廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
【ウェイブ視点】
今日こそ行く。
ウェイブは朝から何度もそう自分に言い聞かせていた。宿の鏡の前で鎧を着込みながら、己の顔を見つめる。
――(ふぅん。どう見ても頼れる騎士の顔だ。これで怖気づく理由がどこにある)
先日、森の入り口で引き返したのは作戦的撤退だ。情報収集フェーズが完了したから次のステップに移っただけであって、決して怖かったわけではない。
――(そう。断じて怖かったわけではない。ふぅん↑)
槍を手に取り、宿を出た。
今日は曇り空だった。森の木々がいつもより暗く見える。風が木の葉を揺らす音がやけに大きく聞こえた。
――(……まあ、少しくらい薄暗くても問題ない。俺ほどの騎士には余裕だ。ふぅん)
森の入り口に立つ。深呼吸を一つ。
一歩、踏み出した。
今度は、二歩目も出た。
――(ふぅん↑ やはり俺は違う。)
ウェイブは森の中を進んだ。落ち葉を踏む音が響く。鳥の声がどこかで鳴いた。魔物の気配は……今のところない。
――(そうだ。この程度の森、俺には問題ない)
しばらく歩いていると、木々の隙間から石造りの建物が見えた。
――(……あれか)
廃墟だった。
遠目から見ても、その存在感は只者ではなかった。蔦に覆われた石壁。崩れかけた屋根。薄暗い窓の奥に、何かがいる気配。
――(……思ったより、でかい)
ウェイブの足が止まった。
――(い、いや、怖くない。全然怖くない。ただ……作戦を練る必要がある。そう、作戦だ。ふぅん)
木の陰に身を隠しながら、ウェイブは廃墟を観察した。窓から人影……いや、白い人影が見えた。長い白髪。白いワンピース。噂通りの白い娘だ。
――(……本当にいた)
心臓が跳ね上がった。怖いのではない。興奮だ。これは純粋な興奮だとウェイブは自分に言い聞かせた。
白い娘は窓の外を眺めているようだった。その視線がゆっくりと……こちらの方を向いた。
――(え)
目が合った。
いや、合ったように見えた。遠いのでよくわからない。でも確かに、白い娘の視線がこちらを向いた気がした。
――(……み、見られた? いや、木の陰に隠れてるから見えるはずが……)
ウェイブは咄嗟に木の陰に身を縮めた。心臓がドキドキしている。
――(こ、これは戦略的待機だ。俺は今、戦略的待機をしているだけだ。ふぅん……ふぅん……)
しばらく待ったが、何も起きなかった。
恐る恐る木の陰から顔を出すと、白い娘はもう窓からいなくなっていた。
――(……今日のところは、これで十分な情報収集ができた)
ウェイブは立ち上がって、颯爽と……いや、足早に森を出た。
* * *
【ネル視点】
アウラの視界が、木の陰に隠れた人影を捉えていた。
――(……また来た。しかも今日は中まで入ってきた)
ボクは廃墟の中央から、アウラを通じて人影を観察した。若い男だ。白と青の鎧。槍を持っている。騎士……いや、それにしては動きが素人くさい。怖気づいているのが遠目からでもわかる。
――(足跡の主はこいつか……)
アウラの視線を向けると、男がびくっと身を縮めた。見えているのかもしれないし、見えていないのかもしれない。でも怖がっているのは確かだ。
――(危険な相手ではなさそう……でも、油断はできない)
ボクは静かに考えた。
この男が王都に戻って「廃墟に本当に白い娘がいた」と報告したら、次はもっと多くの人間が来るかもしれない。騎士団が動く可能性もある。
――(厄介だ……本当に厄介だ)
でも今すぐどうすることもできない。アウラを使って脅かすことはできるが、それが逆に「廃墟に何かいる」という証拠になってしまう。
――(ここは静観するしかない……)
ボクがそう結論づけた頃、男は木の陰に隠れたまま動かなくなった。しばらくして、こそこそと森を出ていく背中が見えた。
――(……逃げた。今日のところは)
安堵と同時に、胸の奥に不安が残った。
この男は必ずまた来る。そしてその次は、もっと多くの人間を連れてくるかもしれない。
廃墟の窓際で、アウラが静かに立っていた。ボクを見ている。
