廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
【ネル視点】
ミネルバが帰ってきた。
いつも通りの豪快な足音。依頼から戻ってきた顔だ。斧を肩に担いで、廃墟の入り口から入ってくる。
「ただいま。今日の依頼は終わった」
ボクは頷いた。
そして……昼間のことを伝えるべきか、少し迷った。
――(ザガンが来て、結晶をもらった。また来ると言っていた)
言わないわけにはいかない。ミネルバには話す必要がある。
ボクはゆっくりと、昼間のことを身振りで伝え始めた。ザガンが来て、穏やかな対応で結晶をくれたこと。また来ると言っていたこと。
ミネルバの表情が、少しずつ変わっていった。
「……黒いローブ」
頷く。
「穏やかだった?」
頷く。
「結晶を……くれた」
頷く。
「また来ると」
頷く。
ミネルバが静かになった。
しばらくの沈黙。
「……それ、ザガンじゃないか?」
頷く。
「……名乗ったのか?」
頷く。
「知ってて……受け取ったのか?」
頷く。
ミネルバがため息をついた。深い、深いため息だった。それから静かに斧を床に置いた。
「……ネル」
ボクを見る目が、いつもと違った。
「俺はあいつを警戒しろと言ったはずだ」
――(……うん)
「あいつは本気だと言っただろう? 直接動くつもりだとも言ったはずだ……」
――(……うん)
「それを聞いていて……なぜ受け取った」
ボクは何も言えなかった。言える声がないのは関係なく、答えが出なかった。
結晶が欲しかった。一度だけなら大丈夫だと思った。でもそれは言い訳だ。
ミネルバがしばらくボクを見ていた。
それから、大きく息を吐いた。
「……怒っているわけじゃない」
――(え?)
「いや、怒ってる。怒ってるが……お前を責めたいわけじゃない」
ミネルバが廃墟の壁に背をもたせかけた。
「俺の説明が足りなかったんだ。『警戒しろ』だけじゃ足りなかった。ザガンがどれだけ危険な奴かを、もっとちゃんと伝えるべきだった」
――(ミネルバ……)
「次にあいつが来たら……すぐ俺に知らせろ。いいな」
頷く。
「話しかけられても……できる限り無視しろ。難しければアウラで追い払え」
頷く。
「結晶は……使うな。捨てろとは言わないが、使うな。あいつが何かを仕込んでいる可能性がある」
――(そんな……)
ボクは手の中にある黒紫色の結晶を見た。
欲しかった。ずっと欲しかった。でも……ミネルバの言葉が、重くのしかかった。
「……ネル」ミネルバが静かに言った。「お前は騙されやすい。それはお前の優しさだと思う。でも今は……それが危ない」
――(……わかってる)
「俺がついてる。クロウもいる。一人で判断しなくていい」
その言葉が、胸の奥に染みた。
アウラが静かにボクの隣に立った。白い瞳がこちらを向いている。
――(ありがとう、ミネルバ)
ミネルバが斧を拾い直した。いつもの顔に戻っていた。
「……飯でも食うか。今日は疲れた」
――(……うん)
ミネルバが廃墟の奥へ向かう前に、ボクは手の中の黒紫色の結晶を見た。
それから静かに立ち上がって、廃墟の奥へ向かった。素体の近く……見えにくい場所に、そっと置いた。
使わない。ミネルバの言う通りだ。
――(……いつか、安全だと分かったら)
廃墟の外で、夕暮れの風が木々を揺らしていた。
平穏を望む道化師の人形は、自分の甘さを、静かに噛み締めていた。
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