「手際」の良さに感心してしまっている自分に、少しだけ呆れた。
「……っ、これ……」
「くかか……水なら安心だと思ったか? ぬし、案外チョロいのう」
コップが手から滑り落ち、畳の上に不格好な水溜まりを作る。
「……ゆっくり寝ておれ。起きた時には、君の役割は別の誰かに引き継がれているはずだから。世界は、君が思っているよりもずっと、代わりの利く部品でできているんじゃよ」
銀髪の少女が、さっきのコーラのキャップを「プシュッ」と、気の抜けた音を立てて開ける。
意識が暗転する直前、私は思った。
私の代わりが務まる誰かがいるのなら、せめてそいつには、あの数学の宿題のプリントの「収支報告書」も一緒に引き継いでもらいたいものだ。
3
周囲が深い眠りに落ちた頃、妖狐は音もなく立ち上がった。裏手の扉から外へ出ると、夜の神社の空気は、冷蔵庫の奥に忘れ去られた野菜室のような、ひんやりとした静寂に包まれていた。
彼女は賽銭箱の前まで歩くと、二拍一礼の作法で深く頭を下げた。それは信仰心というよりは、タイムカードを押す会社員のような、手慣れたルーチンワークに見えた。
「……ふふっ。もう、隠し通すのは限界のようですね」
独り言にしては少し芝居がかった吐息とともに、彼女を包んでいた「人間らしさ」という名のコーティングが剥がれ落ちていく。
柔らかな髪の間からぴょこんと現れたのは、可愛らしいというよりは、高性能な集音マイクのように実利的なケモ耳だった。背後からは三本の尻尾が溢れ出し、月光を浴びてゆらゆらと揺れる。
その光景は幻想的ではあったけれど、もし僕がそれを見ていたとしたら、「あの尻尾、三本同時に動かすのは、脳のどの部分が司っているんだろう。並列処理の負荷は相当なものじゃないか」と、余計な心配をしていたに違いない。
「きい……きい……、キィ、キィ……」
不意に背後から、油の切れた機械が悲鳴を上げているような音がした。
振り返ると、そこには深緑色の燕尾服を纏い、場違いなシルクハットを被った大きなキリギリスが立っていた。細長い前肢には、使い込まれたバイオリンが握られている。
キリギリスは多面体の瞳でじっと妖狐を見つめると、シルクハットに手をかけ、熟練の執事のように一礼した。
「ぬしも、わえの『ご馳走』を祝いに来たかえ?」
妖狐の問いに、キリギリスは再び金属的な鳴き声を上げた。彼はバイオリンを構えたが、結局一音も奏でることはなかった。まるで「楽器を持っている事実」こそが重要であって、「演奏」はその付随業務に過ぎないと言わんばかりの徹底した沈黙だ。
彼はシルクハットを脱ぎ取ると、その中から『妖怪美容医院』と明朝体で印字された、事務的な封筒を取り出した。中身は美容パックの詰め合わせらしい。
「くかか、気が利くのう。食う前には身だしなみも大事じゃ」
妖狐は満足げにそれを受け取った。キリギリスは一仕事終えた配達員のように、再びシルクハットを被り直し、三つの鳥居の向こう側へと淡々と消えていった。
妖狐は三本の尾を揺らしながら、再び引き戸を開ける。
「さて……準備に取り掛かるとしようかの」
彼女は洗面台の蛇口をひねった。鏡に映る自分のケモ耳を眺めながら、彼女はさっきのパックを無造作に置いた。その動作は、明日の会議のために資料を揃える事務職のそれと大差なかった。
彼女はまだパックには手をつけない。
まずは「獲物」の状態を確認するために、眠る女の子が待つ奥の部屋へと、静かに、かつ効率的な歩調で足を進めた。
「美容パックをしてから食べるのか、食べてからパックをするのか。その順番に、彼女なりの合理的な理由は存在するんだろうか」
眠りの中へ沈んでいく僕の意識は、そんな答えの出ない、そしてどうでもいい問いを最後の一片として、闇に溶けていった。
4
妖狐は洗面台に置いたパックの袋を手に取り、部屋に戻ってきた。
畳の上では、毒だか眠り薬だか、とにかく「配管業者への冒涜」が含まれた水を飲まされた女の子が、無防備に横たわっている。
妖狐は「私」の枕元にどっかと座り込むと、届いたばかりのパックをぺりぺりと開封した。
「……さて、まずは肌を整えんとな。せっかくの食事を台無しにするわけにはいかんしの」
眠っている「私」のすぐ横で、妖狐は慣れた手つきで自分の顔にパックを貼り付けていく。白銀の髪を耳にかけ、三本の尾をゆったりと揺らしながら、パックの成分が浸透するのを待つ。その姿は、明日から始まる決算セールを前にした、少し気合の入りすぎた店員のように見えた。
彼女はパックの下から覗く指先で、私の頬をツンと突いた。
「ぬし、そんなに安らかな顔をして……。この後、どんな顔で泣いてくれるか楽しみじゃのう」
月明かりが差し込む静寂の中、妖狐は横たわる存在を前に、静かに思案に耽っている。
三本の白い尾は、まるでそれ自体が独立した思考回路を持っているかのように、ゆらゆらと周囲の空気をなで、そのうちの数本が境界線を確かめるように、静かに私の傍らへと伸びてくる。
彼女は、この「獲物」をどう処理すべきかという実利的な計算を、頭の中のそろばんを弾くように進めていた。
足先から徐々に包み込んでいくのが効率的なのか、それとも最も脈動の激しい場所から手をつけるのが、味覚的な最適解なのか。
「もし彼女に品質表示ラベルを貼る義務があるのだとしたら、その原材料名の最初には『執着』と書かれるべきだろう。けれど、その隣にはきっと『手順へのこだわり』という、ひどく面倒な注釈も添えられているはずだ」
指先が喉元に触れ、そこから伝わる微かな震えを確認するたびに、彼女の想像は膨らんでいく。それは甘美な果実を前にした期待感というよりは、「新しく手に入れたパズルの、最後の一枚をどこにハメるべきか」という、少しばかり病的な知的好奇心に近い。
暗闇の中で光る緑の瞳には、単なる飢えを超えた、複雑な「レシピの検討」が宿っている。
月光に照らされたその光景は、恐ろしいというよりは、「夜中の三時に、一人で黙々と家具を組み立てている人間」を見ている時のような、言葉をかけるのを躊躇わせる異様さを放っていた。
彼女はパックの表面を指で押さえ、密着具合を確かめる。
「さて。準備運動は、このくらいでええかの」
意識の底で、私はただ願った。
彼女のパックが、どうか劇的な効果を発揮してくれますように。
そうでなければ、私のこの「収支報告書」の赤字は、あまりにも浮かばれない。