廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
【ザガン視点】
準備が整った。
ザガン・クロイスは執務室の窓から夜の王都を見下ろしながら、静かにそう確認した。ロッシュからの報告。白い娘とBランク冒険者。魔物も近づかない廃墟。そして……普通ではない何か。
これだけの情報が揃えば、次の手を打つのに十分だ。
「くひひ……」
ザガンは振り返り、執務室の中央に立つ二人の人物を見た。
一人は黒いローブの若い魔法師、もう一人は同じく黒いローブの中年の魔法師。どちらも蒼雷魔法師団の精鋭だ。
「君たちには、廃墟の調査を直接行ってもらいたい」
「……直接、でございますか」若い方が確認した。「ロッシュが監視していたのでは?」
「ロッシュの仕事は監視だ。君たちの仕事は……もう少し踏み込んだ調査だよ。くひひ」
二人が顔を見合わせた。
「廃墟の中に、何があるのか。誰がいるのか。それだけでいい。くれぐれも……直接手を出すことはしないように」
「……理由を、お聞きしてもよろしいですか」中年の方が慎重に聞いた。
「まだ価値が分からないからだよ」ザガンが静かに言った。「壊してしまってからでは遅い。まず……何があるのかを知る。それからだ」
二人が頷いた。
「明日の夜、動いてくれたまえ。くひひ……」
* * *
【ネル視点・翌夜】
何かがおかしい。
アウラの視界で廃墟の周辺を確認していたボクは、それをはっきりと感じた。
いつもの監視者とは違う。今夜は二人だ。しかも動きが違う。あの男は木の陰から観察するだけだった。でも今夜の二人は……じわじわと、廃墟に近づいてきている。
――(……まずい)
ボクは素早く考えた。
ミネルバは今夜いない。今日は遠い場所への依頼で、朝から出ていった。戻るのは明日だ。
アウラはいる。でもアウラは戦闘向きではない。
ボクの力は……紫の糸だ。
――(使うか……?)
二人の人影が、廃墟の外壁に近づいてきた。
ボクは決意した。
指先から、紫の糸を伸ばした。
廃墟の外、二人の人影の足元。地面に転がっていた小石が、糸に引かれてかすかに動いた。
二人が足を止めた。
「……今、何かが動いたか?」
「……見間違いじゃないか」
「でも……」
もう一度、糸を動かした。今度は廃墟の壁に絡まった蔦が、風もないのにかすかに揺れた。
二人が顔を見合わせた。
「……これは」
「何かいる」
二人の呼吸が変わった。魔法師として気配に敏感な彼らが、普通ではない何かを感じ取っていた。
――(そうだ……怖がらせる必要はない。ただ……ここには何かいると思わせればいい)
廃墟の奥から、アウラを窓際に立たせた。白い髪。白い瞳。暗闇の中で、ぼんやりと光るような白さ。
二人が息を呑んだ。
「……」
「……帰ろう」
声もなく、二人が後退し始めた。そのまま、森の中へ消えていった。
――(……行った)
ボクは糸を収めた。
全身が、じわりと疲れた。糸を長距離で動かすのは、思った以上に力がいる。
アウラが窓から離れて、ボクの隣に立った。
「……お疲れ様でした、ネル様……」
――(ありがとう、アウラ)
でも、ボクの胸の中に重いものが残った。
――(これで終わりじゃない……ザガンは、また次の手を打ってくる)
紫の糸で追い払えたのは、今夜だけかもしれない。相手が本気で動けば、ボクの力では……
――(……ミネルバに話さないといけない)
廃墟の外で、夜風が木々を揺らしていた。
平穏を望む道化師の人形は、初めて自分の力を使って、廃墟を守った。
でも、その勝利はひどく……心許なかった。
* * *
翌朝、依頼から戻ったミネルバに、ボクは身振りで昨夜のことを伝えた。
ミネルバはしばらく黙って聞いていた。それから静かに言った。
「……お前一人でか」
頷く。
「……よくやった」
たった一言だった。でもボクの胸の奥が、じんわりと温かくなった。
――(ありがとう、ミネルバ)
ミネルバがいつものように腕を組んで、廃墟の外を見た。
「ただ……次は一人で抱え込むな。何かあったら俺を呼べ。いいな」
頷く。
「……ああ。任せとけ」
廃墟の外で、朝の光が木々の隙間から差し込んでいた。
平穏を望む道化師の人形は、今日も誰かに支えられていた。
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