⦅未完⦆【祝・可愛い賞】ゴミ山の上の極彩&三島由紀夫とコンソメ味の恋をしたら、世界が404エラーになった件 作:夏目陽光
1
ハヤシカワは覚醒した。
午前六時。地平の亀裂から溢れ出した陽光は、大気の静寂を切り裂く執刀医のメスとなって、彼の眠りの薄膜を容赦なく剥ぎ取った。百七十センチメートルの直立した緑色の肉体。直翅目の貴族を思わせる冷徹な外骨格が、朝光を浴びて深緑の深淵を湛えている。彼は緩慢に身を起こし、自らの大腿部に隆起する鋼のごとき筋肉の線条を凝視した。それは虚無が設計した究極の楽器であり、機能を突き詰めた果ての、一種の残酷な装飾ですらあった。
彼は傍らに転がる、もはや一個の意志と化したシルクハットを手に取った。目的地は、土手の嶺に癌細胞のごとく沈黙する公衆便所である。
肺腑を刺す冷気を切り裂き、彼は土手を踏みしめた。便所の洗面台は、ひび割れたタイルの隙間に黒ずんだ過去の腐臭を溜め込み、安価な消毒液の臭気が鼻腔を仮借なく蹂躙する。この不潔の極致において、彼はシルクハットを恭しく洗い始めた。水滴は布地の上で、刹那の命を謳歌する真珠となって転がる。次いで、昨日拾得した一個のムカゴを、その滑らかな皮膚が露出するまで執拗に磨き上げた。
ふと、鏡を覗き込む。
汚濁した空間の中で飛沫を浴び、より一層冷厳な光沢を放つ緑の肉体が、そこに凍結されていた。彼は指を止め、自らの節々に宿る機能的必然性に、倒錯した陶酔を覚える。この完璧な共鳴箱があるからこそ、あのバイオリンの旋律は、峻烈な殺意を帯びて響くのだ。
彼は濡れた帽子を頭上に戴き、便所という名の墓場を辞した。
朝露に濡れた斜面へ足を踏み出す。そこには、果たさねばならぬ日課が待っている。
彼は繁茂する草の茎を、解剖学的な指先でなぞり、静かに口へと運んだ。
咀嚼される組織の無機質な歯応え。溢れ出す青臭い生命の汚液。
この、他者の生を蹂躙する野蛮な儀式こそが、彼の肉体を維持する唯一の聖餐であった。青臭い死の抱擁を喉奥へと送り込む音だけが、静寂のなかで福音のように響き渡った。
2
ハヤシカワは、土手の斜面にへばりついた青いビニールシートの天幕へと帰還した。
そこは近隣の野良猫たちが、濡れた毛を舐め合う陰惨な集会所でもあった。風が吹くたびに、安価な化学繊維が乾いた音を立てて身悶えし、この世界が如何に脆い虚構に過ぎないかを、彼に無機質に教示する。
彼はバイオリンケースの金具を弾いた。断頭台の刃が落ちるような、短く、拒絶的な音が響く。横たわる愛器の弦は、曇天の光を吸って鋭く光り、飢えた獣の牙を思わせた。
音程は、致命的に狂っている。だが、宇宙の終焉に捧げる葬送曲には、このメンテナンス不足の不協和音こそが、神という名の冷淡な観客を飽きさせぬために相応しいはずだった。
「代償を、」
彼は低く呟いた。
ケースの底、楽器の冷たい木肌に沿わせるように、折れ曲がった生活保護受領書を滑り込ませる。朱肉の跡は、腐った果実のような色をしていた。この薄汚れた紙片だけが、彼の肉体を社会という巨大な歯車に繋ぎ止めている唯一の楔(くさび)であった。
彼は何も語らなくなった。
使い古されたシルクハットを、儀式のように深く被る。
左手には至高の芸術を収めた黒い箱、背中には見知らぬ他者の卑俗な空腹を満たすための、巨大な立方体。
その不均衡なフォルムは、静止した彫像のような威厳と、逃れようのない滑稽さを同時に湛えている。
ハヤシカワは傲慢な顎のラインを崩さぬまま、土手の泥を力強く蹴った。
自転車が、鳴くことを忘れた烏の断末魔に似た不吉な金属音を立てる。
彼は、聖餐を運ぶ一介の機械と化し、虚無の街へと滑走していった。