廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
ミネルバが去った翌日、ボクは廃墟の掃除をしていた。
正確にはアウラが掃除をしていて、ボクはそれを眺めていた。昨日ようやく調達できた掃除道具を使って、アウラがぎこちない手つきで床の埃を払っている。モップを持つ手が少し不安定で、壁にぶつかりそうになるたびにボクは魔力糸で微調整する。
――(もう少し右……そう、そこ。うん、上手い)
誰に言うわけでもないが、心の中で声をかけてしまう。意思のない人形に向かって。我ながら妙な習慣だと思う。
廃墟は少しずつ、人が住める場所に近づいていた。
蜘蛛の巣は払い、床の植物は取り除き、崩れた石は隅に積み上げた。完璧とは言えないが、少なくとも足の踏み場はある。窓枠の蔦は……まあ、これはこれで趣があるので残しておくことにした。
――(そういえば、ミネルバはまた来るのだろうか)
昨日の女冒険者のことを思い出す。「今日のところは見逃してやる」と言っていた。「今日のところは」という言葉が引っかかっている。つまり、また来る可能性があるということだ。
――(来てほしくないけど……来ないとも言い切れないな)
ボクは複雑な気持ちで考えた。ミネルバは今のところ敵ではない。でも味方とも言えない。糸が見える実力者で、ボクの存在を知っている。それは脅威でもあり、あるいは……。
そこまで考えたところで、廃墟の外から足音が聞こえた。
小さい。軽い。子どもの足音だ。
――(来た……やっぱり来た……!)
「ネルー! いるー?!」
ロイドだった。
元気な声が廃墟の石壁に反響する。ボクはアウラに入り口へ向かわせながら、自分も廃墟の奥からゆっくりと出ていった。
入り口に、ロイドが立っていた。今日は昨日よりも泥が少ない。ちゃんと道を覚えてきたらしい。
「いた! ネルだ!」
ロイドが駆け寄ってくる。ボクの前でしゃがみ込んで、顔を覗き込む。
「ねえねえ、昨日お母さんにおこられた。でも来ちゃった」
――(来ちゃったじゃないよ……)
「ネルのこと、お母さんに話したら、もりにはいっちゃいけませんって言われた。でも来ちゃった」
――(お母さんの言うことを聞いてください……)
ボクは首を横に振った。「来てはいけない」という意味を込めて。
ロイドは首を傾けた。
「もどれってこと?」
頷く。
「……でも、ネルのことが気になって」
――(気になるのはわかるけど……)
「ねえ、ネルはここにずっといるの?」
頷く。
「ひとり?」
ボクはアウラを指し示した。アウラがロイドを見下ろしている。
「あ、この子もいるか」ロイドはアウラを見上げた。「おねえちゃん、なまえは?」
「……あの、わたしは、アウラ、といいます……」
「アウラおねえちゃん! ボクはロイド! よろしく!」
アウラがぺこりと頭を下げる。ロイドは満足そうに頷いて、またボクに視線を戻した。
「ネルはしゃべれないの?」
頷く。
「そっか。じゃあ、うなずくのと、首ふるので話すんだね」
――(飲み込みが早い……)
「わかった! じゃあボクがいろいろきくね!」
――(質問攻めにしないでほしいんだけど……)
ロイドはそれから、次々と質問を投げかけてきた。好きな食べ物はあるか。夜は怖くないか。廃墟は寒くないか。どこから来たのか。魔法は使えるか。
ボクはそのひとつひとつに、頷いたり首を振ったりで答えた。答えられないものは、首を傾けて「わからない」を表現した。
ロイドはそのたびに「そっか!」と頷いて、また次の質問をする。
不思議な時間だった。
子どもと人形が、廃墟の入り口で向かい合って、身振りだけで会話をしている。傍から見たらどんな光景だろう。でもボクは、不思議と嫌ではなかった。
――(平穏……とは少し違うけど。悪くも、ない……かな)
ひとしきり質問を終えたロイドが、ふと思い出したように言った。
「そうだ。ネルってなまえ、ちゃんとしたなまえだよね?」
頷く。
「だれかにつけてもらった?」
ボクは少し考えてから、ロイドを指さした。
ロイドが目を丸くした。
「……ボクが?」
頷く。
「ボクがネルってつけたの?!」
頷く。力強く。
「……えへへ」
ロイドが照れたように笑った。頭を掻いて、少し俯いて、それからまたボクを見る。
「じゃあ、ちゃんとしたなまえだね。ネル」
――(うん。ちゃんとした名前だよ。ロイド)
ボクは静かに頷いた。
* * *
ロイドが帰っていったのは、昼過ぎのことだった。
「またくるね!」と手を振りながら森の中へ消えていく背中を見送りながら、ボクは小さくため息をついた。人形の体にため息機能はないが、気持ち的に。
――(また来る宣言をしていった……)
でも、止めることはできなかった。あの子の足は速く、意志は固い。そして何より、ボクにはあの笑顔を拒絶する気力がなかった。
廃墟に戻ろうとしたそのとき、森の奥から別の足音が聞こえた。
重い。しっかりした足音。
――(また来た……!)
ミネルバだった。
昨日と同じ装備で、昨日と同じ表情で、廃墟の入り口に立っている。ボクとアウラを見て、それから廃墟の中を覗き込んだ。
「……また来た」
――(見ればわかります……)
「昨日言いそびれたことがあって」
ミネルバがボクの前で腰を折り、目線を合わせてきた。間近で見ると、やはり迫力がある。でも昨日ほどの恐怖はなかった。なぜだろう。
「お前、名前はあるのか?」
ボクは頷いた。
「なんていう?」
ボクはアウラを見た。アウラが静かに口を開く。
「……ネル、様です」
ミネルバがその名を繰り返した。
「ネル……」
しばらく考えるような間があった。
「……変な名だな」
――(変って言わないでほしい……)
「でも、まあいい」
ミネルバが立ち上がった。ボクを見下ろして、腕を組む。
「ネル。お前のことは、まだ信用したわけじゃない。でも……あの娘を傷つけるつもりがないのはわかった。それだけだ」
――(……はい)
「俺はしばらくこの辺りに仕事で滞在する。何かあったら……まあ、来い。アウラを通じてでもいい」
――(何かあったら来い……? それはどういう……)
ミネルバはそれだけ言って、また踵を返した。去り際に、ぼそりと呟く。
「……掃除したのか。少しマシになったな、ここ」
――(ありがとうございます……)
大きな背中が、また森の中へと消えていった。
ボクは廃墟の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
敵ではない。でも味方でもない。
でも……「何かあったら来い」と言った。
――(これは……どういう関係なんだろう)
ボクにはよくわからなかった。人形になって以来、人間との関係というものを考えたことがなかった。ただ平穏に暮らしたかっただけだから。
でも今、ボクの周りには少しずつ、人の気配が増えていた。
ロイドという名の好奇心旺盛な男の子。
ミネルバという名の豪快な女冒険者。
そしてアウラ……意思のないはずの、白い人形。
――(平穏って、ひとりでいることだと思ってたけど……)
ボクは空を見上げた。雲ひとつない、青い空だった。
――(……まあ、いいか)
廃墟の中から、アウラがボクを見ていた。
白い瞳が、静かにボクを映していた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。「何かあったら来い」というミネルバの一言……ネルにとってどんな意味を持つのでしょうか。