ポストアポカリプス世界でTS少女になりました〜廃墟の聖女と呼ばれるまで〜   作:Naito

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第11話 名前と使者

 数日後。

 

 砦の空気を切り裂くように、見張り台から鐘の音が鳴り響いた。

 

 カンッ、カンッ、カンッ。

 

 変異獣の襲撃を知らせる乱打ではない。

 一定の短いリズムを刻むその音は、幹部たちを中央広場へ集める合図だった。

 

 救護所の中で、アキさんの手が止まる。

 

 ちょうど怪我人の腕に包帯を巻き終えたところだった。

 アキさんは結び目を確認し、小さく息を吐いてから、私の方を見る。

 

「ユキちゃん。一緒に行きましょう」

「……うん」

 

 私は立ち上がり、アキさんの手を取った。

 

 あの日、私の秘密を共有して以来、アキさんは少し変わった。

 

 前から優しかった。

 前から心配性だった。

 でも今は、不安な空気が少しでもあると、私を自分の視界から離そうとしない。

 

 手を繋ぐ力が、ほんの少しだけ強い。

 

(……そういう顔をしてる)

 

 吊り橋へ向かう前に、私はアキさんの横顔を見上げた。

 

 いつもの医療班の顔ではなかった。

 目の奥がかすかに鋭くなって、唇が一本の線になっている。

 

 何かを防ごうとしている時の、アキさんの顔だ。

 

 怖い顔。でも、怖くはなかった。

 理由はうまく言えない。

 

 ただ、そういう顔をしているアキさんも、私にとってはアキさんだった。

 それだけで、私は彼女の手をしっかり握り返していた。

 

* * *

 

 中央広場に着くと、巨大な鉄骨の足場には、すでに十数人の大人たちが集まっていた。

 

 見回り班。

 畑のまとめ役。

 水場の管理をしている老人。

 鍛冶場の男たち。

 

 みんな、いつもより声が低い。

 中心にいるのは、使い込まれたタクティカルベストを着込んだ地上班リーダーのザキさん。

 

 そしてその前で、ひどく静かな目をしたまま立っているのは、普段はあまり見張り台から降りてこないテツさんだった。

 近くに来ると、テツさんの服から変異昆布の塩気と、微かな泥の匂いがした。

 

「――それで?」

 

 ザキさんの低い声が、広場を押さえつける。

 

「北の連中が動いたのか?」

 

 テツさんは、ゆっくりと首を横に振った。

 

「違う。……南東だ」

 

 南東。

 その言葉だけで、周囲の大人たちがざわめいた。

 

 テツさんは続ける。

 

「あの『夢の国』の連中だよ」

 

 夢の国。

 その名前に、私はアキさんの白衣の裾を握った。

 

 江戸川を挟んだ向こう側。

 舞浜のテーマパーク跡地。

 

 あそこには、以前からそれなりの規模の生存者集団がいると聞いていた。

 

 時折、江戸川の漁場や物資探索で向こうの人間と出くわすことはあったらしい。

 でも、互いに深入りしない距離を保っていたはずだ。

 

「舞浜の連中か。また漁場に入り込んできたのか?」

「いや、いつもの物資探索じゃない」

 

 テツさんの声は低かった。

 

「橋を渡って、まっすぐこっちに向かってきてる。数は五十……いや、後続の荷車も合わせれば百近い」

「百だと?」

 

 誰かが息を呑んだ。

 

「完全に襲撃部隊じゃねぇか」

 

 ザキさんが目を細め、ライフルのスリングを握り込む。

 けれど、テツさんは首を横に振った。

 

「それが、襲撃って雰囲気じゃないんだ」

「どういう意味だ」

 

「全員が、綺麗な揃いの腕章をつけてた。足並みを揃えて、無言で歩いてる。先頭には旗まで掲げてやがった」

 

 広場に、重たい沈黙が落ちた。

 

