廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
ある日の廃墟で、奇妙なことが起きた。
白と青の鎧を着た若い騎士が、廃墟に忍び込んできた。
そしてボクの前に膝をつき、白い手をそっと取り上げて――
「……麗しきマドモワゼル」
手の甲に、キスをした。
――(なんだ!?)
――(なんだ!?!?)
――(なんだこいつ!?!?!?)
ボクの内心は、かつてないほどの混乱に包まれた。
ボクは声が出ない。表情も変えられない。固定された笑みのまま、ただそこに座っているだけだ。
だから騎士には伝わらなかった。
ボクが、盛大に困惑していることが。
「ふぅん↑ いい出会いだった。また来る」
騎士は満足そうに立ち上がり、颯爽と廃墟を出ていった。
静寂が戻る。
――(……今、何が起きた)
これは、平穏を望む道化師の人形が、廃墟でひっそり暮らそうとする物語だ。
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静寂というものは、案外、心地よいものだ。
ベルンハルト王国の外れ、鬱蒼とした森の奥深くに、その廃墟はある。かつて何者かが住んでいたのか、あるいは礼拝堂か何かだったのか。石造りの壁は苔に覆われ、屋根の一部は崩れ落ち、窓枠には蔦が絡みついている。人の気配など、欠片もない。
普通の人間であれば、足を踏み入れることすら躊躇うような場所だ。
ボクは、そこが気に入っていた。
ぼんやりとした意識の中で、ボクは廃墟の中央に鎮座していた。正確には「鎮座」という言葉が正しいのかどうか、よくわからない。ボクの「本体」は、床の上に置かれた小さな人形に過ぎないのだから。
道化師の人形、とでも言えばいいだろうか。緑と黒のまだら模様の衣装を纏い、黒いシルクハットを被り、黒い顔に描かれた笑みは固定されたまま動かない。手足はひょろりと細く、半袖の袖口から伸びる腕は白い。カボチャパンツには黄色の縦線が走る。灰色の長い髪は顔の輪郭を覆い隠すほど密着していて、その隙間から黄色いガラス玉のような瞳だけが、薄暗い廃墟の中でひっそりと光を帯びていた。全体的にどことなく不気味な雰囲気を漂わせている。
――(うん。客観的に見ても、あまり愛らしい見た目ではないと思う)
でもまあ、いい。誰かに愛でてもらうために生きているわけじゃないし。
ボクがここで望むのは、ただひとつ。
平穏だ。
静かに、ひっそりと、誰にも気づかれずに暮らすこと。それだけでいい。前の世界では満員電車に揺られ、上司に怒鳴られ、休日はひとりで部屋に引きこもっていたボクだ。こんな廃墟の隅っこで、小さな人形を作りながら日々を過ごすというのは、むしろ理想的な余生と言えるのではないだろうか。
――(魔物と呼ばれているのは少し不本意だけど)
――(まあ、見た目からして仕方ないか……)
ボクは意識を、廃墟の隅へと向けた。
そこには少女がいた。
白い。それが第一印象だ。長く流れる白銀の髪、雪のように白い肌、そして虚ろなまでに白い瞳。清楚な白いワンピースを纏った、どこか儚げな印象の少女。年のころは十六、七といったところか。
彼女はボクの意識に気づいたのか、ぴくりと肩を震わせた。
「……あの、そろそろ、行って、きます……」
消え入りそうな声だった。語尾が空気に溶けていくような、そんな喋り方をする子だ。
ボクは何も言わない。言えない。この体に声帯はないし、口は固定された笑みのまま動かない。
でも、心の中では答えていた。
――うん。気をつけてね、アウラ。
アウラ、というのがボクの作った最初の人形の名前だ。とっさに思いついた名前だったけど、なんとなく彼女に似合っている気がして、そのままにした。
彼女はボクが紫の魔力糸で操る、ボクの「手足」であり「声」でもある存在だ。意思はなく、感情もない。ただボクの思うままに動く、精巧な人形。
でも彼女を通じて、ボクは世界と繋がっている。
アウラがぎこちない足取りで廃墟の出口へと向かう。今日の彼女の仕事は、街での買い出しと情報収集だ。ここに来て最初にボクが思ったのは「とにかく掃除しなければ」だった。この廃墟、本当にひどい有様で。蜘蛛の巣は張り放題、埃は積もり放題、床には名前もわからない植物が生えている始末。
――(生活環境くらいは整えたい。せめて……せめてそれくらいは……)
そのための道具を調達してもらっている。
アウラの姿が廃墟の外へと消えていった。
ボクはアウラの視界も同時に把握している。彼女が何を見て、どこを歩いているか、リアルタイムでわかる。だからアウラが街に出ていても、さほど心配はしない。
さて。
ボクは少し考えた。
アウラに任せるには難しい素材が、まだいくつか足りていない。人形を作るためには特殊な材料が必要で、そのいくつかは森の中に自生していることがわかっていた。アウラを通じて得た情報だ。
――(……自分で探しに行くか)
乗り気ではなかった。廃墟の外に出るのは、正直なところ怖い。もしも人間に見つかったら、それだけで討伐案件だ。「不気味な道化師の人形が森の中を歩いている」なんて、どう見ても魔物以外の何者でもない。
――(でも素材は必要だ。消去法で、行くしかない……)
ボクはそろりそろりと、廃墟の石床を這うようにして外へと向かった。人形の体で歩くというのは、なかなか独特の感覚だ。足が地面に触れるたびに、小さなコツコツという音が鳴る。
森の空気は、ひんやりとして清涼だった。
木々の隙間から差し込む光が、地面にまだら模様を作っている。鳥の声が遠くで聞こえる。風が葉を揺らす音がする。
――(……悪くない、かも)
ボクはそう思いながら、目当ての草を探して歩き回った。たしか紫がかった葉をした低木のはずだ。根元に特殊な樹脂が滲んでいて、それが人形の関節を滑らかに動かすのに使える。
十分ほど歩いたところで、それらしき植物を見つけた。
ボクがその根元に手を伸ばしかけた、そのときだった。
「うわああっ!」
藪の向こうから、人間の声がした。
ボクは固まった。
――(え。え? 人間? なんでこんなところに人間がいるの?!)
