廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい   作:糸守ものち

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十九話目です。あの騎士、懲りずに情報収集に動きます。


一章 第十九話「騎士と冒険者の、不毛な駆け引き」

 

 

【ウェイブ視点】

 

 ミネルバという女は、怖い。

 

 ウェイブは宿の部屋でそう結論づけた。あの目だ。斧を手に取ったときのあの目。「次に無断で入ったら騎士団に報告する」という静かな声。Bランクの冒険者というのは、ああいう目をするものなのか。

 

――(でも、俺は全然怖くなかったからな。ふぅん)

 

 怖くなかった。断じて怖くなかった。

 

 ただ……あの女はあの廃墟に出入りしている。つまり、あの麗しきマドモワゼルのことを知っている可能性が高い。

 

――(情報源として接触するのは、騎士として当然の判断だ。怖いとかそういう話ではなく、これは作戦だ。ふぅん↑)

 

 ウェイブは立ち上がった。

 

 今日こそ、あの冒険者に話しかける。

 

 

   *   *   *

 

 

 街の酒場でミネルバを見つけたのは、昼過ぎのことだった。

 

 ミネルバは隅のテーブルでエールを飲んでいた。一人だ。書類のようなものを広げて、依頼の内容でも確認しているのだろう。

 

――(今だ……!)

 

 ウェイブは深呼吸をして、颯爽と……いや、少し慎重な足取りで近づいた。

 

「よ、よう。昨日ぶりだな」

 

 ミネルバがゆっくりと顔を上げた。

 

「……お前か」

 

 たった三文字。でもその三文字に、これ以上近づくなという圧力が込められていた気がした。

 

――(ふ、ふぅん。俺は怯んでいない)

 

「少し話せるか?」

 

「……何の用だ」

 

「あの廃墟のことだ」ウェイブが椅子を引いて座ろうとした。

 

「座っていいとは言っていない」

 

 ウェイブは立ったまま固まった。

 

――(座っていいとは言っていない……!?)

 

「……立ったまま話す」

 

「用件を言え」ミネルバがエールを一口飲んだ。忙しそうに書類に目を落とす。

 

「あの廃墟に住んでいる娘のことだ。お前は何者かを知っているだろう?」

 

 ミネルバがしばらく書類を見たまま動かなかった。

 

「……知らない」

 

「嘘だろう」

 

「知らない」

 

「でもお前は廃墟に出入りして……」

 

「俺の依頼エリアだ。それだけだ」

 

――(これは……情報を出す気がない)

 

 ウェイブは少し戦略を変えることにした。

 

「わかった。じゃあ聞き方を変えよう。あそこに住んでいるのは……危険な存在か?」

 

「危険じゃない」

 

「断言するのか?」

 

「ああ」

 

「でも魔物が近づかないのは……」

 

「俺が言ったことが聞こえなかったか」ミネルバがようやく書類から目を上げた。「危険じゃない。それ以上でも以下でもない」

 

 その目を見て、ウェイブは何も言えなくなった。

 

――(この人……本当に怖い。ふぅん……ふぅん……)

 

「……もう一つだけ」ウェイブは絞り出すように言った。「あの娘の……名前を教えてくれないか」

 

 ミネルバが少し目を細めた。

 

「……なんで名前を知りたい?」

 

「そ、それは……俺が……その……」

 

 言えない。「麗しきマドモワゼルに一目惚れしたから」などとは口が裂けても言えない。

 

「……まあいい」ミネルバが再び書類に目を落とした。「名前は俺の口からは言えない。本人に聞け」

 

「本人に聞け……? でもあの娘は声が……」

 

「本人に聞け」

 

 会話が終わった。完全に終わった。

 

――(……俺は完敗した。ふぅん)

 

 ウェイブはしばらくその場に立ち尽くしてから、静かに酒場を出た。

 

 外の風が頬に当たる。

 

――(名前を……本人に聞け、か)

 

 ウェイブは空を見上げた。

 

――(つまり……また廃墟に行く必要があるということだ。ふぅん↑ 俺はそう解釈した。これは許可だ。解釈の余地がある)

 

 足取りが少し軽くなった。

 

 

   *   *   *

 

 

【ミネルバ視点】

 

 ウェイブが去った後、ミネルバはエールを一口飲んだ。

 

――(厄介な奴だ……)

 

 でも、悪い奴ではないとミネルバは思った。目が純粋すぎる。ネルに一目惚れしたのだろうということは、話し方を見ればわかった。隠せていると思っているのが騎士らしい。

 

――(「本人に聞け」か……俺も意地悪なことを言った)

 

 ネルには声がない。本人に聞けるはずがない。

 

 でも、だからこそ——ウェイブがどう動くかを見てみたかった気もする。

 

 廃墟に無断で入るのは問題だ。でも……あの男がネルに害をなすとは思えなかった。

 

――(うまく付き合う方法か……)

 

 ミネルバはもう一口エールを飲んで、書類に目を戻した。

 

 今日の依頼はまだ終わっていない。

 

 

   *   *   *

 

 

【王都・蒼雷魔法師団執務室】

 

 ザガンは新しい資料に目を通していた。

 

 机の上には、廃墟周辺の地図が広げられている。ロッシュからの報告書。Bランク冒険者の動向。廃墟の位置関係。

 

「……ロッシュには引き続き監視を任せる。だが、それだけでは足りない」

 

 ザガンは羽根ペンを取り、地図に小さな丸印をつけた。廃墟から少し離れた、森の奥の一点。

 

「ここに、もう一つ駒を置こうか。くひひ……」

 

 窓の外で、夕暮れの空が赤く染まっていた。

 

 

   *   *   *

 

 

【ネル視点】

 

 その日の夕方、ミネルバが廃墟に来た。

 

「今日、あの騎士に会った」

 

――(えっ)

 

「酒場で話しかけてきた。お前のことを聞こうとしていた」

 

――(やっぱり来た……)

 

「何も教えなかった。ただ……」ミネルバが少し間を置いた。「名前は本人に聞けと言った」

 

――(本人に……?)

 

 ボクは自分を指差した。

 

「ああ、お前に」

 

――(ボクには声がないのに……)

 

「わかってる」ミネルバが静かに言った。「でも……あいつがどう動くか、見てみたかった」

 

――(どう動くか……)

 

「悪い奴じゃない。ただの馬鹿だ」

 

――(ただの馬鹿……それはそうかもしれない)

 

 ボクは少し考えた。

 

 ウェイブという騎士は、手柄目当てで廃墟に来た。でも今はそれだけじゃなくなっている気がする。名前を知りたいと思っている。それはどういうことだろう。

 

――(……面倒だ。本当に面倒だ)

 

 アウラが静かにボクの隣に立った。白い瞳がこちらを向いている。

 

――(アウラ……お前はどう思う)

 

 アウラは何も言わなかった。でもその表情が、いつもより少し……穏やかに見えた気がした。

 

――(……まあ、いい。当分はミネルバに任せよう)

 

 廃墟の外で、夕暮れの風が木々を揺らしていた。

 

 平穏を望む道化師の人形は、今日も誰かに振り回されていた。

 




最後まで読んでいただきありがとうございます。「本人に聞け」……ミネルバの意地悪な一言、ウェイブはどう動くのでしょうか?
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