廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
ひっそり暮らしたい。……そう願うネルが、今回ある決意をします。
それは、その願いと矛盾するようで――
【ネル視点】
砦ができてから、数日が過ぎた。
廃墟の…いつもの日常。ボクは奥の部屋で、人形作りをしている…糸を紡いで。森の入り口のほうからは、時々砦の兵士たちの賑やかな声が風に乗って届いてくる。
守られている。……そのあたたかさは、確かにある。
でも。
――(……なんだろう、この感じ)
胸の奥に何か…澱みたいなものが、ずっと沈んでいる。
* * *
「ネル様」
アウラがお茶を持ってきてくれた。ボクは口から飲むことはできないけれど、糸を伝わせて、そのほんのわずかな温もりと味だけは、感じ取ることができる。腹が満たされるわけでもない……ただ、あたたかいだけ。それでも、淹れてくれる。その気持ちが嬉しいんだ。
アウラは、森の入り口のほうに目を向けた。そして――ふわりと微笑んだ。
「……これで、安心できますね」
……。
純粋な言葉だった。ボクたちを守ってくれる…それが嬉しい。……ただ、それだけの。
――(……安心)
ボクは。
その言葉を、心の中で繰り返した。
――(……本当に、そうなのかな?)
* * *
安心。
……そう、なんだろうか。
ボクは、糸を紡ぐ手を止めた。
あの砦…村の人たちが、汗を流して建ててくれた木の砦。ウェイブが隊長を務めて守ってくれる。……ありがたい。本当に、ありがたいことなんだ。
でも――ボクは知っている。
あのザガンを。
ガリガリの体が、突然化け物みたいに膨れ上がって…あの力自慢のミネルバを、力で押し込んで。……あんな恐ろしいものが、この世にはいる。
――(あの砦は…あんなのが来ても……守れるのかな?)
木の柵と村の人たちと……そして、ウェイブ。
……無理だ。たぶん、無理だ。あんな化け物が来たら…あの砦はきっと、紙みたいに破られる。
* * *
それに――思い出す…あの戦いを。
ボクはあの時、何ができただろう…?
ヒナタを起動させた。奥の手の、戦闘に特化した人形……確かに強かった。あのザガンを追い詰めて倒しきれた。
でも――ほんの、数分。
たったそれだけだったのに、ボクの魔力は空っぽになった。ヒナタは糸が切れて、崩れ落ち…ボクは、そのまま三日も眠ってしまった。
――(……ヒナタ)
あの子は。あんなに立派に戦ってくれたのに。
――(……あんなに短い時間しか、動かしてあげられなかった)
もっとボクに力があれば、あの子をもっと長く動かしてあげられたのに。……ごめん、ヒナタ。ボクが未熟なばっかりに。
……。
ボクは、はっとした。
――(人形に謝るなんて…)
人形には意思なんてない。心なんてない……ボクが、そう作ったんだから。なのに、またどうしてこんな…「ごめん」なんて…?
――(……おかしいな、ボク)
* * *
もし。
……もし、あの日。
ミネルバと、ウェイブが倒されていたら。……ヒナタの起動が、間に合わなかったら。
ボクは。
廃墟の奥で震えながら、守ってくれる人たちが倒れていくのを…ただ、見ているしかできなかったかもしれない。
そして――ボクはザガンに捕まって、実験台にされて…。
――(……)
ぞっとした。心臓なんてないのに…背筋が凍るような。
あの日は、たまたま。……本当に、たまたま勝てただけ。ミネルバが生きていて、ヒナタが間に合って。……いくつもの偶然が、重なって。
――(……次も、そうとは限らない)
* * *
ボクは。
ずっと逃げてきた。隠れて、震えて…争いごとから目をそらして。「ひっそり暮らしたい」って、そればっかり。
……それは、今も変わらない。ボクは平穏がいいし、誰とも争いたくない。静かに、暮らしていたい。
でも。
――(……気づいてしまった)
守られるだけじゃ……いつか、必ず後悔する気がする。
大切なものが増えた。アウラにミネルバ…それに、ロイドや子どもたち。守ってくれる人たち……守りたいものが、こんなにも増えてしまった。
なのに、ボクは弱い。あまりにも弱い。
……次に何かが来たとき、また震えているだけなら……大切な誰かが傷ついてしまうかもしれない。ボクはまた「ごめん」って謝るしかないのかな…ヒナタにそうしたみたいに。
――(……いやだ)
それは、いやだ。
絶対に、いやだ。
――(ボクは……強く、ならなきゃ)
ひっそり暮らすために。この、ささやかな平穏を守るために……ボクは、戦う力を持たなきゃいけないんだ。
矛盾してる?…わかってるさ。平穏を望むボクが、戦う力を求めるなんて。
でも。……これが、ボクの答えだ。
* * *
その夜。
ボクは、ミネルバのところへ行った。
焚き火のそばで、ミネルバは斧を手入れしていた。
「ん? ……どうした、ネル?」
ボクは。
近くにあった紙に、文字を書いた。……以前までは上手くできなかったけど、ゆっくりと。でも、はっきりと。
――『ミネルバに、おねがいがある』
「おう。……なんだ?」
――『ボクに……たたかいかたを、おしえてほしい』
……。
ミネルバの手が、止まった。
橙色の目が、じっとボクを見つめる。
「……お前が。戦い方を、教えてくれ、だと?」
ボクは頷いた。
ミネルバは、しばらく黙っていた。ボクの目を―じっと見て。
その口が、何か言いかけて……止まった。
たぶん――「戦うってのは、傷つくことなんだぞ」とか、そういうことを言おうとしたんだと思う。……でも、ミネルバはそれを飲み込んだ。ボクの目の奥に、何かを見つけて。……もう、止めても無駄だってわかったみたいに。
そして。
ふっと――笑った。
「……いい顔になったじゃねえか」
――(……え?)
「前のお前なら、そんなこと言わなかっただろ。」ミネルバは立ち上がった。「……何があった?」
ボクは、また文字を書いた。
――『まもりたいものが、ふえたんだ』
……。
ミネルバは、その文字をじっと見て。
それから、スッと…ボクのシルクハットの上を撫でた。
「……そうか」
その声は。……なんだか、とても優しかった。
「わかった。俺が鍛えてやる……覚悟しろよ? 俺の稽古は、甘くねえぞ」
* * *
焚き火が、ぱちぱちと爆ぜる。
ボクは……たぶん、笑っていた。顔は動かないけど。この固定された笑みの、その奥で。
ずっと逃げてきたボクが。初めて――自分から、前に進もうとしている。
怖い。戦うのは、怖い。……でも。
――(守りたいんだ、この場所を。みんなを)
明日からボクは変わる。……ううん、変わってみせる。
夜空を見上げる。……閉じられない瞳に、多くの星が映った。
なんだか――ほんの少しだけ。前よりその光が……綺麗に、見えた気がした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
平穏を望みながら、戦う力を求める。
……その矛盾を抱えたネルの覚悟が、少しでも伝わったら嬉しいです