廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
【ウェイブ視点】
本人に聞け。
ミネルバにそう言われた。でも……あの娘には声がない。どうやって聞けというんだ。
――(ふぅん。普通ならここで諦めるところだが……俺は普通じゃない。俺ほどの騎士なら、声がなくても意思疎通ができるはずだ。ふぅん↑)
ウェイブは廃墟の前に立っていた。今日こそ、正面から話しかける。今度こそ、ちゃんと許可を得てから入る。
深呼吸。
「……入っていいか?」
廃墟の中に向かって、大きな声で言った。
しばらく沈黙が続いた。
それから、廃墟の扉がゆっくりと……何かに押されるように、少し開いた。
――(開いた……! これは入っていいということだ! ふぅん↑)
ウェイブは慎重に廃墟の中に入った。
* * *
【ネル視点】
――(なんで開けてしまったんだ、ボクは)
ボクは廃墟の中央に座ったまま、ウェイブを見ていた。
「入っていいか」と聞かれた。反射的にアウラで扉を少し開けてしまった。どうしてそうしたのか、自分でもよくわからない。
――(面倒だからさっさと終わらせようということにしておこう)
ウェイブが廃墟の中央に来た。膝をついて、ボクと目線を合わせた。
「……今日は何もしない。ただ話しかけたいだけだ。ふぅん」
――(何もしない、ね……前回は手の甲にキスしてきたが)
「俺はウェイブ。蒼剣騎士団の騎士だ。お前の名前を……聞いていいか?」
――(名前……)
ボクは少し考えた。
声は出ない。ジェスチャーで伝えるのは難しい。でも……ミネルバが「悪い奴じゃない」と言っていた。ロイドたちにも名前を教えた。名前くらいなら、いいかもしれない。
ボクはゆっくりと、指で宙に文字を書いた。
「ね……る?」
ウェイブが目を丸くした。
「ネル……という名前か?」
頷く。
「ネル……」ウェイブが呟いた。その声が、妙に嬉しそうだった。「いい名前だな」
――(ロイドがつけてくれた名前だ)
「俺のことは……ウェイブと呼んでくれ。まあ、ネルには声がないから呼べないか。ふぅん」
――(そうだよ)
少しの沈黙。
「……ここに一人で住んでいるのか?」
首を横に振る。
「誰かいるのか?」
アウラの方向に視線を向けた。アウラが窓際に立っている。
「あ……白い娘。ネルの仲間か?」
少し考えてから、頷く。
「そうか……」ウェイブが立ち上がった。「今日はこれだけだ。……また来ていいか?」
――(来ていいとは言ってない)
でもボクは……なぜか、首を横には振らなかった。
ウェイブがそれを「拒否されなかった」と解釈したのは、顔を見ればわかった。
「……ふぅん↑ また来る」
ウェイブが颯爽と廃墟を出ていった。
――(なんで拒否しなかったんだ、ボクは)
アウラが窓からウェイブの去っていく方向を見ていた。その横顔が、やっぱり少し……穏やかに見えた。
――(……アウラ、お前もか)
ボクはため息をついた。出ない息だが。
* * *
【ウェイブ視点】
宿に戻りながら、ウェイブは今日の出来事を反芻していた。
名前を教えてもらった。ネル。
声はない。でも、ちゃんと伝えてくれた。指で宙に文字を書いて。
――(……不思議な娘だ)
美しい顔立ちとか、儚げな雰囲気とか、そういう話ではなく。
声がなくても、ちゃんと伝えようとしてくれた。拒否もしなかった。
――(ふぅん……ネル、か)
その名前を心の中で繰り返した。
なんだろう、この感覚。手柄とか出世とか、そういう話ではない何かが、胸の中にある。
――(……俺としたことが)
ウェイブは空を見上げながら、また来ようと決めた。
今度は……もう少しちゃんと話しかけられる方法を考えてから。
* * *
【ネル視点・夜】
ミネルバが来た。
「今日、またあの騎士が来たか?」
頷く。
「……何をしていった」
ボクは名前を教えたことを、身振りで伝えた。
ミネルバが少し目を細めた。
「お前が自分から名前を教えたのか」
頷く。
「……そうか」
しばらくの沈黙。
「追い払わなくていいのか?」
少し考えてから……首を横に振った。
「わかった」ミネルバが静かに言った。「俺は何も言わない。お前が決めることだ」
――(ありがとう、ミネルバ)
アウラが窓際の花に水をやっていた。今日も静かに、ちゃんと咲いている。
平穏を望む道化師の人形は、今日も少しだけ……自分でも気づかないうちに、何かが変わっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。ネルが拒否しなかった理由……本人もわかっていないみたいですね?