廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
【ウェイブ視点】
ザガンが静かに右手を振り下ろした。
その瞬間、黒ローブの魔法師団員たちが一斉に動いた。
詠唱の声がいくつも重なる。空気がぴりぴりと震えた……膨れ上がる魔力の気配に、ウェイブの背筋が凍りついた。
――(来る……!)
正面の団員が踏み込んできた! 掌の上に黄色い火球が膨らんでいる……
「ひっ……!」
情けない声が漏れた。剣を構えるのが精一杯だった。火球が放たれる。とっさに体をひねった――熱が頬をかすめ、背後の地面が爆ぜて土煙が舞った。
――(あ、危なかった……ほんとに死ぬかと思った……!)
腰が抜けそうになる。それでも足だけは、かろうじて廃墟の入り口に踏みとどまっていた。
その横を。
赤い影が……恐ろしい速度で駆け抜けた。
「邪魔だ」
ミネルバだった。
大斧が、唸りを上げて振り抜かれる。火球を放った団員が二人まとめて宙を舞った……受け身も取れずに地面へ叩きつけられる。たった一振り。たった一振りで、だ。
「【烈斧】」
低い声が、廃墟の前に響いた。
――(……つ、強……)
ウェイブは、思わず息を呑んだ。
知っていた、つもりだった。ミネルバが強いことなど、とっくに。でも、それを「言葉」で知っているのと、目の前で「見る」のとは、まるで違った。
大柄な体が、信じられない速さで地を蹴る。斧が振られるたびに、団員が吹き飛ぶ。並みの騎士より強いはずの魔法師団員が、彼女の前ではまるで案山子のようだった。
――(俺は……何を、勘違いしてたんだ……)
自分が「Bランクぐらいはある」と思っていたことが、今は、ただ恥ずかしかった。
* * *
【ザガン視点】
ザガンは動かなかった。
部下が吹き飛ばされていくのを、穏やかな顔で眺めている。慌てる様子も、苛立つ様子もない。ただ……観察している。研究者が、実験の経過を見るように。
――(一人で、よく支えるものですね。さすがはBランク上位、といったところでしょうか)
けれど、ザガンは焦らない。
――(ですが……数は、二十。彼女は、一人。崩れるのは時間の問題です)
その視線が、ふと、廃墟の入り口へと向いた。
剣を構えたまま、震えている若い騎士。戦力には、数えていない。あんな男一人、戦況に何の意味も持たない。
ザガンの興味は、ただ一点だけだった。
――(なぜ、逃げないのでしょうね)
実力差は、本人が誰より理解しているはずだ。ここに残ったところで、何もできず、ただ死ぬだけ。それなのに――あの男は、退かない。
「……逃げても、構わないのですよ」
ザガンは、穏やかに声をかけた。戦場には不釣り合いなほど、優しい声で。
「あなた一人がここで朽ちたところで、誰も責めはしません。さあ……今のうちに」
逃げ道を、そっと差し出した。
* * *
【ウェイブ視点】
――(逃げて、いい……?)
その言葉が、甘く耳に絡みついた。
逃げていい。誰も責めない。当然だ。俺はDランク……いや、それ以下かもしれない。ここにいたって、何の役にも立たない。ミネルバの戦いを見ただろう。あれが「本物」だ。俺なんて、いてもいなくても同じだ。
足が、半歩、後ろに下がりかけた。
――(……いや)
廃墟の奥に、ネルがいる。
震える剣の柄を、握り直した。
「……断る」
声が、掠れた。それでも、言い切った。
「ふぅん……俺はさ、逃げ足だけは速いんだよ。逃げようと思えば、いつだって逃げられる。……でも、今は逃げない。それだけだ」
嘘だ。逃げ足が速いなんて、真っ赤な嘘だ。本当は、足が竦んで、一歩も動けないだけだ。
でも――退かない理由だけは、嘘じゃなかった。
ザガンが、目を細めた。
「……ほう」
それきり、何も言わなかった。
ただ、じっと、ウェイブを見ている。
値踏みするように。観察するように。
* * *
【ネル視点】
廃墟の奥で、ボクはアウラの視界を通して、すべてを見ていた。
ウェイブが、震えながら立っている。
逃げ道を差し出されて、それでも、断った。腰が引けて、剣先がぶれて、いつものくっさいナルシストの面影なんて、どこにもない。ただ怖がっている、一人の人間がそこにいた。
それでも、逃げなかった。
――(……ウェイブ)
――(バカだ。本当に、バカだ。逃げていいって、言われたのに)
――(勝てないって、自分が一番わかってるくせに)
ボクは、これまでウェイブのことを「迷惑な勘違い騎士」だと思っていた。手柄目当てで近づいてきて、勝手に勘違いして、ふぅんふぅんと格好をつける、ただのナルシスト。
でも。
――(……でも)
ボクの中で、その認識が、静かに揺れた。
ボクは廃墟の奥の素体に視線を戻した。黒髪の、刀を腰に差した人形。まだ目を閉じている。まだ、魔力が満ちていない。
――(あと少し……あと、少しなのに……!)