 百人近い人間を外へ動かす。

 しかも、揃いの腕章をつけて、旗を掲げて、足並みを揃えて。

 

 この世界で、そんなことをする余裕がある。

 それは、ただ人数が多いというだけの話ではなかった。

 

 綺麗な布。

 揃った装備。

 外を移動できるだけの食料。

 命令を守らせるだけの規律。

 

 その全部が、『ダイヤの砦』とは違う種類の力を示していた。

 

 ザキさんの反応は、他の大人たちの戸惑いとは少し違っていた。

 彼は奥歯を噛みしめ、口角だけをわずかに歪める。

 綺麗すぎるものを信用しない顔だった。

 泥水をすすって生き延びてきた人間が、整いすぎたものの奥にある暴力を嗅ぎ取った顔。

 

「目的はなんだ」

「分からん」

 

 テツさんは短く答えた。

 

「だが、橋の上で先頭の奴と鉢合わせた時、俺は耳を疑った。連中、武器を抜くどころか、こっちに深々と一礼して、こう言ったんだ」

 

 広場の全員が、テツさんを見る。

 テツさんは一度だけ喉を鳴らした。

 

「我々は敵ではありません。『スズキさん』からの使者です、ってな」

 

 スズキさん。

 その単語が響いた瞬間、広場の空気が奇妙に歪んだ。

 アキさんも、他の大人たちも、一様に眉をひそめて顔を見合わせる。

 

「……スズキ?」

「あぁ。そう名乗った。そのスズキさんとやらが、直接こちらへ出向きたい。砦の代表者との対話の場を設けてほしいとよ」

 

 スズキさん。

 ただの名前のはずだった。

 なのに、背中が薄く冷える。

 

 私はアキさんの白衣の裾を、ぎゅっと握りしめる。

 アキさんの手が、そっと私の手の上に重なった。

 

 その時だった。

 

 ザキさんとテツさんの視線が、ほんの一瞬だけ空中で交差した。

 

「……上等だ」

 

 ザキさんが視線を外し、低く吐き捨てる。

 

「綺麗な言葉ほど、簡単に人を殺すもんだ。本当に敵じゃないのか、それともその綺麗事で俺たちの砦を丸呑みにしに来たのか」

 

 ザキさんは肩のライフルを軽く揺らした。

 

「そのスズキさんとやらを、出迎えてやろうじゃねぇか」

 

 遠く、南東の空から、重たい雲が流れ込んできていた。

 私が抱える魔法という内側の秘密とは、まったく別のもの。

 外からやって来る、異質なルールを持った集団。

 

 それが、すぐそこまで迫っていた。

 

* * *

 

 南東からスズキさんの使者がやって来る。

 

 その報せで、砦の大人たちは慌ただしく立ち働き始めた。

 

 ゲートの補強。

 弾薬の確認。

 見張り台の増員。

 対話の場になる中央広場の片付け。

 

 ザキさんの怒号が飛び、鉄骨の間を大人たちが走っていく。

 空気が、ぴりぴりと張り詰めていた。

 そんな大人たちの緊張を知ってか知らずか、居住区の片隅では、いつものように子供たちが遊んでいた。

 

 私は救護所の前で、薬草の仕分けをしていた。

 

 アキさんの目が届く場所。

 高いところから離れた場所。

 見張りの大人たちの邪魔にならない場所。

 

 最近、私の居場所はだいたいそういうところに決まっている。

 

「あっ! ユキおねえちゃん!」

 

 ふいに、元気な声が聞こえた。

 顔を上げると、数日前に高熱を下げた、あの小さな女の子が走ってくるところだった。

 

 六歳くらいの、細い三つ編みの子だ。

 昨日より顔色がよくて、足取りもしっかりしている。

 

「走るところぶよ」

「だいじょうぶ!」

 

 だいじょうぶ、はだいたい信用できない。

 アキさんに言われてから、私も少しだけそう思うようになっていた。

 