――(……わかってるよ。考えないといけない)
ボクは手の中の白い石を握り締めた。ロイドがくれた、丸くて白い石だ。
平穏を守るために、何かをしなければならない。
でも、何を。
* * *
【王都・ザガン視点】
蒼雷魔法師団の執務室は、いつも薄暗かった。
ザガン・クロイスは山積みになった書類を横目に、細い指で羽根ペンを弄んでいた。仕事はしていない。考えているのだ。
正確には、「研究」をしていた。
「……くひひ」
小さな笑い声が執務室に響いた。
机の上に広げられた羊皮紙には、複雑な魔法陣が描かれていた。不老不死の研究。ザガンが何年もかけて積み上げてきた成果だ。あと少し。あと少しで、完成に近づく。
――(必要なのは、特殊な素材だ。それさえ手に入れば……)
そのとき、扉をノックする音がした。
「……入れ」
扉が開いて、若い魔法師団員が入ってきた。
「ザガン師団長。例の報告が届きました」
「ほう」ザガンは羽根ペンを置いた。「内容は?」
「はい。辺境の廃墟に関する件です。白い娘が目撃されているという噂が広まっておりまして……先日、蒼剣騎士団の一人が実際に現地を確認したようです。こちらの独自の情報筋からの報告ですが」
「……現地を」ザガンの目が細くなった。「確認した結果は?」
「白い娘の目撃を確認。他に何かいる気配もあったとのことです。詳細はまだ不明ですが」
「そうか……」ザガンは静かに呟いた。「ご苦労。下がっていい」
団員が部屋を出ていった。
ザガンはしばらく沈黙して、それからゆっくりと羊皮紙に視線を戻した。
――(白い娘……魔物も近づかない廃墟……)
情報としては断片的だ。でもザガンの研究者としての直感が、何かを感じ取っていた。
――(普通ではない何かが、あそこにいる。くひひ……)
「……面白い」
ザガンは呟いた。羽根ペンを手に取り、羊皮紙の端に小さく書き記す。
「廃墟の件、要調査」
執務室に、再び静寂が戻った。
蒼雷魔法師団長の目が、暗闇の中でかすかに光っていた。
* * *
【ネル視点・夕暮れ】
その日の夕方、ミネルバが廃墟に来た。
ボクが今日の出来事を身振りで伝えると、ミネルバの表情が険しくなった。
「……森の中まで入ってきたのか?」
頷く。
「騎士の格好をした若い男……蒼剣騎士団か、あるいは個人で動いているか」ミネルバが腕を組んだ。「どちらにしても、面倒なことになってきたな」
――(本当に……)
「アウラを見られたか?」
頷く。でも、逃げたことも伝えた。
「……逃げたなら、今日のところは問題ない。ただ」ミネルバがボクを見た。「次は引き返さないかもしれない。それだけじゃなく……騎士団に報告する可能性もある」
――(そうなったら……)
「最悪の場合、討伐依頼が出る」
その言葉が、廃墟の中に重く響いた。
――(討伐……やっぱり、そうなるのか)
ボクは視線を床に落とした。平穏を望んでいた。ただひっそり、廃墟の中で人形を作りながら生きていたかった。でも世界は、そう簡単にボクを放っておいてくれない。
アウラが静かにボクの隣に立った。白い手が、そっとボクの手に触れた……ように見えた。人形だからそんなことはできないはずだが。
――(……アウラ)
「……お前を守る」
ミネルバが静かに言った。
ボクは顔を上げた。
「騎士団が動くなら、俺が間に立つ。お前がただの人形じゃないことは、俺が一番よく知ってる。だから……任せておけ」
――(ミネルバ……)
その言葉が、じんわりと胸に染み込んだ。
声が出せたなら、何か言えたかもしれない。でも声はない。だからボクはただ、ゆっくりと深く頷いた。
「……ああ。任せとけ」
ミネルバがそれだけ言って、また地図を広げた。いつも通りの素っ気ない態度で。
でも、その横顔が少しだけ……穏やかに見えた。
廃墟の外で、夕暮れの風が木々を揺らしていた。
平穏を望む道化師の人形は、今日も廃墟の中央でただそこにいた。
その隣に、静かな仲間たちがいた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。ウェイブの次の行動は……そしてザガンが動き始めました。