声は小さかった。高い。子どもの声だ。
しばらく様子を見ていると、藪をかき分けて一人の男の子が転がり出てきた。七歳か八歳くらいだろうか。ぼさぼさの茶色い髪に、泥だらけの服。膝に擦り傷を作りながら、きょろきょろと辺りを見回している。
その視線が、ボクに向いた。
沈黙が流れた。
少年は目を丸くして、ボクを見ている。ボクは動けないまま、少年を見ている。
ボクの内心は、嵐のようだった。
――(見つかった。人間に見つかった。どうする、どうする?! 逃げる? でも人形が逃げたら余計に怖い! ここで固まってたら「魔物発見!」ってなる?! 討伐されるの?! やだやだやだ平穏がっ……!)
「……にんぎょう?」
少年が、首を傾けた。
ボクの思考が止まった。
「にんぎょう……でも、おっきい」
少年の声には、恐怖ではなく、純粋な驚きがあった。ついで、好奇心の光が瞳に宿るのが見えた。
――(この子は……ボクを「魔物」ではなく「人形」だと思っている)
――(当たり前か。ボクはどこからどう見ても人形なのだから。でも普通、森の中で人形が一人で動いていたら警戒するものでは……?)
――(……子どもだから?)
「ねえ、にんぎょう。だれのにんぎょう?」
少年が近づいてくる。ボクは後退りしたかったが、パニックで操作が上手くいかなかった。
少年はしゃがみこんで、ボクと目線を合わせた。間近で見ると、鼻の頭に泥がついている。
「……まいご?」
――(それはこっちのセリフでは?)
ボクは少年をじっと見た。明らかに泥だらけで、方向感覚を失ったように藪から飛び出してきた。森に慣れていない子どもが一人でこんな奥まで入ってきたとなれば……。
ボクは少し考えて、ゆっくりと頷いた。
「うごいた!にんぎょうがうごいた!!」
――(うん、動くよ。魔物だから。いや言えないけど)
ボクは廃墟の方向へと身体を向け、ゆっくりと歩き出した。ついてくるよう促すように、一度振り返る。
「……ついてきていいの?」
頷く。
「やった!」
少年は嬉しそうに立ち上がり、ぱたぱたとボクの後ろを歩いてきた。その無防備さに、ボクは少し胸が痛くなった。
――(本当にいいのか、ついてきて。ボクは魔物なんだぞ……)
でも、放っておくわけにもいかない。
廃墟まで戻ると、アウラはまだ街から帰っていなかった。ボクは少年に、とりあえず安全な場所――石造りの腰掛けになる段差――に座るよう促した。少年は素直に座り、廃墟の中をきょろきょろと見回す。
「なんか、おばけやしきみたい」
――(そうだよ。だからひとりで入ってこないでほしい)
「でも、にんぎょうがいるから、こわくない!」
――(……それはそれで問題があると思うんだけど)
しばらくして、少年は廃墟の隅に置かれたボクの素材置き場――珍しい石や乾燥させた植物が並んでいる――をじっと見て、それからボクに視線を戻した。
「ねえ、にんぎょう。なまえ、あるの?」
ボクは首を横に振った。
「ないの?」
頷く。
「じゃあ……」
少年は少し考えるように上を向いて、それからにっこりと笑った。
「ネルは、どう? なんか、そんな感じがする!」
ボクは固まった。
――(ネル)
――(にんぎょう(人形)の「ネル」……)
――(この子、気づいてないのか?気づかずに付けてるのか?天才か?いや天才なのか?)
「ネルって呼んでいい?」
ボクはしばらく動けなかった。それから、ゆっくりと、頷いた。
「やった! ボクはロイド! よろしくね、ネル!」
少年――ロイドは、満面の笑みで手を差し出してきた。
ボクは小さな手を、自分の細い指先でそっと握った。
――(ネル、か)
――(……悪くない、かもしれない)
魔物に名前をつけてしまった少年は、何も知らないまま笑っている。
そして、平穏を望む魔物は、知らぬ間に最初の「縁」を結んでいた。
これが、ボクとこの世界の、本当の始まりだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。ネルの平穏な日々……はたして続くのでしょうか。