廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
【アウラ視点】
戦いの音が、止んでいた。
廃墟に静けさが戻ってくる……土埃が、ゆっくりと舞い降りていく。
わたしは廃墟の奥にいた。
床に、ネル様が倒れている。小さな体を丸めて……ぴくりとも動かない。
わたしはその傍らに、膝をついていた。
「……ネル様」
呼びかけても、返事はない。
魔力を使い果たしてしまったのだ。あの黒い髪の人形――ヒナタ様を動かすのに、ネル様は、自分の力をすべて注いでしまった。
――(……ネル様の気配は……まだ、ある)
ほんのわずかに……いつもの、ネル様の魔力の気配が残っている。それを感じてわたしは、ほっとした。
……あれ。
ふと、わたしは思った。
ネル様は気を失っている。
なのに――わたしは、どうして…………動いているのだろう?
ネル様の糸が、わたしたちを動かしている。それは知っている。なのに……その糸を操るネル様が倒れているのに……わたしの手は、足は、ちゃんと動いている。
……不思議。
でも、今はそれより……。
「……ネル様。早く、目を、覚まして……」
わたしはネル様の小さな手を、そっと握った。
* * *
ざり、と。
足音が近づいてきた。
顔を上げると――ミネルバ様だった。
全身傷だらけ。赤い髪が、汗で頬に張りついている。その腕には――崩れ落ちた、ヒナタ様を抱えていた。
ヒナタ様はもう動かない。さっきまで、あれほど鮮やかに……華麗に刀を振るっていたのに。今は……ただの動かない人形。糸が切れてしまったから。
「……おい」ミネルバ様が、静かに言った。「そいつ……ネルは無事か?」
「……はい」わたしは頷いた。「魔力を使いすぎて……気を失っているだけ……です」
「そうか」
ミネルバ様は、ヒナタ様をそっと床に横たえた。それから、わたしをじっと見た。
その目が……何かを確かめるように細められる。
「なあ。さっき、あの黒髪が……自分で言ったんだ。『ネルに作られた、戦闘用人形だ』ってな」
わたしの心臓が――心臓なんて、ないはずなのに。きゅっと、なった。
「……お前も、なのか?」ミネルバ様が言った。「お前も……人形なのか? アウラ」
……。
わたしは、すぐには答えられなかった。
でも――嘘は、つけない。
「……はい」
小さく頷いた。
「わたしは……ネル様が作ってくださった……人形です」
* * *
ミネルバ様は、驚いた様子はなかった。ただ、静かに頷いた。
けれど――次の瞬間、その眉が、ふっと寄せられた。
「……待てよ」
ミネルバ様が、横たわるヒナタ様と、わたしを見比べた。
「こいつは……ネルが倒れた途端、糸が切れて崩れた。そして動かなくなった」
「……はい」
「なのにお前は」ミネルバ様の声が低くなる。「ネルが気を失ってるのに……なんで動けているんだ?」
――(……っ)
わたしは、答えられなかった。
だって――わたしにも、分からないから。
ネル様はいつも言っていた。
お前たちに意思はない。心はない、と。
だから……わたしも、そう思っていた。わたしは、ただの人形。ネル様の糸で動くだけの、空っぽの器。心なんて、あるはずがない。
なのに――。
今、わたしは、糸もないのに、動いている。
ネル様が心配で……倒れたネル様を放っておけなくて。早く目を覚ましてほしくて。一人に、したくなくて。
……この気持ちは、なに?
胸の奥が、ぎゅっとする、この感じ。ネル様の手を握ると、温かくなる、この感じ。これは――心がないと……生まれないものではないの……?
……分からない。
わたしには、何も、分からない。
「……わかりません」
わたしは、正直に言った。
「わたしにも……どうして動けているのか、分からないんです。ただ……ネル様を、放っておけなくて……気づいたら、動いて、いました」
* * *
ミネルバ様は、しばらく黙っていた。
わたしを、じっと見て。それから、倒れているネル様を見て。
その沈黙が、怖かった。
……ううん。違う。怖いのは……沈黙じゃない。
わたしは――ひとつだけ、どうしても伝えたいことがあった。理由はわからない。でも、これだけは言わなきゃいけない……そう、思った。生まれて初めて……こんなに強く、何かを思った。
「……あの」
わたしは声を絞り出した。
「お願い、です……ミネルバ様」
「……ん?」
「このことは……わたしが、こうして動けることは……ネル様には言わないでください」
ミネルバ様の目が、見開かれた。
「……なんでだ?」
なんで。――そう聞かれても。
「……わかりません」
わたしは、首を横に振った。
「でも……なんだか、怖いんです。ネル様が知ったら困る気がして……悲しむ気がして。……うまく言えなくて、ごめんなさい。でも……お願いします」
消え入りそうな声で。それでも、必死に。
わたしは頭を下げた。
* * *
ミネルバ様は、わたしを見つめていた。
その橙色の目が――ふっと、和らいだ。
「……わかった」
ミネルバ様は言った。
「言わねえよ。約束する」
「……っ、ありがとう、ございます」
「礼はいい」ミネルバ様が頭をかいた。「正直、俺にもよくわからん。お前が人形だってのも、なんで動けるのかも。……でもな」
ミネルバ様は、横たわるネル様を見た。
「お前がこいつを心配してるのは……本物だ。それだけはわかる。だったら、それで十分だろ」
* * *
……ああ。
この人は。
ミネルバ様は、本当に優しい……。
わたしはもう一度、頭を下げた。胸の奥が、また温かくなる。この……名前もわからない気持ちが、じんわりと広がっていく。
ミネルバ様は、それ以上何も聞かなかった。倒れているウェイブ様のところへ歩いて行って、「おい、生きてるか?」と、その肩を揺すっている。ウェイブ様は気を失っているだけみたい。少し離れた場所には、あの恐ろしい男――ザガンも倒れたまま。でも、今はもう誰も襲ってこない。
戦いは終わったのだから。
わたしは、ネル様のそばに座り直した。
眠っているネル様の顔は、いつもの固定された笑み。黄色いガラス玉の瞳は、閉じられない。でも、わたしにはわかる。今、この人はただ静かに眠っている。守り切って……力尽きて。
わたしは、その小さな手をもう一度握った。
「……ネル様」
返事はない。
「早く……目を、覚ましてください」
わたしのこの気持ちがなんなのか。
わたしには、まだ、分からない。
でも――この想いだけは、ネル様には内緒。
わたしだけの、小さな秘密。
――(だって……ネル様を困らせたくないから)
窓から差し込む光が、眠るネル様を、そっと照らしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。アウラとミネルバと……読者のみなさんだけが知る、ちいさな秘密。この種が、いつか芽を出す日が来るかもしれません。