 女の子は私の前にしゃがみ込むと、小さな手のひらを差し出した。

 

「これ、あげる!」

 

 その手の中にあったのは、どこかの廃墟で見つけてきたのだろう、少し欠けたビー玉だった。

 透明なガラスの中に青と白の筋が入っている。

 太陽の光を受けて、きらりと光った。

 

「おねえちゃん、いつもやさしいから。おれい!」

 

 女の子は満面の笑みでそう言った。

 私は、受け取ったビー玉を手のひらで転がした。

 

 光が通る。

 小さな青が、私の手のひらに落ちる。

 

「……きれい」

「えへへ、よかった」

 

 女の子が笑った。

 気づけば、私も笑っていた。

 

(……なぜ私も、えへへ、の顔になっているんだ)

 

 そう思ったけれど、嫌ではなかった。

 

「ありがとう。すっごく、綺麗だね」

 

 私はビー玉を大切にポケットへしまい、女の子の頭をそっと撫でた。

 女の子はくすぐったそうに肩をすくめる。

 

「またね、ユキおねえちゃん!」

「うん。またね」

 

 女の子は友達の輪へ戻っていった。

 その後ろ姿を見送りながら、私はポケットの上からビー玉に触れた。

 

(おねえちゃん、か……)

 

 数週間前の私なら、頭の中で即座にツッコミを入れていただろう。

 

 いやいや、中身はアラフォーのおっさんだから。

 お姉ちゃんじゃないから。

 女の子でも、ユキでもないから。

 

 そう訂正しようとして――。

 言葉が、出なかった。

 

 本当の名前って、なんだっけ。

 

 自分が三十代か四十代の男だったことは、知識として残っている。

 壊れる前の東京も、コンビニの塩むすびも、銃の感触も覚えている。

 

 でも、その顔。

 声。

 名前。

 誰かに呼ばれていたはずの自分。

 

 そこだけが、霧の中に沈んでいる。

 それなのに。

 

 この小さな女の子から「おねえちゃん」と慕われたこと。

 ビー玉をもらったこと。

 頭を撫でて、またねと言ったこと。

 

 その温かさは、はっきりと胸に残っていた。

 

(……おかしい)

 

 おかしい。でも、怖くない。

 最近、そういうことが増えている。

 

 私はポケットの中のビー玉を、もう一度だけ指先で転がした。

 

* * *

 

 その日の夜。

 

 救護所のゴンドラには、いつも通りの静けさと、アキさんの石鹸の匂いが満ちていた。

 

 外では見張りの大人たちの足音が、いつもより多く聞こえる。

 遠くでザキさんの低い声がして、誰かが短く返事をした。

 

 明日、夢の国から使者が来る。

 その事実が、夜の空気を少しだけ重くしていた。

 

 ランプの淡い灯りの下で、アキさんは私の破れたズボンの裾を繕っていた。

 私はその隣で、膝を抱えて座っている。

 

 ポケットには、昼間にもらったビー玉が入っていた。

 

「……明日、来るみたいね。舞浜からの使者たち」

 

 針を動かしながら、アキさんが静かに言った。

 

「うん」

 

 私は小さく頷く。

 

 砦の大人たちが、スズキさんという名前に抱いた違和感。

 綺麗な腕章。

 旗。

 百人近い列。

 

 それらは、魔法という秘密を抱える私にとって、ただの縄張り争い以上に、得体の知れない脅威として映っていた。

 

 アキさんは針を止めた。

 

「大丈夫よ」

 

 そう言って、こちらを見る。

 

「どんな人たちが来て、何を要求してきても、私はあなたを守るから」

 

 アキさんの声は穏やかだった。

 でも、それはただ安心させるためだけの声ではなかった。決めている人の声だった。

 

「ここは、安全だからね」

 

 私は返事をしようとして、うまく声が出なかった。

 安全。

 その言葉に、胸の奥が少しだけ痛む。

 

