廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
雨が降っていた。
廃墟の崩れた屋根から、細い雨粒がぽたぽたと落ちている。石床に小さな水たまりができていた。ボクはそれをぼんやりと眺めながら、今日の作業を頭の中で整理していた。
雨の日は、静かだ。
ロイドは来ない。ミネルバも、こんな天気では仕事にならないと言って今日は早めに帰っていった。アウラも街には出られない。廃墟の中には、ボクとアウラだけがいる。
――(久しぶりだな。こういう静けさ)
不思議と、寂しいとは思わなかった。
少し前のボクなら、この静けさこそが「平穏」だと思っていたはずだ。誰も来ない。誰にも気づかれない。ただひっそりと、廃墟の中で人形を作り続ける日々。
でも今は……少し違う気がする。
――(平穏って、なんだろう)
ボクは考えた。
ロイドが「またくるね」と言いながら走り去っていく背中。ミネルバが「悪くない働きだ」とぼそりと呟いた声。アウラが花の葉を丁寧に拭いている姿。
それらは全部、ボクが最初に望んでいた「平穏」とは違う。でも――
――(……嫌いじゃない)
ボクは手の中の小さな石を見た。ロイドがくれた、白くて丸い石だ。廃墟の中央に置いておいたら、アウラがいつの間にか花瓶の隣に並べていた。
――(意思はない。そういうことに……)
でもその言葉は、今日はうまく続かなかった。
アウラが廃墟の隅から静かに歩いてきた。手に何かを持っている。小さな布切れだ。水たまりの近くにそっと置いて……雨粒が床に広がらないように、布で周りを囲んだ。
水たまりが広がるのを、防いでいる。
――(……誰も言ってないのに)
ボクはアウラをじっと見た。白い髪が揺れる。白い瞳が、水たまりをじっと見ている。
――(ボクは、お前に意思があるとは思っていない。でも……)
でも、こうして見ていると。
――(……まあ、いいか)
ボクはそう思うことにした。難しいことは、後で考えよう。今は、この静かな雨の日を、ただ感じていたかった。
* * *
雨が上がったのは、夕方のことだった。
崩れた屋根の隙間から、橙色の光が差し込んでくる。水たまりがその光を反射して、廃墟の天井にゆらゆらと揺れた。
――(きれいだな)
ボクはそう思った。人形の体で、廃墟の中で、ただそれだけのことを思った。
アウラが窓際に立って、夕暮れの光の中に手を伸ばしていた。光が白い指先に触れる。アウラがその手をじっと見ている。
――(何を見てるんだ、お前は)
ボクにはわからなかった。でも、その光景を邪魔したくなかった。
しばらくして、アウラがボクの方を振り返った。白い瞳がボクを映している。
何も言わない。ただ、静かに見ている。
――(……なんだよ)
ボクは少し居心地が悪くなって、視線を外した。
廃墟の外から、木々が風に揺れる音がした。遠くで鳥が鳴いている。雨上がりの森の匂いが、崩れた窓枠から流れ込んでくる。
――(平穏って、ひとりでいることだと思ってた)
ボクはまた、その言葉を思い出した。
――(でも……そうじゃないのかもしれない)
誰かが来て、賑やかになって、少し疲れて、でも嫌じゃなくて。心配事が増えて、でもそれを一人で抱えなくてもよくなって。
ロイドがいて、ミネルバがいて、アウラがいる。
――(これが……ボクの平穏なのかもしれない)
廃墟の中に、静かな夕暮れが満ちていた。
道化師の人形は、固定された笑みを浮かべたまま、ただそこにいた。
それで、よかった。
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序章 完
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最後まで読んでいただきありがとうございます。「これが……ボクの平穏なのかもしれない」……ネルにとっての平穏、少し変わりましたでしょうか。一章もよろしくお願いします。