廃墟に潜む道化師人形は、ひっそり静かに暮らしたい 作:糸守ものち
「ここ、少し使っていいか?」
ミネルバがそう言ったのは、ある朝のことだった。
廃墟の入り口に立ったまま、ボクを見下ろして。いつもより少し、言いにくそうに。
――(使う……?)
「仕事の拠点にしたい。王都の宿は高いし、ここなら森の中だから魔物の出没を確認するのに都合がいい。……嫌なら断っていい」
最後の一言が少し早口だった。
――(嫌なら断っていい、か)
ボクは少し考えた。デメリットはある。ミネルバが頻繁に出入りするということは、それだけ廃墟の存在が人目につきやすくなる可能性がある。ただでさえアウラの街での目撃情報が少しずつ広まっているらしいのに。
でも。
――(ミネルバは……糸が見える。ボクの存在を知っている。それでも今まで誰にも言わなかった)
それはつまり、信頼できるということだ。たぶん。おそらく。
ボクはゆっくりと頷いた。
「……そうか」
ミネルバが小さく息を吐いた。安堵しているように見えた。
「じゃあ、邪魔する」
そう言いながらも、ミネルバは廃墟の隅の方に荷物を置いて、ボクから少し離れた場所に腰を落ち着けた。邪魔しない距離感を保ちながら、地図らしきものを広げて眺め始める。
――(……意外と気を遣う人なんだな)
ボクはそう思いながら、自分の作業に戻った。新しい人形の素材を選別する地味な仕事だ。アウラが街から持ち帰った布や木材の切れ端を、用途別に分類していく。
しばらく、廃墟の中に静かな時間が流れた。
ミネルバは地図を眺め、ボクは素材を選別し、アウラは窓際の花に水をやっている。
不思議な光景だとは思う。でも……悪くない。
――(平穏って、こういうことなのかもしれない)
そんなことを考えていたとき、ボクの意識がアウラに向いた。
アウラが花に水をやり終えて、廃墟の隅に積んである素材置き場の前に立っていた。そこから何かを取り出そうとしている。
――(何してる?)
ボクは意識を集中させた。アウラが取り出したのは、小さな布の切れ端だった。白くて柔らかい素材だ。それをていねいに折り畳んで……窓際の花瓶の下に敷いた。
――(……花瓶敷き?)
ボクは指示した覚えがない。アウラが自分の判断で……いや、だからそれは。
――(ボクが無意識に指示したのだ。きっとそうだ。そういうことにしておく)
でも、アウラの動きを見ていると、どうしても「そういうことにしておく」では片付けられない何かを感じる。指示を出した記憶がない。本当に、ない。
ミネルバがそれに気づいたのか、地図から目を上げてアウラを見た。
「……あの娘、自分で考えて動いてるのか?」
――(……どう答えればいいんだ)
ボクは少し迷ってから、首を傾けた。「わからない」という意味で。
「ふうん」
ミネルバはそれだけ言って、また地図に目を戻した。深く追及しないところが、ありがたかった。
アウラは花瓶の位置を少し調整して、満足したように……満足したように?……その場を離れた。
ボクはしばらく、その花瓶を見つめていた。
白い布の上に置かれた小さな花瓶。アウラが買ってきた草花。ロイドがくれた赤い木の実。
廃墟の窓際が、知らない間に少し、賑やかになっていた。
――(……意思がないはずなのに)
その言葉が、以前より少しだけ、自信なく聞こえた。
* * *
夕方、ミネルバが帰り支度を始めた。
荷物をまとめながら、ぼそりと言った。
「明日も来る。文句あるか?」
――(……文句はない)
ボクは首を横に振った。
「そうか」
ミネルバが立ち上がって、廃墟の出口へ向かった。去り際に、また振り返る。
「……ネル」
――(なに?)
「その花、悪くないな」
それだけ言って、大きな背中が廃墟の外へと消えた。
――(……悪くない、か)
ボクは窓際の花に目を向けた。夕暮れの光の中で、草花がやわらかく揺れていた。
アウラが静かにボクの隣に立っていた。
白い瞳が、花を見ている。
その瞳に何が映っているのか、ボクにはわからなかった。
ただ。
――(……まあ、悪くない。本当に)
廃墟の一日が、静かに終わっていった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。アウラの小さな行動、気になっていただけましたでしょうか。