廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
【ウェイブ視点】
ミネルバという女は、怖い。
ウェイブは宿の部屋でそう結論づけた。あの目だ。斧を手に取ったときのあの目。「次に無断で入ったら騎士団に報告する」という静かな声。Bランクの冒険者というのは、ああいう目をするものなのか。
――(でも、俺は全然怖くなかったからな。ふぅん)
怖くなかった。断じて怖くなかった。
ただ……あの女はあの廃墟に出入りしている。つまり、あの麗しきマドモワゼルのことを知っている可能性が高い。
――(情報源として接触するのは、騎士として当然の判断だ。怖いとかそういう話ではなく、これは作戦だ。ふぅん↑)
ウェイブは立ち上がった。
今日こそ、あの冒険者に話しかける。
* * *
街の酒場でミネルバを見つけたのは、昼過ぎのことだった。
ミネルバは隅のテーブルでエールを飲んでいた。一人だ。書類のようなものを広げて、依頼の内容でも確認しているのだろう。
――(今だ……!)
ウェイブは深呼吸をして、颯爽と……いや、少し慎重な足取りで近づいた。
「よ、よう。昨日ぶりだな」
ミネルバがゆっくりと顔を上げた。
「……お前か」
たった三文字。でもその三文字に、これ以上近づくなという圧力が込められていた気がした。
――(ふ、ふぅん。俺は怯んでいない)
「少し話せるか?」
「……何の用だ」
「あの廃墟のことだ」ウェイブが椅子を引いて座ろうとした。
「座っていいとは言っていない」
ウェイブは立ったまま固まった。
――(座っていいとは言っていない……!?)
「……立ったまま話す」
「用件を言え」ミネルバがエールを一口飲んだ。忙しそうに書類に目を落とす。
「あの廃墟に住んでいる娘のことだ。お前は何者かを知っているだろう?」
ミネルバがしばらく書類を見たまま動かなかった。
「……知らない」
「嘘だろう」
「知らない」
「でもお前は廃墟に出入りして……」
「俺の依頼エリアだ。それだけだ」
――(これは……情報を出す気がない)
ウェイブは少し戦略を変えることにした。
「わかった。じゃあ聞き方を変えよう。あそこに住んでいるのは……危険な存在か?」
「危険じゃない」
「断言するのか?」
「ああ」
「でも魔物が近づかないのは……」
「俺が言ったことが聞こえなかったか」ミネルバがようやく書類から目を上げた。「危険じゃない。それ以上でも以下でもない」
その目を見て、ウェイブは何も言えなくなった。
――(この人……本当に怖い。ふぅん……ふぅん……)
「……もう一つだけ」ウェイブは絞り出すように言った。「あの娘の……名前を教えてくれないか」
ミネルバが少し目を細めた。
「……なんで名前を知りたい?」
「そ、それは……俺が……その……」
言えない。「麗しきマドモワゼルに一目惚れしたから」などとは口が裂けても言えない。
「……まあいい」ミネルバが再び書類に目を落とした。「名前は俺の口からは言えない。本人に聞け」
「本人に聞け……? でもあの娘は声が……」
「本人に聞け」
会話が終わった。完全に終わった。
――(……俺は完敗した。ふぅん)
ウェイブはしばらくその場に立ち尽くしてから、静かに酒場を出た。
外の風が頬に当たる。
――(名前を……本人に聞け、か)
ウェイブは空を見上げた。
――(つまり……また廃墟に行く必要があるということだ。ふぅん↑ 俺はそう解釈した。これは許可だ。解釈の余地がある)
足取りが少し軽くなった。
* * *
【ミネルバ視点】
ウェイブが去った後、ミネルバはエールを一口飲んだ。
――(厄介な奴だ……)
でも、悪い奴ではないとミネルバは思った。目が純粋すぎる。ネルに一目惚れしたのだろうということは、話し方を見ればわかった。隠せていると思っているのが騎士らしい。
――(「本人に聞け」か……俺も意地悪なことを言った)
ネルには声がない。本人に聞けるはずがない。
でも、だからこそ——ウェイブがどう動くかを見てみたかった気もする。
廃墟に無断で入るのは問題だ。でも……あの男がネルに害をなすとは思えなかった。
――(うまく付き合う方法か……)
ミネルバはもう一口エールを飲んで、書類に目を戻した。
今日の依頼はまだ終わっていない。
* * *
【王都・蒼雷魔法師団執務室】
ザガンは新しい資料に目を通していた。
机の上には、廃墟周辺の地図が広げられている。ロッシュからの報告書。Bランク冒険者の動向。廃墟の位置関係。
「……ロッシュには引き続き監視を任せる。だが、それだけでは足りない」
ザガンは羽根ペンを取り、地図に小さな丸印をつけた。廃墟から少し離れた、森の奥の一点。
「ここに、もう一つ駒を置こうか。くひひ……」
窓の外で、夕暮れの空が赤く染まっていた。
* * *
【ネル視点】
その日の夕方、ミネルバが廃墟に来た。
「今日、あの騎士に会った」
――(えっ)
「酒場で話しかけてきた。お前のことを聞こうとしていた」
――(やっぱり来た……)
「何も教えなかった。ただ……」ミネルバが少し間を置いた。「名前は本人に聞けと言った」
――(本人に……?)
ボクは自分を指差した。
「ああ、お前に」
――(ボクには声がないのに……)
「わかってる」ミネルバが静かに言った。「でも……あいつがどう動くか、見てみたかった」
――(どう動くか……)
「悪い奴じゃない。ただの馬鹿だ」
――(ただの馬鹿……それはそうかもしれない)
ボクは少し考えた。
ウェイブという騎士は、手柄目当てで廃墟に来た。でも今はそれだけじゃなくなっている気がする。名前を知りたいと思っている。それはどういうことだろう。
――(……面倒だ。本当に面倒だ)
アウラが静かにボクの隣に立った。白い瞳がこちらを向いている。
――(アウラ……お前はどう思う)
アウラは何も言わなかった。でもその表情が、いつもより少し……穏やかに見えた気がした。
――(……まあ、いい。当分はミネルバに任せよう)
廃墟の外で、夕暮れの風が木々を揺らしていた。
平穏を望む道化師の人形は、今日も誰かに振り回されていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。「本人に聞け」……ミネルバの意地悪な一言、ウェイブはどう動くのでしょうか?