 私の秘密は、もうアキさんが知っている。

 私を守ると、アキさんは言ってくれた。

 

 でも、外から来る人たちは知らない。

 スズキさんという人は知らない。

 この世界で私の力がどう扱われるかも、まだ分からない。

 

 アキさんは針を置き、わずかに躊躇うように伏し目がちになった。

 それから、そっと私の小さな手を握る。

 

「あのね」

「……?」

「最近、ずっと思ってたことがあるの」

 

 アキさんの手が、少しだけ緊張している。

 

「これからは、ユキって呼んでもいいかな」

 

 私は瞬きをした。

 

「……ちゃん付け、じゃなくて?」

「ええ」

 

 アキさんは照れくさそうに笑った。

 

「ユキちゃんって呼ぶと、どうしても迷子のお客さんみたいでしょう?」

 

 迷子のお客さん。

 その言葉に、少しだけ胸が詰まった。

 

 たしかに、最初の私はそうだった。

 銃を向けられて泣いて、スープをもらって、名前も分からないまま保護された子供。

 

 外から来た、迷子。

 

「でも、今は違うわ」

 

 アキさんは私の手を包み直す。

 

「私、あなたのこと、本当の家族みたいに思ってるの」

 

 家族。

 その言葉が、胸の中にすとんと落ちた。

 

 重いのに、痛くない。

 不思議な響きだった。

 

「だから、もっと近くで、あなたの名前を呼びたいなって」

 

 あなたの名前。

 ユキ。

 

 それは、私が咄嗟につけた名前だった。

 銀色の髪から連想しただけの、今の身体に合いそうな女の子の名前。

 

 嘘の名前。

 仮の名前。

 

 そう思っていたはずだった。

 

 けれど、リクたちはユキと呼ぶ。

 ナナも、ハルも、あの小さな女の子も。

 ザキさんでさえ、時々おチビちゃんの代わりにユキと呼ぶようになった。

 

 そして、アキさんが今、その名前を家族の距離で呼びたいと言っている。

 

 頭の奥で、霧の向こうにいる昔の自分が、何かを言おうとした気がした。

 

 やめろ。

 それはお前の名前じゃない。

 そんな声だったのかもしれない。

 

 でも、その声は遠かった。

 

 目の前には、私を守ると言ってくれたアキさんがいる。

 昼間には、「ユキおねえちゃん」と笑ってくれた女の子がいた。

 ポケットには、もらったビー玉が入っている。

 

(家族、か)

 

 繰り返すと、その言葉の重さが少しだけ変わった気がした。

 

 アキさんのことが好きだ。

 そばにいると安心する。

 いなくなると、待ってしまう。

 戻ってくると、ほっとする。

 

 そういうことを、家族というのかもしれない。

 

「……うん」

 

 私は、アキさんの手を両手で握り返した。

 

「ユキって、呼んで」

 

 少しだけ声が震えた。

 

「……アキさん」

 

 アキさんは目を細めた。

 泣きそうな、でも嬉しそうな顔だった。

 

「ユキ」

 

 初めて、ちゃん付けのない名前で呼ばれた。

 胸の奥が、きゅっとする。

 

 痛くはない。

 でも、苦しいくらい温かい。

 

「……はい」

 

 返事をしてから、顔が熱くなった。

 

 アキさんは私をそっと抱き寄せる。

 そして、くすんだ銀色の髪を何度も優しく撫でてくれた。

 

「おやすみ、ユキ」

「……おやすみ、アキさん」

 

 外の世界には、得体の知れない巨大な嵐が迫っている。

 明日になれば、この砦の空気はきっと変わる。

 でも、この小さなゴンドラの中だけは、まだ静かだった。

 

 アキさんの体温。

 石鹸の匂い。

 ポケットの中のビー玉。

 私を呼ぶ、ユキという名前。

 

 その全部が、私が自分の意思で選び、何があっても守りたいと願う、本当の居場所になっていた。




次回「スズキさんが来る」
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