指先から紫の糸を伸ばし、素体の核へと魔力を注ぎ込む。けれど、焦れば焦るほど、糸はうまく流れてくれない。
――(間に合って……お願いだから、間に合って……!)
アウラが、そっとボクの傍らに寄り添った。
白い瞳が……ボクと、外の戦いを交互に見ている。
――(……心配、してるのか?)
そう思いかけて、ボクはまた、その問いを呑み込んだ。
今はそれどころじゃない。
* * *
【ミネルバ視点】
斧を振るいながら、俺は奥のことを考えていた。
あの臆病で、お人好しで、放っておけない道化師の人形。ネル。あいつは今、必死で何かを作っている。なら、俺がやることは一つだ。
――(あの人形に……ネルに指一本触れさせるかよ!)
「【炎纏い】」
斧の刃が、轟と炎を纏う。橙の炎が、薄暗い森を赤く照らした。
立ち塞がる団員たちが、ぎょっと足を止める。その隙に、斧を横薙ぎに振り抜いた。
「【回転斬】ッ!」
炎を纏った刃が、円を描いて薙ぎ払う。三人、四人――まとめて吹き飛んだ。悲鳴と、焦げた匂い。前衛が一気に崩れた。
時間を稼ぐ、なんて生ぬるいことじゃない。ここで、全部叩き潰す。
それが、俺の流儀だ。
だが――
崩したそばから、後ろの列が前に出てくる。倒しても、倒しても、湧いてくる。二十人。数の壁は、思ったよりも厚い。
一人を倒す間に、二人が脇をすり抜けようとする。それを潰しに動けば、また別の方向が空く。
――(……多いな、さすがに)
額に、汗が滲んだ。
その視界の端で――あの騎士が、まだ立っていた。
団員に追い詰められ、剣でかろうじて受け、よろけ、それでも入り口の前から動かない。一歩も。
――(……あいつ、まだ逃げてねえのか)
正直、驚いた。とっくに逃げ出していると思っていた。役に立ってはいない。立ってはいないが――あの場所を塞ぎ続けているせいで、団員の何人かが、あいつに気を取られている。
その分だけ、俺の背中が軽い。
――(……上等だ。なら、こっちも遠慮はいらねえ)
俺は斧を握り直した。
* * *
【ザガン視点】
ザガンは、その一部始終を静かに見ていた。
赤髪の冒険者が、たった一人で戦線を支えている。震える騎士が何度倒れかけても……入り口を離れない。
何度も、何度も。
やがてザガンは、小さく息を吐いた。長い実験の結果を、書き留めるように。
「……なるほど。勇気は――本物のようですね」
穏やかな声が、誰に届くでもなく……戦場に溶けた。
そして、ザガンは杖を持ち上げた。
赤い宝石が鈍い光を帯び始める。
その気配を察したのだろう。斧を振るうミネルバの視線が、鋭くこちらを向いた。「動かなかった男」が、ついに動こうとしている――そう見抜いた、鋭い目だった。
――(ええ。よく気づきました、ミネルバ殿)
ザガンは、穏やかに微笑んだ。
――(ですが……その数の壁を抜けて、私のところまで辿り着けますか?)
――(あの奥に、私の探し物がある。不老不死の、最後の鍵が。……手間を、かけさせないでくださいね。くひひ)
杖の先で、雷光がぱちりと爆ぜた。
平穏を望む道化師の人形は………廃墟の奥で、ただ必死に糸を紡いでいる。
ザガンは知らない。
その糸が今、形づくろうとしているものが――やがて己を討つことになる、一体の人形だということを。
その完成と、ザガンの一撃。
……どちらが先か……?
王都の朝に轟いた静かな雷鳴が――今、廃墟の森にも、忍び寄ろうとしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。廃墟はどうなってしまうんでしょうね?